殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

文字の大きさ
10 / 69

第10話:残された刻印

しおりを挟む
 馬車がガタゴトと音を立てて、石畳の街道を進んでいきます。
 窓の外を流れる王都の景色は、朝靄に包まれて幻想的でしたが、私にとっては過去の遺物に過ぎません。

「……随分と機嫌が良さそうだな。故郷を追われたというのに」

 向かいの席に座る辺境伯、マックス様が不思議そうな顔で私を見ていました。
 彼は無骨な鎧を身につけていますが、その瞳には理知的な光が宿っています。
 私が泣き言を言わない令嬢であることが、彼にとっては新鮮なようです。

「ええ。とても清々しい気分ですわ。それに、王都には私のをしっかりと刻み込んでおきましたから」

「生きた証? ……ああ、あの屋敷のことか?」

 マックス様が、遠ざかる建設中の新居の方角へ顎をしゃくりました。

「ですが、あそこはもうレイモンド王太子のものだろう? 君が設計に関わったという記録も、彼なら握り潰して、自分が考えたと吹聴しかねない」

「ふふ、仰る通りです。殿下は見栄っ張りですから、きっと『この美しいデザインは私が考案した』と宣伝するでしょうね」

 私は膝の上で手を組み、意地悪く微笑みました。

「ですが、それが私の狙いです」

「どういうことだ?」

「お嬢様、また何か仕掛けたんですか? 今度は爆発するとか?」

 隣で干し肉をかじっていたロッテが、怯えたように身を引きました。

「爆発なんて野蛮なことはしません。……サインを残したのです」

 私は窓ガラスに息を吹きかけ、指で文字を書きました。

「かつて石工たちは、自分が加工した石に独自の刻印を打ちました。それは仕事への誇りであり、給金を受け取るための証明でもありました。私はそれを、もっと構造的な形で組み込んだのです」

「構造的な形?」

「ええ。例えば、あの屋敷のメインバルコニー。殿下とシルヴィア様が民衆に手を振るための、最も目立つ場所です」

 私は空中に指で図形を描きました。

「あのバルコニーの手すりは、鉄を曲線加工した美しいロートアイアン(鍛鉄)で作られています。植物のツタを模した優雅なデザインですが……、その曲線の組み合わせをよく見ると、ある文字が浮かび上がるように設計しました」

 唐草模様のように絡み合う鉄の曲線。
 一見するとただの装飾ですが、ある角度から見ると、それは明確に二つのアルファベットを描き出しています。

「『J』と『V』。……ジュリアンナ・フォン・ヴィクトルの頭文字です」

 マックス様が目を見開きました。

「まさか……。あいつらが毎日手を振るバルコニーが、君の名前になっているのか?」

「はい。しかも、ただの飾りではありません。その『J』と『V』の形状自体が、バルコニーの荷重を支えるトラス(三角形)の一部として機能しているのです。つまり、その文字を削り取ろうとすれば、バルコニーごと崩落します」

 これぞ、構造一体型著作権表示。
 デザインと構造を不可分にすることで、署名の抹消を物理的に不可能にしたのです。

「ぷっ……、あははは!」

 ロッテが吹き出しました。

「すごいですお嬢様! つまり、あの王子様たちは、『私はジュリアンナの手のひらの上にいます!』って書いてある柵の中で、毎日偉そうにふんぞり返るってことですね!?」

「ええ、その通りです。彼らが私の悪口を言えば言うほど、彼らを支えているのが私であるという皮肉な構図が完成します」

 マックス様も、堪えきれないように口元を歪め、そして低く笑いました。

「くくっ……。恐ろしい女だ。彼らが『自分たちでデザインした』と主張すればするほど、将来その事実が発覚した時、言い逃れができなくなるわけか」

「はい。もし彼らが『自分たちの独創だ』と言い張るなら、『ではなぜ、あなたの独創的なデザインの中に、元婚約者のイニシャルが構造材として組み込まれているのですか?』と問われた時、彼らは詰みます」

 盗作の証拠は、消せない場所に、消せない形で刻まれている。
 彼らがその屋敷に住み続ける限り、私の名前は彼らの生活を支え続け、そしていつか、彼らの嘘を暴く決定的なナイフとなるでしょう。

「……俺は、とんでもない才女を拾ってしまったようだな」

 マックス様は、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに私を見つめました。

「安心しろ。辺境の開拓では、君の名前を隠す必要はない。好きなだけ、俺の領地に君の刻印を刻んでくれ」

 その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、私の胸をときめかせました。

「はい、マックス様。……辺境を、私のイニシャルで埋め尽くす勢いで設計させていただきますわ」

「お手柔らかに頼むよ」

 馬車は峠を越え、王都は完全に見えなくなりました。
 私の署名が刻まれた檻の中で、あの二人がどのような喜劇を演じるのか。
 それはもう、遠い国の物語です。

 目の前には、広大な大地と、白紙の図面(これから)が待っています。

「さあ、ロッテ。おやつの時間はおしまいです。地質図を広げなさい。最初の仕事は、泥沼の街道を舗装することですよ」

「はいっ! お嬢様!」

 私たちの馬車は、希望という名の新しい基礎に向かって、軽やかに加速していきました。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】前代未聞の婚約破棄~なぜあなたが言うの?~【長編】

暖夢 由
恋愛
「サリー・ナシェルカ伯爵令嬢、あなたの婚約は破棄いたします!」 高らかに宣言された婚約破棄の言葉。 ドルマン侯爵主催のガーデンパーティーの庭にその声は響き渡った。 でもその婚約破棄、どうしてあなたが言うのですか? ********* 以前投稿した小説を長編版にリメイクして投稿しております。 内容も少し変わっておりますので、お楽し頂ければ嬉しいです。

「予備」として連れてこられた私が、本命を連れてきたと勘違いした王国の滅亡フラグを華麗に回収して隣国の聖女になりました

平山和人
恋愛
王国の辺境伯令嬢セレスティアは、生まれつき高い治癒魔法を持つ聖女の器でした。しかし、十年間の婚約期間の末、王太子ルシウスから「真の聖女は別にいる。お前は不要になった」と一方的に婚約を破棄されます。ルシウスが連れてきたのは、派手な加護を持つ自称「聖女」の少女、リリア。セレスティアは失意の中、国境を越えた隣国シエルヴァード帝国へ。 一方、ルシウスはセレスティアの地味な治癒魔法こそが、王国の呪いの進行を十年間食い止めていた「代替の聖女」の役割だったことに気づきません。彼の連れてきたリリアは、見かけの派手さとは裏腹に呪いを加速させる力を持っていました。 隣国でその真の力を認められたセレスティアは、帝国の聖女として迎えられます。王国が衰退し、隣国が隆盛を極める中、ルシウスはようやくセレスティアの真価に気づき復縁を迫りますが、後の祭り。これは、価値を誤認した愚かな男と、自分の力で世界を変えた本物の聖女の、代わりではなく主役になる物語です。

もう散々泣いて悔やんだから、過去に戻ったら絶対に間違えない

もーりんもも
恋愛
セラフィネは一目惚れで結婚した夫に裏切られ、満足な食事も与えられず自宅に軟禁されていた。 ……私が馬鹿だった。それは分かっているけど悔しい。夫と出会う前からやり直したい。 そのチャンスを手に入れたセラフィネは復讐を誓う――。

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

彼女の離縁とその波紋

豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。 ※子どもに関するセンシティブな内容があります。

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

愛しの第一王子殿下

みつまめ つぼみ
恋愛
 公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。  そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。  クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。  そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。

処理中です...