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第11話:庭園のエントロピー
(※王都・庭師ハンス視点)
「おい、どうなっているんだ! 朝の水やりはまだ終わっていないのか!」
怒号が飛び交う中、私は頭を抱えてしゃがみ込んでいた。
ここは王太子の新居に併設された、空中庭園と呼ばれる自慢の庭だ。
いつもなら、この時間はスプリンクラーから美しい霧が噴き出し、七色の虹がかかっているはずだった。
しかし今朝、ノズルから出ているのは、情けないポタ……、ポタ……という水滴だけだ。
「と、棟梁! ダメです! メインバルブを開いても水圧が上がりません!」
「バカ野郎! サブバルブのB3とC4を調整しろと言っただろう!」
「それが……、そのB3がどれなのか、分からないんです!」
若い庭師が泣きそうな顔で叫んだ。
私は舌打ちをして、管理小屋へと走った。
壁に掛けてあったはずの配管管理図がない。
机の上にあったはずの日次メンテナンス指示書もない。
棚に並んでいたバルブ開閉手順マニュアルも、すべて消え失せていた。
あるのは、埃一つない空っぽの棚だけ。
「……まさか、全部持って行ったのか?」
昨日まで、ここにはジュリアンナ様がいた。
彼女は毎日、まるで実験レポートのような細かい指示書を私たちに渡していた。
『今日の気温は二十五度、湿度は六十%。蒸散量を考慮し、第三区画への給水圧は二・五バールに設定。ただし、薔薇の根腐れを防ぐため、十四時には排水ゲートAを開放すること』
私たちは正直、煙たがっていた。
水やりなんて、土が乾いたらやればいいだろう、と……。
だが、彼女の言う通りにすると、不思議と花は咲き誇り、噴水は音楽のように正確に水を噴き上げた。
私たちはそれを、俺たちの腕がいいからだ、と勘違いしていたのだ。
「おい! なんだこの泥水は!」
庭の方から、ヒステリックな声が聞こえた。
慌てて戻ると、寝間着姿のレイモンド殿下とシルヴィア様が立っていた。
足元には、水たまりができている。
「あ、ああ……、殿下! 申し訳ありません、排水管が逆流したようで……」
「逆流だと? 今までそんなこと一度もなかっただろう! 早く直せ! シルヴィアとの朝のティータイムが台無しではないか!」
殿下が革靴で地面を蹴る。
その衝撃で、足元のレンガがカタリと揺れた。
「と、言われましても……。地下の配管がどうなっているのか、図面がないと……」
「図面? そんなもの、掘ればわかるだろう! たかが水だぞ!」
たかが水。
その言葉を聞いた瞬間、私は背筋が寒くなった。
この空中庭園は、埋立地の軟弱な地盤の上に盛土をして作られている。ジュリアンナ様は「地下水位の制御(コントロール)こそが、この庭の生命線だ」と口酸っぱく言っていた。
複雑なサイフォン構造と暗渠排水によって、ギリギリのバランスで成り立っている人工の楽園なのだ。
その制御方法を知る唯一の人間を、この男は追い出したのか。
「きゃっ! 何これ、臭い!」
シルヴィア様が鼻をつまんだ。
逆流した水から、ドブのような腐敗臭が漂い始めていた。
澱んだ水が、行き場を失って溢れ出しているのだ。
私は空っぽになった管理小屋を思い出し、絶望的な気分になった。
指示書(コンダクター)のいないオーケストラ。
設計図のない迷路。
かつてジュリアンナ様は、作業中の私にこう言ったことがある。
『ハンス、放っておけば物は壊れ、水は濁ります。これをエントロピーの増大と言います。世界は常に無秩序へと向かおうとする。それを食い止めるのが、私たちの仕事(メンテナンス)です』
彼女という秩序の守護者がいなくなった今、この庭は急速に無秩序へと転がり落ちていく。
たった一日でこれだ。
一週間後には、ここは腐った沼になるだろう。
「な、何をボサッとしている! 庭師なら意地を見せろ!」
殿下の怒鳴り声が遠くに聞こえる。
私は泥水に濡れたブーツを見つめながら、心の中でつぶやいた。
無理です、殿下。
私たちはお手上げです……。
*
「……くしゅん!」
馬車の中で、私はくしゃみをした。
「おや、風邪か? 北の風は冷えるからな」
マックス様が心配そうに毛布を差し出してくださる。
私は眼鏡を拭きながら首を振った.
「いいえ。おそらく、王都の庭師たちが私の噂をしているのでしょう。『あの細かい指示書が恋しい』と泣いている姿が目に浮かびますわ」
「指示書、ですか?」
ロッテが干し肉をかじりながら首を傾げる。
「ええ。あの庭園は、私が毎日エントロピーと戦っていた戦場でしたから」
「エントロピー……。また新しい必殺技ですか?」
「ふふ、そうね。簡単に言えば、部屋は片付けないと勝手に散らかるという宇宙の法則よ」
私は窓の外、流れる雲を見上げた。
「建物も庭も、人間関係も同じです。エネルギーを注ぎ、手入れをし続けなければ、自然と崩壊に向かうのです。……殿下たちは、一度作れば永遠に美しいままだと信じているようですが」
「あー、わかります! 掃除サボると、すぐ綿埃の妖精さんが出てきますもんね!」
「ええ。そして私のいなくなったあの屋敷では、今頃、妖精どころか腐敗の魔物が産声を上げている頃でしょう」
私は手帳を開き、新しいページに『辺境開発計画』と書き込んだ。
「さあ、忘れましょう。崩れゆく過去よりも、これから築く未来のほうが、ずっと建設的ですもの」
馬車は速度を上げ、私たちを乗せて北へとひた走る。
私の背後で、王都の美しさが音を立てて崩れ始めていることを知りながら、私は一度も振り返らなかった。
「おい、どうなっているんだ! 朝の水やりはまだ終わっていないのか!」
怒号が飛び交う中、私は頭を抱えてしゃがみ込んでいた。
ここは王太子の新居に併設された、空中庭園と呼ばれる自慢の庭だ。
いつもなら、この時間はスプリンクラーから美しい霧が噴き出し、七色の虹がかかっているはずだった。
しかし今朝、ノズルから出ているのは、情けないポタ……、ポタ……という水滴だけだ。
「と、棟梁! ダメです! メインバルブを開いても水圧が上がりません!」
「バカ野郎! サブバルブのB3とC4を調整しろと言っただろう!」
「それが……、そのB3がどれなのか、分からないんです!」
若い庭師が泣きそうな顔で叫んだ。
私は舌打ちをして、管理小屋へと走った。
壁に掛けてあったはずの配管管理図がない。
机の上にあったはずの日次メンテナンス指示書もない。
棚に並んでいたバルブ開閉手順マニュアルも、すべて消え失せていた。
あるのは、埃一つない空っぽの棚だけ。
「……まさか、全部持って行ったのか?」
昨日まで、ここにはジュリアンナ様がいた。
彼女は毎日、まるで実験レポートのような細かい指示書を私たちに渡していた。
『今日の気温は二十五度、湿度は六十%。蒸散量を考慮し、第三区画への給水圧は二・五バールに設定。ただし、薔薇の根腐れを防ぐため、十四時には排水ゲートAを開放すること』
私たちは正直、煙たがっていた。
水やりなんて、土が乾いたらやればいいだろう、と……。
だが、彼女の言う通りにすると、不思議と花は咲き誇り、噴水は音楽のように正確に水を噴き上げた。
私たちはそれを、俺たちの腕がいいからだ、と勘違いしていたのだ。
「おい! なんだこの泥水は!」
庭の方から、ヒステリックな声が聞こえた。
慌てて戻ると、寝間着姿のレイモンド殿下とシルヴィア様が立っていた。
足元には、水たまりができている。
「あ、ああ……、殿下! 申し訳ありません、排水管が逆流したようで……」
「逆流だと? 今までそんなこと一度もなかっただろう! 早く直せ! シルヴィアとの朝のティータイムが台無しではないか!」
殿下が革靴で地面を蹴る。
その衝撃で、足元のレンガがカタリと揺れた。
「と、言われましても……。地下の配管がどうなっているのか、図面がないと……」
「図面? そんなもの、掘ればわかるだろう! たかが水だぞ!」
たかが水。
その言葉を聞いた瞬間、私は背筋が寒くなった。
この空中庭園は、埋立地の軟弱な地盤の上に盛土をして作られている。ジュリアンナ様は「地下水位の制御(コントロール)こそが、この庭の生命線だ」と口酸っぱく言っていた。
複雑なサイフォン構造と暗渠排水によって、ギリギリのバランスで成り立っている人工の楽園なのだ。
その制御方法を知る唯一の人間を、この男は追い出したのか。
「きゃっ! 何これ、臭い!」
シルヴィア様が鼻をつまんだ。
逆流した水から、ドブのような腐敗臭が漂い始めていた。
澱んだ水が、行き場を失って溢れ出しているのだ。
私は空っぽになった管理小屋を思い出し、絶望的な気分になった。
指示書(コンダクター)のいないオーケストラ。
設計図のない迷路。
かつてジュリアンナ様は、作業中の私にこう言ったことがある。
『ハンス、放っておけば物は壊れ、水は濁ります。これをエントロピーの増大と言います。世界は常に無秩序へと向かおうとする。それを食い止めるのが、私たちの仕事(メンテナンス)です』
彼女という秩序の守護者がいなくなった今、この庭は急速に無秩序へと転がり落ちていく。
たった一日でこれだ。
一週間後には、ここは腐った沼になるだろう。
「な、何をボサッとしている! 庭師なら意地を見せろ!」
殿下の怒鳴り声が遠くに聞こえる。
私は泥水に濡れたブーツを見つめながら、心の中でつぶやいた。
無理です、殿下。
私たちはお手上げです……。
*
「……くしゅん!」
馬車の中で、私はくしゃみをした。
「おや、風邪か? 北の風は冷えるからな」
マックス様が心配そうに毛布を差し出してくださる。
私は眼鏡を拭きながら首を振った.
「いいえ。おそらく、王都の庭師たちが私の噂をしているのでしょう。『あの細かい指示書が恋しい』と泣いている姿が目に浮かびますわ」
「指示書、ですか?」
ロッテが干し肉をかじりながら首を傾げる。
「ええ。あの庭園は、私が毎日エントロピーと戦っていた戦場でしたから」
「エントロピー……。また新しい必殺技ですか?」
「ふふ、そうね。簡単に言えば、部屋は片付けないと勝手に散らかるという宇宙の法則よ」
私は窓の外、流れる雲を見上げた。
「建物も庭も、人間関係も同じです。エネルギーを注ぎ、手入れをし続けなければ、自然と崩壊に向かうのです。……殿下たちは、一度作れば永遠に美しいままだと信じているようですが」
「あー、わかります! 掃除サボると、すぐ綿埃の妖精さんが出てきますもんね!」
「ええ。そして私のいなくなったあの屋敷では、今頃、妖精どころか腐敗の魔物が産声を上げている頃でしょう」
私は手帳を開き、新しいページに『辺境開発計画』と書き込んだ。
「さあ、忘れましょう。崩れゆく過去よりも、これから築く未来のほうが、ずっと建設的ですもの」
馬車は速度を上げ、私たちを乗せて北へとひた走る。
私の背後で、王都の美しさが音を立てて崩れ始めていることを知りながら、私は一度も振り返らなかった。
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