殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第13話:泥沼の立ち往生

「……あら」

 私の口から漏れたのは、ティーカップを落とした時のような軽い声でした。
 しかし、現実は陶器が割れるよりも少しばかり厄介でした。

 不快な音と共に、馬車の車体が大きく右に傾きました。
 窓の外の景色が斜めになり、向かいの席にいたロッテが「ひゃああ!」と悲鳴を上げて、床に転げ落ちます。

「と、止まってくれ!」

 御者台のマックス様の叫び声と、馬のいななき。
 馬車は数回ガタガタと震えた後、完全に沈黙しました。
 まるで底なし沼に飲み込まれた巨象のように、ピクリとも動きません。

「……スタックしましたわね」

 私は冷静に状況を判断し、傾いた座席から手すりを掴んで立ち上がりました。

「お、お嬢様ぁ……。窓の外、地面がありません。ドロドロのスープみたいですぅ」

「スープではありません、ロッテ。これは、含水比の極めて高い粘性土です」

 扉が開きました。
 泥だらけのブーツを履いたマックス様が、青ざめた顔で覗き込みます。

「すまない、ジュリアンナ嬢! 怪我はないか!?」

「ええ、私たちは無事です。それより、車輪の状態は?」

「……最悪だ。右の後輪が、車軸まで泥に埋まった。この辺りは魔の泥炭地と呼ばれていて、雪解け水が地下に滞留しやすいんだ。一度ハマると、馬の力だけじゃ抜け出せない」

 マックス様は悔しそうに拳を握りしめました。

「俺の不手際だ。君を……、公爵令嬢を、こんな汚い泥の中に閉じ込めてしまうなんて」

 彼は辺境の貧しさとインフラの未熟さを、自分の恥のように感じているようです。
 しかし、私は眼鏡の位置を直し、ニッコリと笑いかけました。

「閉じ込められた? いいえ、マックス様。これはフィールドワーク(現地調査)の絶好の機会ですわ」

「は?」

 止めるのも聞かず、私はドレスの裾をたくし上げ、馬車から飛び降りました。

「ちょ、お嬢様! ドレスが汚れます!」

「構いません。泥の成分分析のほうが先決です」

 私はズブ、と音を立てて泥に足を沈めました。

 確かに酷い状態です。
 足首まで埋まるほどの粘土質の泥。
 歩くたびにネチャと音がして、靴が吸い付かれます。

 普通の令嬢なら気絶する状況でしょう。
 でも、私はしゃがみ込み、その泥を素手で掬い上げました。
 そして、指でこねて、粘り気を確かめます。

「……ふむ。粒子が細かく、粘着性が高い。シルト質の粘土ですね。これでは排水性が皆無です。雨が降るたびに道路が川になるのも当然ですわ」

 私は立ち上がり、周囲の地形を見渡しました。

 ここは谷あいの窪地。
 水が集まりやすい地形です。
 しかし、私の目は泥ではなく、その脇に広がる崖の方角に釘付けになりました。

「……マックス様。あそこの白い崖、あれは何ですか?」

「あれか? あれはただの脆い岩山だ。石材としても柔らかすぎて使えない、役立たずの山だよ」

「役立たず……?」

 私は思わず吹き出しそうになりました。
 
 遠目に見ても分かります。
 あれは純度の高い石灰岩(ライムストーン)です。

「では、その手前にある、灰色で少し黒ずんだ砂のような丘は?」

「ああ、あれは昔の火山噴火で積もった灰だ。風で飛んでくるから厄介者扱いされている」

「厄介者……!」

 私の体温が一度上がりました。

 石灰岩。
 そして火山灰。
 さらに足元には、水を含んだ粘土。

 必要なマテリアル(材料)が、まるで料理時のように全てテーブルの上に揃っているではありませんか。

「マックス様、これは奇跡ですわ」

「奇跡? 何言ってるんだ、遭難の一歩手前だぞ。……すまないが、俺は近くの村まで走って牛を借りてくる。半日ほどかかるが、馬車の中で待っていてくれ」

 マックス様が責任を感じて走り出そうとします。
 私は慌ててそのマントの裾を掴みました。

「待ってください。牛なんて呼ぶ必要はありません」

「しかし、この泥から馬車を出すには……」

「馬車を引っ張り出すのではありません」

 私は泥だらけの手で、目の前のドロドロの道を指差しました。

「この道そのものを、カチカチの石に変えてしまえばいいのです」

「……は?」

 マックス様も、窓から顔を出していたロッテも、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしています。

「お嬢様、頭打ちましたか? 泥は泥ですよ? 魔法使いじゃあるまいし、石になんてなりませんよ」

「いいえ、ロッテ。魔法ではありません。化学反応です」

 私はワクワクしながら、白い崖と灰色の丘を交互に見ました。

 古代の帝国が、二千年経っても崩れない街道や水道橋を作れた理由。
 それは彼らがローマン・コンクリートの製法を知っていたからです。

 そしてその材料は、まさに今、私たちの目の前に無造作に転がっているたちなのです。

「マックス様、馬車に積んだ荷物の中から、スコップとバケツ、それから予備の水樽を出してください」

「え、あ、ああ。道具ならあるが……、何をするつもりだ?」

 私は作業用手袋(ドレスに不釣り合いな革手袋)をはめ、不敵に笑いました。

「クッキングの時間ですわ。今からこの泥沼を、王都の大理石よりも硬い舗装道路に作り変えてみせます」

「……本気か?」

「大本気です。さあ、ロッテも手伝いなさい! まずはあの白い岩を砕いて焼きますよ!」

「えええーっ! おやつ食べる時間ないんですかぁ!?」

 ここは、建設予定地です。
 辺境の泥に足を取られた私は、そこで歴史を変える灰色の粉を精製し始めました。

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