殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第16話:泥水の味

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「……これは、紅茶ではありませんわね」

 アイゼンガルド城のダイニングルーム。
 長旅の疲れを癒やすための夕食の席で、私はカップの中身を凝視していました。

 出された液体は、紅茶色というよりは、薄めた土色をしていました。
 香りも茶葉の芳醇さはなく、どこか鉄錆と腐葉土のような臭いが鼻をつきます。

「すまない、ジュリアンナ。今年の雪解け水は特に泥が混じっていてな。布で何度も漉してはいるんだが、微細な粒子までは取りきれないんだ」

 マックス様が、申し訳なさそうに眉を下げました。
 彼のグラスに入っている水も同様に濁っています。

「うぅ……。お嬢様、私のお腹、カミナリ様が住み着いたみたいです……ゴロゴロ言ってます」

 隣の席では、ロッテが青い顔をしてお腹を押さえていました。
 彼女は到着直後、喉の渇きに耐えきれず、出された水をガブ飲みしてしまったのです。

「ロッテ、大丈夫ですか? これはただの泥水ではありません。微生物や細菌が含まれている可能性があります」

 私は即座に、自分のカップを遠ざけました。
 人間が生きていく上で、最も重要なインフラは水です。
 食料がなくても数日は生きられますが、水が悪ければ一週間で病が蔓延し、都市は死に絶えます。

「マックス様。この城の水源はどちらですか?」

「裏手にある川だ。山から流れてくる水を水路で引いている」

「案内してください。……食事はお預けです」

 私はナプキンを置き、立ち上がりました。

「えっ? 今からか? もう日が暮れるぞ」

「水質汚染は待ってくれません。ロッテ、あなたはトイレの近くで待機していなさい。マックス様、行きましょう!」

 城の裏手には、雪解け水を湛えた川が流れていました。
 松明の明かりに照らされた水面は、確かに濁っています。
 上流からの土砂流入が原因でしょう。

「これでは、いくら布で漉しても無駄です。コロイド状の粒子は布の目を通り抜けてしまいますから」

 私は川岸の地層を観察しました。
 暗がりの中、目を凝らします。

 この辺りの地質は、昨日の調査で把握済み。
 石灰岩層の下に、確か……。

 私は川岸の少し盛り上がった土手、白っぽく粉を吹いたような崖に近づきました。
 手袋をした指で、その白い土を少し削り取ります。
 非常に軽く、脆く、指ですり潰すと小麦粉のような微細な粉になりました。

「……ありました」

「なんだそれは? ただの白い土に見えるが」

 マックス様が松明を近づけます。

「これは珪藻土ですわ」

 私は白い粉を指先で弾きました。

「大昔、ここは海か湖だったのでしょう。植物性プランクトン(珪藻)の殻が化石になって堆積した土です。この土には、目に見えない無数の小さな穴(多孔質)が空いています」

「穴? 土に穴が?」

「ええ。その穴の大きさは、数ミクロン。……つまり、泥の粒子や細菌よりも小さいのです」

 私は勝利を確信しました。
 自然は、過酷な環境を用意すると同時に、解決策もちゃんとその場に隠しておいてくれるのです。

「マックス様、空の木樽と、この土を大量に城へ運びましょう。今夜中に濾過装置を作ります」

 一時間後。
 城の厨房。
 私は即席で作った実験装置の前に立っていました。

 構造は単純です。
 底に穴を開けた木樽に、下から順に大きな砂利、木炭、砂、そして一番上に、砕いて粉にした珪藻土を分厚く敷き詰めます。

「いいですか、皆様。これはいわば、何重もの関所を持つです」

 興味深そうに集まってきた料理長やメイドたちの前で、私は泥水をひしゃく一杯、樽の上から注ぎ込みました。

 泥水は、珪藻土の層に吸い込まれていきます。
 重力に従ってゆっくりと下へ落ちていく水。
 炭の層が臭いを吸着し、珪藻土の微細な穴が不純物を完全にシャットアウトします。

 やがて、樽の下の蛇口から、一筋の水が落ちてきました。
 受け止めたガラスのコップの中で、その液体は松明の光を反射してキラリと輝きました。

「おおっ……!」

 歓声が上がります。
 そこに溜まったのは、先ほどの泥水が嘘のような、無色透明な清水でした。

「うそだろ……。あんな泥水が、まるで湧き水みたいだ」

「魔法ですか? 奥様は水の魔導師様なのですか?」

 料理長が震える手でコップを受け取り、恐る恐る口をつけました。
 そして、目を見開きます。

「う、うまい! 泥臭さが全くない! それに……、なんだか水がまろやかだ!」

「ええ。不純物が取り除かれた純水ですから。それに、地層を通ることで適度なミネラルも含んでいます」

 私はマックス様に向き直り、胸を張りました。

「マックス様。これで安全な飲み水が確保できました。疫病のリスクも激減します。……これが、私がこの領地で最初に提供するインフラです」

 マックス様は、コップの水を一気に飲み干すと、私の肩をガシッと掴みました。

「ジュリアンナ……、君は、命の恩人だ」

 その瞳は真剣そのものでした。

「俺たちは今まで、泥水をすするのが当たり前だと思っていた。それが辺境の味だと諦めていたんだ。だが……、君は、たった一時間でそれを変えてしまった」

「ふふ、大袈裟ですわ。ただの濾過ですもの」

「いいや。君が濾過したのは水だけじゃない。俺たちの諦めも取り除いてくれたんだ」

 マックス様の熱い言葉に、私は少し顔が熱くなるのを感じました。

 水質改善でこれほど感謝されるとは。
 王都の貴族たちは、蛇口をひねれば水が出ることを当然だと思っていましたから、この反応は新鮮です。

「お、お嬢様ぁ……」

 そこへ、トイレから戻ってきたロッテが、フラフラと現れました。

「お水……、綺麗なお水、ください……。私、もう泥水はいやですぅ……」

「ええ、もちろんよロッテ。さあ、この珪藻土ウォーターをお飲みなさい。お腹の虫も大人しくなりますわ」

 透明な水を飲み干したロッテが「生き返りましたぁ!」と涙目で叫ぶのを見て、厨房は温かい笑いに包まれました。

 しかし、私の頭の中では既に次の計算が始まっていました。

 この珪藻土、濾過だけではもったいない。
 耐火性、断熱性、そして保湿性。

 ふふふ……。
 これで冬の寒さ対策(断熱レンガ)も、化粧品の開発も可能ですわね。

 辺境の泥水は、私にとってはダイヤの原石以上の価値ある資源だったのです。
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