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第17話:珪藻土の魔法
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翌朝。
アイゼンガルドの城下町にある中央広場には、まだお日様が昇りきらないうちから、多くの領民たちが集まっていました。
「おい、聞いたか? 領主様が新しい水を配るんだとよ」
「新しい水ってなんだ? どうせまた、川の泥水を汲んできただけだろう」
「ああ……。今年は特に泥が酷いからな。腹を壊す子供が多くて困ったもんだ」
領民たちの顔色は一様に優れません。
肌は荒れ、目には生気がなく、諦めのような空気が漂っています。
彼らにとって水とは、喉の渇きを癒やす代わりに、腹痛をもたらす液体でしかなかったからです。
その広場の中央に、私は巨大な塔を建設させました。
といっても、昨夜のうちに城の兵士たちを総動員して作った、酒樽を縦に三つ重ねただけの即席プラントですが。
「お嬢様、準備万端です! いつでもお水出せます!」
ロッテが塔のてっぺんで手を振っています。
昨日の腹痛が嘘のように元気です。
やはり清潔な水は、最高の薬ですね。
「よし。……ジュリアンナ、本当に大丈夫なのか? これだけの人数だぞ」
マックス様が、少し緊張した面持ちで私を見下ろしました。
彼は領主として、民を失望させることを何より恐れているのです。
「ご安心ください。珪藻土の埋蔵量は無尽蔵。濾過速度も計算通りです。……さあ、マックス様。あなたの民に、文明の味を教えて差し上げましょう」
マックス様は深く頷くと、広場の演台に立ちました。
「民よ、聞け! 長年、我々を苦しめてきた泥水の問題は、今日で終わりだ! 我が婚約者、ジュリアンナ嬢が、この土地に眠る白い土の力で水を浄化する方法を確立してくれた!」
民衆の間で困惑が広がります。
「白い土?」
「土を入れたら余計に汚れるんじゃないか?」
私は優雅に前に進み出ると、ロッテに合図を送りました。
「ロッテ、バルブ開放!」
「了解です! 放水開始ーっ!」
ロッテが最上段のレバーを引きました。
塔の上部には、近くの川から汲み上げたばかりの、茶色く濁った泥水が満たされています。
それが、第一層の砂利、第二層の木炭、そして第三層の分厚い珪藻土フィルターを通過していきます。
重力が水を押し下げ、微細な多孔質が不純物を絡め取る。
そして、塔の最下部に取り付けられた五つの蛇口から――。
朝日に照らされて、ダイヤモンドの粉末を散りばめたような、眩いばかりの水流がほとばしりました。
「なっ……!?」
「透明だ! 水が、透き通っているぞ!」
「本当にあの川の水なのか!?」
最前列にいた老婆が、震える手で持参した木の椀を差し出しました。
蛇口から注がれた水は、椀の底の木目が見えるほど澄み切っています。
老婆は恐る恐る口をつけ……、そして、カッと目を見開きました。
「あ……、甘い……! 泥臭さが、ひとつもない!」
その声を合図に、広場は爆発したような騒ぎになりました。
人々が我先にと蛇口に殺到します。
「うめぇ! なんだこれ、冷たくて美味い!」
「お母ちゃん、水がジャリジャリしないよ!」
「身体の中に、綺麗な風が吹き抜けるようだ……!」
歓喜の声、水を飲む音、そして泣き出す声。
たかが水。
されど水。
生命の根源たる水が清浄であるという安心感が、人々の表情に劇的な変化をもたらしていました。
「おお、なんという奇跡だ……」
一人の男が、濡れた顔を上げて私を見つめました。
「あの白い土を使って、泥水を聖水に変えたのか……。あの方は、水の女神様の使いかもしれん」
「そうだ、聖女様だ! 辺境に聖女様が来てくださったんだ!」
誰かが叫ぶと、それは波紋のように広がりました。
「聖女様!」
「聖女ジュリアンナ様万歳!」
広場中の人々が、私に向かって跪き、祈りを捧げ始めました。
「……えっと、お嬢様? なんか拝まれてますけど、いいんですか?」
塔から降りてきたロッテが、小声で尋ねてきます。
「……複雑な気分ですわ。これは奇跡でも魔法でもなく、単なる物理濾過ですのに」
私は眼鏡の位置を直しながら、苦笑しました。
聖女などという非科学的な称号は、私の主義に反します。
しかし、これで民衆の衛生観念が向上し、手洗いやうがいの習慣が定着するなら、利用するのも悪くありません。
「ジュリアンナ」
マックス様が、感極まった様子で私の手を取りました。
「見てくれ。あんなに笑っている領民たちを見るのは初めてだ。……君は、俺の誇りだ」
「マックス様……」
「君は『ただの濾過だ』と言うかもしれないが、絶望を希望に変える術を、俺たちは魔法と呼ぶんだ」
彼の真っ直ぐな瞳に見つめられ、私は不覚にも少し赤くなってしまいました。
物理法則で説明できない現象(ときめき)は、計算外です。
「……コホン。感謝するのは早いですわ、マックス様」
私は照れ隠しに、視線を広場の隅に向けました。
そこには、まだ山積みにされた白い土(珪藻土)の袋があります。
「水が綺麗になっただけでは、冬は越せません。北部の冬は、王都とは比べ物にならないほど厳しいと聞いています」
「ああ、そうだ。毎年、凍死者が出るほどにな」
マックス様の表情が曇ります。
「この城も、民家も、石造りゆえに断熱性が皆無です。外の冷気をそのまま通してしまう。……薪を燃やしても、熱が壁から逃げていくのです。つまり、熱伝導率の問題ですね。ですが……」
私はニヤリと笑い、白い土の袋を指差しました。
「水を通さないあの小さな穴(多孔質)は、実は空気を捕まえるのも得意なのです。動かない空気(デッドエア)は、最強の断熱材になります」
「……まさか?」
「ふふふ。次は魔法の煉瓦と魔法の壁を作りますわよ。……王都の王子たちが、薄っぺらい壁の中でガタガタ震えている間に、私たちは常夏の楽園(ぬくぬくライフ)を手に入れましょう」
民衆が「聖女様!」と叫ぶ歓声の中で、私は次なる建国計画――全領土高気密高断熱化計画の図面を、脳内で引き始めていました。
アイゼンガルドの城下町にある中央広場には、まだお日様が昇りきらないうちから、多くの領民たちが集まっていました。
「おい、聞いたか? 領主様が新しい水を配るんだとよ」
「新しい水ってなんだ? どうせまた、川の泥水を汲んできただけだろう」
「ああ……。今年は特に泥が酷いからな。腹を壊す子供が多くて困ったもんだ」
領民たちの顔色は一様に優れません。
肌は荒れ、目には生気がなく、諦めのような空気が漂っています。
彼らにとって水とは、喉の渇きを癒やす代わりに、腹痛をもたらす液体でしかなかったからです。
その広場の中央に、私は巨大な塔を建設させました。
といっても、昨夜のうちに城の兵士たちを総動員して作った、酒樽を縦に三つ重ねただけの即席プラントですが。
「お嬢様、準備万端です! いつでもお水出せます!」
ロッテが塔のてっぺんで手を振っています。
昨日の腹痛が嘘のように元気です。
やはり清潔な水は、最高の薬ですね。
「よし。……ジュリアンナ、本当に大丈夫なのか? これだけの人数だぞ」
マックス様が、少し緊張した面持ちで私を見下ろしました。
彼は領主として、民を失望させることを何より恐れているのです。
「ご安心ください。珪藻土の埋蔵量は無尽蔵。濾過速度も計算通りです。……さあ、マックス様。あなたの民に、文明の味を教えて差し上げましょう」
マックス様は深く頷くと、広場の演台に立ちました。
「民よ、聞け! 長年、我々を苦しめてきた泥水の問題は、今日で終わりだ! 我が婚約者、ジュリアンナ嬢が、この土地に眠る白い土の力で水を浄化する方法を確立してくれた!」
民衆の間で困惑が広がります。
「白い土?」
「土を入れたら余計に汚れるんじゃないか?」
私は優雅に前に進み出ると、ロッテに合図を送りました。
「ロッテ、バルブ開放!」
「了解です! 放水開始ーっ!」
ロッテが最上段のレバーを引きました。
塔の上部には、近くの川から汲み上げたばかりの、茶色く濁った泥水が満たされています。
それが、第一層の砂利、第二層の木炭、そして第三層の分厚い珪藻土フィルターを通過していきます。
重力が水を押し下げ、微細な多孔質が不純物を絡め取る。
そして、塔の最下部に取り付けられた五つの蛇口から――。
朝日に照らされて、ダイヤモンドの粉末を散りばめたような、眩いばかりの水流がほとばしりました。
「なっ……!?」
「透明だ! 水が、透き通っているぞ!」
「本当にあの川の水なのか!?」
最前列にいた老婆が、震える手で持参した木の椀を差し出しました。
蛇口から注がれた水は、椀の底の木目が見えるほど澄み切っています。
老婆は恐る恐る口をつけ……、そして、カッと目を見開きました。
「あ……、甘い……! 泥臭さが、ひとつもない!」
その声を合図に、広場は爆発したような騒ぎになりました。
人々が我先にと蛇口に殺到します。
「うめぇ! なんだこれ、冷たくて美味い!」
「お母ちゃん、水がジャリジャリしないよ!」
「身体の中に、綺麗な風が吹き抜けるようだ……!」
歓喜の声、水を飲む音、そして泣き出す声。
たかが水。
されど水。
生命の根源たる水が清浄であるという安心感が、人々の表情に劇的な変化をもたらしていました。
「おお、なんという奇跡だ……」
一人の男が、濡れた顔を上げて私を見つめました。
「あの白い土を使って、泥水を聖水に変えたのか……。あの方は、水の女神様の使いかもしれん」
「そうだ、聖女様だ! 辺境に聖女様が来てくださったんだ!」
誰かが叫ぶと、それは波紋のように広がりました。
「聖女様!」
「聖女ジュリアンナ様万歳!」
広場中の人々が、私に向かって跪き、祈りを捧げ始めました。
「……えっと、お嬢様? なんか拝まれてますけど、いいんですか?」
塔から降りてきたロッテが、小声で尋ねてきます。
「……複雑な気分ですわ。これは奇跡でも魔法でもなく、単なる物理濾過ですのに」
私は眼鏡の位置を直しながら、苦笑しました。
聖女などという非科学的な称号は、私の主義に反します。
しかし、これで民衆の衛生観念が向上し、手洗いやうがいの習慣が定着するなら、利用するのも悪くありません。
「ジュリアンナ」
マックス様が、感極まった様子で私の手を取りました。
「見てくれ。あんなに笑っている領民たちを見るのは初めてだ。……君は、俺の誇りだ」
「マックス様……」
「君は『ただの濾過だ』と言うかもしれないが、絶望を希望に変える術を、俺たちは魔法と呼ぶんだ」
彼の真っ直ぐな瞳に見つめられ、私は不覚にも少し赤くなってしまいました。
物理法則で説明できない現象(ときめき)は、計算外です。
「……コホン。感謝するのは早いですわ、マックス様」
私は照れ隠しに、視線を広場の隅に向けました。
そこには、まだ山積みにされた白い土(珪藻土)の袋があります。
「水が綺麗になっただけでは、冬は越せません。北部の冬は、王都とは比べ物にならないほど厳しいと聞いています」
「ああ、そうだ。毎年、凍死者が出るほどにな」
マックス様の表情が曇ります。
「この城も、民家も、石造りゆえに断熱性が皆無です。外の冷気をそのまま通してしまう。……薪を燃やしても、熱が壁から逃げていくのです。つまり、熱伝導率の問題ですね。ですが……」
私はニヤリと笑い、白い土の袋を指差しました。
「水を通さないあの小さな穴(多孔質)は、実は空気を捕まえるのも得意なのです。動かない空気(デッドエア)は、最強の断熱材になります」
「……まさか?」
「ふふふ。次は魔法の煉瓦と魔法の壁を作りますわよ。……王都の王子たちが、薄っぺらい壁の中でガタガタ震えている間に、私たちは常夏の楽園(ぬくぬくライフ)を手に入れましょう」
民衆が「聖女様!」と叫ぶ歓声の中で、私は次なる建国計画――全領土高気密高断熱化計画の図面を、脳内で引き始めていました。
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