殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第20話:スラムのゾーニング

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「うぅ……、く、臭いですぅ。お嬢様、鼻が曲がります」

 アイゼンガルドの城下町、その一角にある下町エリア。
 ロッテが鼻を摘みながら、涙目で訴えてきました。

「我慢なさい、ロッテ。現状把握は都市計画の第一歩です」

 私はハンカチを口元に当てながら、冷徹な目で周囲を観察しました。
 そこは、まさに混沌でした。

 道の真ん中を豚が歩き、その横でパン屋がパンを焼き、さらにその隣では皮なめし職人が強烈なアンモニア臭のする薬品を桶でかき混ぜています。
 井戸のすぐ脇には汚水溜まりがあり、子供たちがその横で泥遊びをしている。

「……酷い有様だな。すまない、ジュリアンナ。ここは貧民街というわけではないんだが、誰もが好き勝手に小屋を建てた結果、この惨状だ」

 案内してくれたマックス様が、眉間に深い皺を寄せて嘆きます。

「ええ。これは貧困の問題ではありません。配置(レイアウト)の問題です」

 私は手帳を開き、現状の地図をスケッチし始めました。

「見てください。食品を扱うパン屋の風上に、悪臭を放つ皮なめし工場があります。これではパンに臭いが移りますし、衛生面でも最悪です。交差汚染というものてすね」

「こうさ……、汚染?」

「はい。そして、あそこの井戸。家畜小屋の下流に位置しています。これでは雨が降るたびに、家畜の排泄物が地下水脈に流れ込みます。……これではいくら上水道を整備しても、井戸水を使う人が病気になりますわ」

 私はペン先で、地図上の建物をバツ印で消していきました。

「ロッテ、あなたはトイレでご飯を食べますか?」

「ええっ!? 食べませんよ! そんなのお行儀が悪いですし、何より汚いです!」

「そうですね。では、タンスの中に生魚をしまいますか?」

「しまいません! 服が臭くなっちゃいます!」

「ええ。ですが、この街はそれをやっているのです」

 私はマックス様に地図を見せました。

「マックス様。この街に必要なのはゾーニング(用途地域制)です」

「ぞーにんぐ?」

「街を機能ごとに区画分けするのです。住む場所、働く場所、商売する場所。これらを明確に分離し、適切な配置に並べ替えます」

 私は新しいページに、理想的な配置図を描き始めました。

「まず、川の上流と風上。ここをAゾーン:住宅地域とします。静かで空気が綺麗な場所です。次に、街の中心部。ここをBゾーン:商業地域。商店や市場を集め、物流の効率を上げます」

 そして、私は地図の端、川の下流かつ風下になるエリアを指差しました。

「最後に、ここ。Cゾーン:工業地域です。皮なめし工場や鍛冶屋、家畜小屋などは全てここへ移転させます。ここなら騒音や悪臭が住宅地に届かず、汚水も下流で処理できます」

 マックス様が唸りました。

「なるほど……。理屈は分かる。だが、住民たちが納得するだろうか? 『俺はここで商売がしたいんだ』と言う者もいるだろう」

「そこはインセンティブを用意します」

 私はニヤリと笑いました。

「工業地域に移転した職人には、私たちが開発したローマン・コンクリートで、頑丈で防火性能の高い工房を無償で提供します。さらに、工業用水路も優先的に引きます」

「おおっ! それなら喜んで移るだろうな。彼らも火事や水不足には悩んでいたから」

「そして住宅地域には、日当たりの良い南向きの区画と、共同の洗い場を整備します。……人は、より快適な場所が用意されれば、自然とそこへ流れるものです」

 早速、私たちは街の広場に住民を集め、再開発計画を発表しました。
 最初は戸惑っていた住民たちも、コンクリートの立派な工房と臭くない住処が手に入ると分かると、歓声を上げて賛同しました。

 工事は急ピッチで進みました。
 私の指揮の下、マックス様の兵士たちが重機のように動き、ロッテが現場監督のように「そこ、右ですー!」と指示を飛ばします。

 一ヶ月後。

「……信じられん」

 小高い丘の上から街を見下ろしたマックス様が、感嘆の声を漏らしました。

 かつてゴミと悪臭にまみれていた雑多な路地は消え失せ、そこには整然とした石畳の街並みが広がっていました。
 風上から爽やかな風が吹き抜け、パン屋からは焼きたての香ばしい匂いだけが漂ってきます。
 鍛冶屋のハンマー音は遠くの工業区から微かに響くだけで、住宅街は静寂に包まれていました。

「これが、ゾーニングの力か」

「はい。無秩序(エントロピー)を整理し、あるべきものをあるべき場所に収める。……都市計画とは、巨大な整理整頓(お片付け)なのです」

「お嬢様! 見てください! 広場に花壇ができてますよ!」

 ロッテが指差す先では、かつて汚水溜まりだった場所に、子供たちが花を植えていました。
 環境が変われば、人の心も変わります。
 街が綺麗になれば、人はそれを汚すまいとするのです。

「ああ、美しい……。王都よりもずっと、機能的で美しい街だ」

 マックス様が私の肩を抱き寄せました。

「ジュリアンナ。君は魔法使いではないと言ったが、俺にはやはり魔法に見えるよ。……君が手を振るえば、泥沼が街道になり、スラムが楽園になる」

「ふふ。種明かしをすれば、全て図面上の計算通りですわ。……ですが、そう言っていただけると、設計士冥利に尽きます」

 私は美しく生まれ変わったアイゼンガルドの街並みを見つめました。
 区画整理(ゾーニング)が完了したこの街は、これから爆発的な経済発展を遂げるでしょう。

 一方、その頃の王都では。
 高級住宅地の真ん中に屠殺場を作ろうとする成金貴族と、それに反対する住民との間で訴訟騒ぎが起きている――という噂を風の便りに聞きました。

 都市の品格とは、建物の豪華さではなく、配置の知性で決まるのです。

 私は心の中でそう呟き、満足げに頷きました。

 さあ、住環境は整いました。
 次はいよいよ、産業(エネルギー)革命の時間です。
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