殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第23話:輝くワイン

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「酢(ビネガー)として売り出すのは名案だ。……だが、やはりワインとして飲めるものも欲しいというのが、酒飲みの本音でな」

 地下の貯蔵庫で、マックス様が曇った表情でグラスを傾けていました。

 ビネガーの製造ラインは軌道に乗りましたが、それはあくまで失敗作の救済措置。
 本来の目的である美味しいワイン作りは、依然として難航していました。

「見てくれ、この濁りを。……まるで泥水だ」

 マックス様のグラスに入っているのは、赤ワインというよりは、赤黒い絵の具を溶かしたような不透明な液体です。
 一口飲むと、舌の上にザラザラとした不快な感触が残ります。

「うぅ……。お嬢様、これ飲むと舌がシパシパします。それに、飲み終わった後のグラスの底に、砂みたいなのが残るんです」

 ロッテが舌を出して顔をしかめています。

「ふむ。澱ですね」

 私はグラスを光にかざしました。
 光が全く透過しません。

「この濁りの正体は、ブドウ由来のタンパク質やペクチン、そして酵母の死骸などの微細な粒子(コロイド)です。これらが液中を漂っているため、光を遮り、舌触りを悪くしているのです」

 王都の高級ワインは、長い年月をかけて樽の中でゆっくりと沈殿させるか、あるいは……。

「強制的に沈めればよろしいのです」

「沈める? どうやって?」

「科学の力と、この土地の恵みを使います」

 私はロッテに指示を出しました。

「ロッテ、厨房から卵の白身をボウル一杯持ってきてちょうだい。それと、マックス様。先日の地質調査で見つけた、あの川沿いの灰色の粘土を運んできてください」

「は? 粘土? ……ワインに泥を入れるのか!?」

 マックス様がギョッとします。

「ええ。正確にはベントナイト(モンモリロナイト粘土)です。……さあ、騙されたと思って!」

 数十分後。
 私たちは樽の前に立ち、怪しげな調合作業を行っていました。

「いいですか、この灰色の粘土粉末を少量の水で溶き……、樽の中に投入します!」

 灰色の泥汁が、貴重なワイン樽の中に注ぎ込まれました。

「ああぁっ! お嬢様、ワインが泥だらけにぃ! これじゃ泥団子スープです!」

 ロッテが悲鳴を上げますが、私は構わず続けます。

「次に、泡立てた卵白(メレンゲ)を投入!」

 今度は白い泡が飲み込まれていきます。

「泥の次は卵!? もう何料理なんですかこれぇ!」

「静かになさい、ロッテ。これは料理ではなく清澄化(コラージュ)という化学プロセスです」

 私は杖で樽の中を静かに撹拌しながら解説しました。

「ワインの濁りの原因であるタンパク質は、電気的にプラスの性質を持っています。対して、このベントナイト粘土はマイナスの電気を帯びています」

「プラスと……、マイナス?」

「ええ。磁石と同じです。プラスとマイナスは引き合います。つまり、粘土の粒子が濁りの成分を吸着し、雪だるま式に大きく重くなって、樽の底へと沈んでいくのです」

 さらに、卵白のアルブミンが、渋みの原因である過剰なタンニン(マイナス帯電)を吸着します。
 互いに抱き合って、仲良く底へ沈んでもらうのです。

「あとは、数日そっとしておけば完了です。……待ちましょう」

 三日後。

 薄暗い地下貯蔵庫に、私たちは再び集まりました。
 マックス様は半信半疑、ロッテは不安そうです。

「……本当に、あの泥と卵を入れたワインが飲めるのか?」

「お腹壊しませんか? 私、トイレの場所確認しておきますね?」

「失礼な人たちですね。……さあ、ご覧あれ」

 私は樽の下部に取り付けた蛇口に手をかけました。
 ただし、底に溜まった澱を巻き上げないよう、慎重に、ゆっくりとひねります。

 注がれた液体を見て、その場にいた全員が息を飲みました。

「なっ……!?」

 マックス様が掲げた松明の明かりを受けて、グラスの中に注がれたのは、あの濁った液体ではありませんでした。

 透き通るような、鮮烈な真紅。
 向こう側の景色が透けて見えるほど透明度が高く、揺らすとキラキラと宝石のように輝きます。

「これが……、俺たちのワインか? まるでルビーじゃないか!」

「不純物が完全に取り除かれた証拠です。さあ、試飲を」

 マックス様が震える手でグラスを持ち、口に含みました。
 そして、目を見開きます。

「……滑らかだ。あのザラザラした感じが全くない。渋みも角が取れて、まろやかになっている!」

「美味しいっ! お嬢様、これならいくらでも飲めます! 宝石の味がします!」

 ロッテも目を輝かせています。

「粘土と卵白が、余計な雑味を全て道連れにして沈んでくれましたからね。上澄みだけを瓶詰めすれば、王都の最高級品にも劣らないクリア・ワインの完成です」

 私はグラスを掲げ、その輝きを楽しみました。

「アイゼンガルドの土地は痩せていると言われますが、実はワイン造りに必要な清澄剤(ベントナイト)まで自前で用意してくれていたのですよ」

「……ああ。俺たちは、足元の宝に気づいていなかっただけなんだな」

 マックス様は、ルビー色の液体を愛おしそうに見つめました。

「ジュリアンナ。このワインに名前をつけてくれないか」

「そうですわね……。泥の中から現れた宝石ですから、アイゼンガルド・ルビーはいかが?」

「素晴らしい名前だ。……王都の奴らが、この輝きを見てどんな顔をするか楽しみだよ」

 私たちは地下室で、小さく乾杯しました。
 グラスが触れ合う澄んだ音が、新しい特産品の誕生を祝福していました。
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