殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

文字の大きさ
28 / 69

第28話:マックスのデレ

しおりを挟む
「……お嬢様。もう深夜二時です。そろそろ寝ないと、お肌のゴールデンタイムがロスタイムになっちゃいますよ?」

 アイゼンガルド城の執務室。
 ロッテが半分眠りながら、私の袖を引っ張りました。

「待ちなさい、ロッテ。ガラス工房の窯の温度管理システムについて、いいアイデアが浮かんだのです。この排熱を床暖房に回せば、エネルギー効率が十五%向上します」

 私は机にかじりつき、羽根ペンを走らせ続けました。
 職人たちが大量に移住してきたことで、仕事量は倍増しています。
 しかし、疲労よりも楽しさが勝っている状態(ランナーズ・ハイならぬデザイナーズ・ハイ)でした。

「ジュリアンナ」

 ふと、頭上から低い声が降ってきました。
 いつの間にか、マックス様が机の横に立っていました。

「……マックス様。申し訳ありません、明かりが眩しかったでしょうか?」

「いや。君が根を詰めすぎているのが心配なんだ。……少し、手を休めてくれないか」

 マックス様が、私の手から優しく羽根ペンを取り上げ、ペン皿に置きました。
 その強引ながらも気遣わしげな動作に、私は渋々背筋を伸ばしました。

「……休憩は非効率的ですが、領主様の命令とあらば従いましょう」

「命令じゃない。頼みだ。……それに、君に渡したいものがあってな」

「渡したいもの?」

 マックス様は、背中に隠していた手を出し、ごつごつした拳を私の目の前に差し出しました。
 彼がゆっくりと手を開くと、その掌には、親指大の石が乗っていました。

 磨かれた宝石ではありません。
 切り出されたばかりの、ゴツゴツとした原石です。
 しかし、その石はランプの光を受けて、内側から発光しているかのように神秘的な輝きを放っていました。

 紫と緑が複雑に混じり合い、まるでオーロラを閉じ込めたような正八面体の結晶。

「……! これは、蛍石(フローライト)……!」

 私は思わず身を乗り出し、その石をつまみ上げました。

「素晴らしい……! 見てください、この完全なへき開のライン! 等軸晶系の結晶構造が、これほど美しく保たれているなんて奇跡的ですわ! 成分はフッ化カルシウム……、不純物が混じることで色がつくのですが、このバイカラー(二色)のグラデーションは稀少です!」

 私は職業病で、即座に成分分析と結晶構造の称賛をまくし立てました。

 王都の令嬢なら「まぁ、綺麗な石!」と言うところでしょうが、私は「まぁ、綺麗な分子配列!」と言ってしまうのです。

「……ふっ。やはり、君ならそうやって分析し始めると思ったよ」

 マックス様が、苦笑しながらも愛おしそうに目を細めました。

「今日、新しい鉱脈の視察に行ったとき、坑道の奥で見つけたんだ。……暗闇の中で、この石だけが微かに光っているように見えてな」

 彼は、少し照れくさそうに視線を逸らし、そして再び私を見つめました。

「宝石店に並ぶような、磨き上げられたダイヤではない。泥にまみれた、ただの原石だ。……だが、俺にはどんな宝石よりも美しく見えた」

「ええ、同意します。この幾何学的な美しさは……」

「違うんだ、ジュリアンナ」

 マックス様が、私の言葉を遮りました。

「俺がこれを拾ったのは、結晶構造のためじゃない。……この色が、君に似ていると思ったからだ」

「……え?」

 私の思考回路が、一瞬停止しました。

「冷静で、理知的で、冷ややかな紫。……だが、その奥には、情熱的で生命力に溢れた緑が隠されている。光にかざすと表情を変えるその複雑な輝きが、図面と向き合っているときの君の瞳そのものだ」

 マックス様は、私の手の中に収まった蛍石を、私の指ごとそっと包み込みました。

「俺は、君という原石に出会えてよかった。……これを見るたびに、そう思うんだ」

「――――ッ!」

 ボンッ!
 と音がするくらい、私の顔が一瞬で沸騰しました。
 熱伝導率の計算など吹き飛ぶほどの、急激な温度上昇です。

「マ、マックス様……、それは、その……」

 普段なら「それは光の屈折率の話ですか?」と切り返せるはずなのに、舌が回ります。
 彼の瞳は真剣そのもので、そこには計算も駆け引きもありません。

 ただ純粋な好意が、ストレートで投げ込まれてきたのです。

「……受け取ってくれるか?」

「は、はい……。大切に、標本箱に……、いえ、肌身離さず持ち歩きます」

 私は蛍石を胸に抱きしめました。
 石はひんやりとしているはずなのに、マックス様の手の熱が残っていて、それが胸の奥まで伝播していきます。

「よかった。……では、もう遅い。今日は休んでくれ。君が倒れたら、俺の世界が崩れてしまうからな」

 マックス様は、私の頭をポンと一度撫でると、満足げに部屋を出て行きました。
 残されたのは、顔を真っ赤にした私と、蛍光色に輝く石。

 そして。

「…………きゃあああああああああっ!!!」

 部屋の隅で空気になっていたロッテが、クッションに顔を埋めて絶叫しました。

「お、お嬢様ぁーっ! 見ました!? 聞きました!? 『君に似ている』ですって! 『俺の世界』ですってぇーっ!」

「し、静かになさいロッテ! 夜中に近所迷惑です!」

「無理です! 私が砂糖を吐きそうです! あんな無骨な旦那様が、あんな……、あんな殺し文句を! 天然記念物級のデレですよあれは!」

 ロッテはバタバタと足を動かし、のたうち回っています。

「はぁ、はぁ……。お嬢様、もう図面なんて引いてる場合じゃないです。早くお孫さんの名前を考えましょう」

「気が早すぎます!」

 私は熱くなった頬を、冷たい蛍石で冷やしました。
 心拍数が乱れ、思考がまとまりません。

 ……悔しいですわ。
 構造力学でも、地質学でも説明がつかない。
 
 これが……、恋という名の、制御不能な化学反応なのですか。

 机の上の図面が、少しだけ霞んで見えました。
 今夜ばかりは、設計図よりも、この石の輝きを眺めて過ごすことになりそうです。

 アイゼンガルドの夜は、街灯の光よりも眩しい、甘い空気に包まれて更けていきました。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】前代未聞の婚約破棄~なぜあなたが言うの?~【長編】

暖夢 由
恋愛
「サリー・ナシェルカ伯爵令嬢、あなたの婚約は破棄いたします!」 高らかに宣言された婚約破棄の言葉。 ドルマン侯爵主催のガーデンパーティーの庭にその声は響き渡った。 でもその婚約破棄、どうしてあなたが言うのですか? ********* 以前投稿した小説を長編版にリメイクして投稿しております。 内容も少し変わっておりますので、お楽し頂ければ嬉しいです。

「予備」として連れてこられた私が、本命を連れてきたと勘違いした王国の滅亡フラグを華麗に回収して隣国の聖女になりました

平山和人
恋愛
王国の辺境伯令嬢セレスティアは、生まれつき高い治癒魔法を持つ聖女の器でした。しかし、十年間の婚約期間の末、王太子ルシウスから「真の聖女は別にいる。お前は不要になった」と一方的に婚約を破棄されます。ルシウスが連れてきたのは、派手な加護を持つ自称「聖女」の少女、リリア。セレスティアは失意の中、国境を越えた隣国シエルヴァード帝国へ。 一方、ルシウスはセレスティアの地味な治癒魔法こそが、王国の呪いの進行を十年間食い止めていた「代替の聖女」の役割だったことに気づきません。彼の連れてきたリリアは、見かけの派手さとは裏腹に呪いを加速させる力を持っていました。 隣国でその真の力を認められたセレスティアは、帝国の聖女として迎えられます。王国が衰退し、隣国が隆盛を極める中、ルシウスはようやくセレスティアの真価に気づき復縁を迫りますが、後の祭り。これは、価値を誤認した愚かな男と、自分の力で世界を変えた本物の聖女の、代わりではなく主役になる物語です。

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

もう散々泣いて悔やんだから、過去に戻ったら絶対に間違えない

もーりんもも
恋愛
セラフィネは一目惚れで結婚した夫に裏切られ、満足な食事も与えられず自宅に軟禁されていた。 ……私が馬鹿だった。それは分かっているけど悔しい。夫と出会う前からやり直したい。 そのチャンスを手に入れたセラフィネは復讐を誓う――。

彼女の離縁とその波紋

豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。 ※子どもに関するセンシティブな内容があります。

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します

冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」 結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。 私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。 そうして毎回同じように言われてきた。 逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。 だから今回は。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

処理中です...