殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第29話:下水道革命・始動

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「ふふ~ん♪」

 翌朝。
 私は鼻歌交じりに、胸元のペンダントを指先で弾きました。

 昨夜マックス様から頂いた蛍石を、早速銀細工の枠にはめ込み、ネックレスに加工したのです。
 ペンダントトップが揺れるたびに、紫と緑の光が私の鎖骨の上で踊ります。

「おやおや、お嬢様。朝からご機嫌ですねぇ。その石を見るたびに、旦那様のデレデレな顔を思い出してニヤけちゃってるんですか?」

 ロッテがベッドメイキングをしながら、ニマニマと意地悪な笑みを向けてきます。

「ち、違います! これは結晶構造の美しさに感動しているだけです!」

「はいはい、そういうことにしておきましょう。……で、今日は何を作るんですか? 愛の巣の増築?」

 私は咳払いをして、表情を引き締めました。
 愛の巣も大事ですが、職人たちの大量移住によって、アイゼンガルド領には緊急の課題が発生していたのです。

「ロッテ。人口が増えたということは、それに比例しても増えるということです」

「あるもの? ……税金ですか?」

「いいえ。……汚水と排泄物です」

 ロッテの顔が引きつりました。

 私たちは城の裏手を流れる川の下流、職人区(アルチザン・エリア)の端に立っていました。
 百人以上の職人とその家族が生活を始めたことで、生活排水が増加しています。
 今はまだ大丈夫ですが、このまま垂れ流し続ければ、いずれ川は汚れ、下流の村に被害が出ます。

「マックス様。王都の臭いを覚えていますか?」

 同行したマックス様に尋ねると、彼は顔をしかめました。

「ああ。夏場は特に酷い。ドブの臭いが街中に充満して、香水を染み込ませたハンカチがないと歩けないほどだ」

「王都の下水道は、単なる地下水路です。汚物を暗渠に流し込み、そのまま川へ捨てているだけ。……あれでは疫病の培養皿を作っているようなものです」

 私は川岸に杭を打ち込みました。

「アイゼンガルドでは、同じ轍は踏みません。汚れた水を、綺麗な水に戻してから川へ返す。……生物濾過循環システムを構築します」

「生物……、濾過?」

 マックス様とロッテが首を傾げます。

「以前、飲み水の濾過には珪藻土を使いましたね。あれは物理的に汚れをこし取る方法でした。しかし、トイレやお風呂の排水に含まれる有機物(汚れ)を分解するには、別の力が必要です」

 私は川底の石を拾い上げました。

「微生物の力です」

「びせいぶつ……? 小さい生き物ですか?」

「ええ。目に見えないほど小さな掃除屋さんたちです。彼らは石の表面に住み着き、酸素を使って汚れをパクパクと食べてくれるのです。これを生物膜(バイオフィルム)と言います」

 私は手帳を開き、システム(礫間接触酸化法)の図解を見せました。

 まず、生活排水を大きな沈殿槽に集め、固形物を底に沈める。

 上澄みの汚水を、握り拳大の多孔質の石(空気が好きなバクテリアの家)を敷き詰めた水路に流す。

 水が石の間を通り抜ける間に、バクテリアが汚れを分解する。

 綺麗になった水だけを川へ放流する。

「つまり、お嬢様。……石ころに見えないペットを飼って、その子たちにウンチやお風呂の垢を食べてもらうってことですか?」

 ロッテが極めて直感的かつ身も蓋もない要約をしました。

「……まあ、その通りです。彼らは酸素がないと働かないので、適度に空気に触れさせるのがコツです」

「なるほど。石と空気と、小さな命の力か」

 マックス様が感心したように頷きました。

「だが、そんな都合の良い石が大量にあるのか?」

「ありますとも。……あそこの火山です」

 私は遠くに見える休火山を指差しました。

「火山の噴火で飛び散ったスコリア(多孔質火山礫)や軽石。あれらは中がスカスカで表面積が広いため、バクテリアの住処として最高級物件なのです」

 今まで邪魔者扱いされていた火山礫が、ここでも役に立つのです。

「よし! すぐに土木隊を動かそう。職人たちにも手伝わせるか?」

「ええ。彼らも自分たちの住環境が良くなるなら、喜んで協力するはずです」

 その日から、アイゼンガルドの大規模な土木工事が始まりました。
 川沿いに長い水路を掘り、そこに火山から運んできた赤や黒のスコリアを山のように敷き詰めます。

「あ、そこ、勾配が足りないですよ! 水が滞留するとバクテリアが窒息しちゃいます!」

「へいっ! 姉御……、いや、ジュリアンナ様!」

 職人たちも、ガラスを吹く肺活量を活かして(?)元気に作業しています。
 彼らにとって、私はもはや公爵令嬢ではなく現場監督の姉御になりつつありました。

 数週間後。
 完成した浄化水路の出口から、川へと注がれる水を確認しました。

「……無色、無臭。成功です」

 ビーカーに汲んだ水は、少し藻の匂いがするものの、腐敗臭は皆無。
 魚が棲めるレベルまで浄化されています。

「すごい……。これなら、川遊びをしても病気にならないな」

 マックス様が水路を見つめ、満足げに頷きました。

「ええ。私たちは、自然から水という恵みを借りているのです。借りたものは、綺麗にして返す。……それが文明というものですわ」

 私は蛍石のペンダントを握りしめ、南の空――王都の方角を見つめました。

「一方、王都では……、人口爆発にインフラが追いつかず、川が悲鳴を上げている頃でしょう」

 私の予言通り。
 王都では、記録的な猛暑と雨不足が重なり、川の水位が低下。
 垂れ流された汚水が高濃度で滞留し、かつてないほどの悪臭が貴族街まで漂い始めていました。

 それは、やがて来る黒い災厄の、不気味な足音だったのです……。
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