殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第30話:王都の悪臭

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 (※レイモンド視点)

「……く、臭い。なんなのだ、この臭いは!」

 私は執務室の窓を乱暴に閉めた。

 最高級のガラス窓が音を立てて閉じるが、鼻の奥にへばりついた不快な臭気は消えない。
 腐った卵と、アンモニアと、ドブ泥を煮詰めたような――吐き気を催す悪臭が、ここ数日、王都全体を覆い尽くしている。

「おい、宰相! どうなっている! 王宮の中まで臭うではないか!」

 私はハンカチで鼻と口を覆いながら、控えていた宰相を怒鳴りつけた。

「は、はっ……。殿下、申し訳ございません。今年の夏は例年になく暑く、雨も降りません。そのため、川の水位が下がり、生活排水が流れずに滞留しているようでして……」

 宰相も顔色が悪い。
 彼もまた、香水を染み込ませたハンカチを手放せないでいる。

「川だと? なら水を流せばいいだろう! 上流の水門を開けろ!」

「それが……、水門を開いても、流れる水自体がないのです。それに加えて、近年、下町では人口が急増しておりまして……。排泄物の量が、川の浄化能力を超えているとの報告が」

「ええい、言い訳はいい! なんとかしろ! 来週には他国の使節団が来るのだぞ。こんな便所のような都に招けるか!」

 私はイライラと貧乏ゆすりをした。

 暑い。
 窓を閉め切っているせいで、室内は蒸し風呂のようだ。
 かといって窓を開ければ、地獄のような悪臭がなだれ込んでくる。

 王都は今、巨大な蒸し焼き器の中に閉じ込められている状態だった。

「……家に帰る。ここは空気が澱んでいて頭が痛くなる」

 私は執務を放り出し、馬車に乗り込んだ。
 愛するシルヴィアの待つ新居ならば、きっと幾分かはマシなはずだ。
 あそこは高台にあるし、私が大金を投じて作った最新鋭の設備がある。

 しかし、その期待は玄関の扉を開けた瞬間に裏切られた。

「うっ……!?」

 新居のホールに足を踏み入れた途端、ムッとするような熱気と、下水管から逆流してきたような臭気が私を襲った。

「おかえりなさい……、レイモンド様ぁ……」

 出迎えたシルヴィアの声には、覇気がなかった。
 彼女はソファにぐったりと横たわり、顔には厚く白粉を塗っているが、その下の肌が荒れているのが見て取れる。

「シルヴィア、大丈夫か? ……それにしても、この家の中、外より臭くないか?」

「そうなのよぉ! お風呂場も、キッチンも、排水口から変な臭いが上がってくるの! 怖くてお水も流せないわ!」

 シルヴィアがヒステリックに叫んだ。

 私は洗面所へと走った。
 美しい大理石の洗面台。
 その排水口に耳を近づけると、ボコッ、ボコッという不気味な音と共に、地下の下水の臭いが直接吹き上がってきていた。

「どういうことだ……。排水管には、臭いが逆流しないための水溜まり(トラップ)があるはずだろう?」

 私は配管工を呼びつけて怒鳴った。
 しかし、やってきた配管工は、困り果てた顔で首を振るばかりだ。

「殿下、それが……、図面がないので推測ですが、おそらく破封が起きています」

「ハフウ?」

「はい。この暑さでトラップの水が蒸発したか、あるいは配管の設計ミスで、水が流れる勢いで封水ごと吸い出されてしまったか……。いずれにせよ、下水管と室内が直結してしまっている状態です」

「な、直結だと!?」

「本来なら通気管を設置して気圧を逃がすのですが、この屋敷のどこに通気管があるのか、図面がないので分からなくて……。壁を全部壊して探すしか……」

「ええい、役立たずめ! 出ていけ!」

 私は配管工を追い出した。

 壁を壊す? 
 冗談ではない。
 この美しい壁紙を剥がすなど、美学に反する。

「……ねえ、レイモンド様。なんか、喉が渇いたわ。お水ちょうだい」

 シルヴィアが咳き込みながら言った。
 私は銀の水差しから、グラスに水を注いだ。
 しかし、その水は微かに黄色く濁り、藻のような臭いがした。

「……これも、臭うわね」

 シルヴィアが顔をしかめてグラスを置く。

「仕方ないだろう。王都中の井戸水がこの状態なんだ。煮沸して飲め」

「やだぁ! 熱いお湯なんて飲みたくない! 冷たくて美味しいお水が飲みたいのよぉ!」

 シルヴィアがクッションを投げる。
 その拍子に、彼女の厚塗りの白粉が少しひび割れ、下の赤くただれた皮膚が覗いた。

「……シルヴィア、その肌」

「見ないで! ……最近、かゆいのよ。汗をかくとしみるし、洗おうとしても水が臭いし……。もう最悪!」

 彼女は泣き出した。
 蒸し暑く、臭く、水も飲めず、肌は荒れる。
 私たちが夢見た優雅な生活は、どこにもなかった。

 私はふらりとテラスに出た。
 眼下に広がる王都を見下ろす。

 夕暮れの街は、淀んだ空気に覆われ、灰色に沈んで見えた。
 川沿いにはスラムの住人が溢れ、汚物をそのまま川に捨てているのが見える。

 ふと、ジュリアンナの言葉が蘇った。

『殿下。都市の代謝(メタボリズム)を無視すれば、街は自らの排泄物で窒息します』

『インフラとは、空気のようなもの。あって当たり前ですが、なくなった瞬間に死に至るのです』

「……くそっ」

 私は手すりを強く叩いた。
 あいつは、分かっていたのか……。
 図面を持ち去ったのも、こうなることを予見していたからなのか。

「ジュリアンナ……。貴様は今頃、どうしているんだ」

 北の空を見る。

 きっとあいつのことだ。
 泥にまみれて、粗末な小屋で泣いているに違いない。
 そうであってくれなければ、私が惨めすぎる。

「私は負けないぞ。……たかが臭いだ。香水を撒けばいい。花を飾ればいい」

 私は虚勢を張るように呟いた。
 しかし、その声は微かに震えていた。

 風に乗って漂ってくるのは、単なる悪臭だけではない。
 何やら甘ったるい、腐敗と死の予兆を含んだ空気が、王都の路地裏から忍び寄りつつあった。

 それは、下水道の整備されたアイゼンガルド領では決して発生しない、疫病という名の死神の吐息だった……。
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