殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第31話:橋梁計画

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「……深いな。落ちればひとたまりもない」

 アイゼンガルド領の東端。
 私たちは、領地と隣国を隔てる巨大な渓谷――通称、竜の顎と呼ばれる断崖絶壁の上に立っていました。
 足元には、目が眩むような深い谷底があり、遥か下を流れる急流が白い糸のように見えます。

「この谷があるせいで、隣国への交易ルートは山を大きく迂回しなければならない。馬車で三日はロスをする。……我が領の物流にとって、最大のボトルネックだ」

 マックス様が、谷の向こう側を睨みつけながら言いました。
 風が強く、彼のマントがバタバタと音を立てています。

「だからこそ、ここに橋を架けるのですわ」

 私は強風で飛ばされそうになる帽子を押さえながら、断言しました。

「橋だと? 無理だ。この川幅は百メートル近くある。石造りのアーチ橋では自重で崩壊するし、木造の吊り橋では重い荷馬車が通れない」

「ええ。従来の工法では不可能です。……ですが、私たちには鉄と計算があります」

 私はロッテに合図をしました。
 ロッテがリュックから取り出したのは、木の枝で作った二つの模型です。

「ご覧ください、マックス様。まずは四角形の枠組みです」

 私は四本の枝を四角につなげた枠を手に持ち、角を指でグニャリと歪ませました。四角形は簡単に平行四辺形に変形してしまいます。

「四角形は、横からの力に弱い。これでは風や振動で簡単に崩れます」

「ふむ」

「では、次にこれをご覧ください。三角形です」

 私は三本の枝で作った三角形の枠を手に取りました。
 そして、どんなに力を込めて歪ませようとしても、三角形はビクともしません。

「おおっ……! 動かないぞ」

「はい。トライアングルは、幾何学的に最も安定した形状なのです。頂点にかかる力を、二つの辺が突っ張って支え合うからです」

 私はニヤリと笑いました。

「この三角形をいくつも組み合わせた構造をトラス構造と呼びます。これを使えば、少ない材料で、驚くほど軽くて頑丈な橋が架けられるのです」

 私は一枚の図面を広げました。
 そこには、無数の三角形が幾何学模様のように組み合わさった、巨大な鉄橋の姿が描かれていました。

「材料は、鉱山から採れる鉄骨。そして橋脚の基礎には、例のローマン・コンクリートを使います。……これなら、この竜の顎すら跨いでみせますわ」

 マックス様が図面を食い入るように見つめ、そして唸りました。

「……美しいな。まるで蜘蛛の巣のように繊細で、しかし力強さを感じる」

「構造美とは機能美です。無駄な贅肉を削ぎ落とした骨格は、自然と美しくなるのです」

「お嬢様、お嬢様!」

 ロッテが私の袖を引っ張りました。

「つまり、おにぎり(三角形)最強ってことですね! やっぱり、おにぎりは偉大です!」

「……まあ、あながち間違いではありませんね。おにぎりも崩れにくい形をしていますから」

 私は苦笑しながら、マックス様に向き直りました。

「この橋が完成すれば、隣国との移動時間は半日になります。アイゼンガルドは、北部の物流のハブ(中心地)となり、莫大な通行税と交易益を生み出すでしょう」

「……君は、俺に翼をくれるんだな」

 マックス様が、私の手を取りました。
 その手は大きく、温かく、そして力強い。

「ジュリアンナ。トラス構造……、と言ったか。それは、俺たちの関係にも似ているな」

「え?」

 マックス様は、私と、そして横にいるロッテを見ました。

「設計する君(頭脳)、建設する俺(力)、そして現場を明るくするロッテ(心)。……この三点が支え合っているからこそ、どんな困難にも揺るがない最強の三角形ができる」

「旦那様ぁ……! 私まで入れてくれるんですかぁ!?」

 ロッテが感動して、鼻水をすすり始めました。

「もちろんだ。誰か一人欠けても、この橋は架からない」

 マックス様の言葉に、私の胸の奥が温かくなりました。

 レイモンド殿下のときは、私一人が必死に支えようとして、結局は崩れてしまいました。
 でも、ここでは違います。

 互いに引張り合い、圧縮し合い、力を分散して支え合う。
 まさに理想的な構造体です。

「……ふふ。うまいことを仰いますね。何かご褒美を差し上げたい気分です」

「ご褒美なら、君の笑顔が見られれば十分だ」

 マックス様が私の肩を抱き寄せ、私たちは谷の向こうを見つめました。

「さあ、着工です! 鉄を打ち、コンクリートを練りなさい! この谷に、大陸一のを架けるのです!」

 私の号令と共に、背後で控えていた職人たちが「おおーっ!」と雄叫びを上げました。

 王都が下水の臭いに沈み、経済が停滞していく中。
 辺境の空には、金属音と共に、未来へと続く巨大な架け橋が伸びようとしていました。

 それは、物理的な橋であると同時に、私たちが過去と決別し、栄光へと渡るための道でもあったのです。
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