殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第32話:トラス構造の美学

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 アイゼンガルド領の東端、深い渓谷に、鉄を打つリズミカルな音が響き渡っていました。

 着工から一ヶ月。
 私の設計したトラス橋は、驚異的なスピードでその姿を現しつつありました。

「……信じられん。本当に、宙に浮いているようだ」

 マックス様が、谷の半ばまで伸びた鉄の骨組みを見上げて呟きました。
 従来の石橋なら、下から足場を組み上げなければなりませんが、この鉄橋は両岸からヤジロベエのように腕を伸ばしていく張り出し架設工法(カンチレバー)を採用しています。

 空中に突き出した鉄の骨格は、まるで巨大な竜の肋骨のようにも、精緻な蜘蛛の巣のようにも見えました。

「細いな。……あんなにスカスカで、本当に崩れないのか?」

 マックス様が不安そうに眉を寄せます。

 無理もありません。
 石造りの重厚なアーチ橋を見慣れた人にとって、三角形の鉄骨を組み合わせただけのトラス構造は、頼りなく見えるのでしょう。

「マックス様。あれはスカスカではありません。されているのです」

 私は現場を見下ろす指揮台の上で、設計図を広げました。

「見てください。この部材は引張の力に耐え、こちらの部材は圧縮の力に耐えています。力の流れ(ベクトル)を計算し、必要な場所に、必要な太さの鉄だけを配置する。……贅肉を削ぎ落としたアスリートの肉体と同じですわ」

「アスリート、か」

「ええ。隠す必要がないから、全てを曝け出している。力が流れる様がそのまま形になっている。……これこそが構造美です。嘘のない、世界で最も正直な形ですわ」

 私はうっとりと鉄骨のシルエットを眺めました。
 夕陽を背景に浮かび上がる幾何学模様のシルエット。
 それは、どんな宝石の輝きよりも理知的で、私の心を震わせます。

「……お嬢様。私には、巨大なアヤトリにしか見えませんけどぉ」

 ロッテが指揮台の手すりにしがみつき、ガクガクと震えています。
 彼女は高所恐怖症気味なのです。

「あんな高いところを歩く職人さんたち、正気じゃありません! 見てるだけでお尻がムズムズします!」

「ふふ。職人たちも最初は怖がっていましたが、今では『揺れないから地面より安心だ』と言っていますよ。三角形(トラス)は歪まない。それが絶対的な安心感を生むのです」

 その時、谷の向こう側から強い風が吹き抜けました。
 ゴウッ! という風切り音がしましたが、伸びかけの橋はピクリとも揺らぎません。風が鉄骨の隙間を素通りしていくからです。

「……なるほど。壁を作って風と戦うのではなく、風を受け流すのか」

 マックス様が感心したように頷きました。

「強さとは、硬さだけではありません。しなやかさと、理にかなった構造です」

「……俺たちの領地運営も、こうありたいものだな」

「ええ。……あら?」

 私が目を細めると、橋の先端で作業していたギュンター親方(ガラス職人ですが、今は現場監督補佐として活躍中)が、こちらに向かって大きく手を振っているのが見えました。

『おーい! ジュリアンナ様! 連結ボルトの最終締め付け、準備完了だ!』

「それでは、行きますわよ、マックス様! 歴史的瞬間です!」

 私はドレスの裾を翻し、指揮台を駆け下りて建設中の橋へと向かいました。
 安全帯(命綱)を装着し、まだ床板が張られていない鉄骨の上を、平均台を渡るように進んでいきます。

「お、おいジュリアンナ! 危ないぞ!」

「平気です! 重心計算は完璧ですから!」

 谷底まで百メートル。
 足元には隙間だらけの鉄骨。
 普通なら足がすくむ場所ですが、私はこの力の流れの中に身を置くことが心地よくてたまらないのです。

 先端に辿り着くと、そこでは二つの巨大な鉄骨ユニットが、あと数ミリで接合しようとしていました。

「姉御! ……いや、奥様! 最後のボルト、お願いします!」

 職人たちが、黄金色に輝く特注のボルトを差し出してきました。
 私はそれを受け取り、マックス様を手招きしました。

「マックス様、ご一緒に。このボルトが、二つの三角形を一つにし、橋を完全な剛体にするのです」

 マックス様が私の後ろに立ち、私の手の上からボルトを握り締めました。
 彼の体温と、鼓動が伝わってきます。

「……俺たちの絆も、このボルトのように強固に締めよう」

 彼が耳元で囁き、私たちは同時にレンチを回しました。

 金属音が谷間に響き渡り、ボルトが完全に定着しました。
 その瞬間、橋全体に一本の筋が通り、巨大な生き物が目覚めたような振動が伝わってきました。

「連結完了!」

 職人たちの歓声が上がります。
 夕陽の中、一本の鉄の道が、断絶されていた谷の両岸を繋いだのです。

「美しい……」

 マックス様が、完成したトラスの幾何学模様を見つめ、そして私を見つめました。

「鉄のレース細工のようだ。無骨な鉄が、君の手にかかるとこんなにも優雅になるんだな」

「ええ。これがトラス構造の美学ですわ。……これで明日から、物流の車列がこの上を走ります」

 私は欄干に手を置き、遠くを見つめました。
 この橋は、単なる交通路ではありません。

 アイゼンガルド領が、王都の経済圏から独立し、独自の経済圏を確立するための血管がつながったのです。

「さあ、通行税の計算を始めなくては。……王都の商人たちからは、特別料金をいただかないといけませんね」

「ハハッ、手厳しいな。だが、それもまた構造美だ」

 夕陽に照らされた鉄橋の上で、私たちは笑い合いました。
 そのシルエットは、無数の三角形に支えられ、決して揺らぐことはありませんでした。
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