殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第36話:迎撃準備(法務)

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「……戦争ですわね」

 アイゼンガルド城の図書室。
 普段は静寂に包まれているその場所は今、大量の木箱と書類の山に埋もれ、さながら前線司令部の様相を呈していました。

「戦争って……、お嬢様。剣も槍も持たずに、紙切れとにらめっこして勝てるんですか?」

 ロッテが、積み上げられた羊皮紙の塔を不安そうに見上げています。

「ロッテ。文明社会における戦争とは、血を流すことではありません。法的正当性(リーガル・ジャスティス)を奪い合うことです」

 私は眼鏡を指で押し上げ、分厚い六法全書をバタンと閉じました。

「レイモンド殿下は国家反逆罪と横領を主張なさいました。これは、感情に任せた最大の悪手です」

「悪手? 怖い罪状に聞こえるが」

 マックス様が、難しい顔で腕組みをしています。
 彼は剣術なら達人ですが、法廷闘争は専門外です。

「ええ。罪状が重ければ重いほど、告発する側には強固な証拠が求められます。殿下は『私の金で橋を作った』と仰っていますが……、それを証明できますか?」

 私は木箱から一冊の帳簿を取り出しました。
 これは王都を出る際に回収した、新居建設費の出納帳(コピーではなく原本)です。

「ご覧ください。殿下の予算は、そのほとんどが最高級大理石(という名目のスタッコ)や純金製のシャンデリア(メッキ)、そしてシルヴィア様のドレスや宝石に消えています。……私が横領する余地など、銅貨一枚分も残っていません」

「……ひどい浪費だな。これでは、橋どころか小屋一軒も建たない」

 マックス様が呆れ果てて帳簿を眺めます。

「対して、アイゼンガルドの復興資金は、マックス様の私財と、私が開発した新商品の売上で賄われています。全ての取引には領収書があり、お金の流れは透明です」

 私はニヤリと笑いました。

「つまり、会計監査が入れば、困るのは使途不明金だらけの殿下のほうなのです」

「なるほど。藪をつついて蛇……、いや、ドラゴンを出したようなものか」

「さらに、これです」

 私は一枚の古びた羊皮紙を広げました。
 それは、かつて私が王宮で働いていた際に交わした施工管理委任契約書です。
 殿下はサインする際、「あー、面倒くさい。やっといてくれ」と中身も読まずに署名したものです。

「この契約書の第十二条、第五項。特約事項をご覧ください」

 マックス様が目を細めて読み上げます。

『本契約が解除された場合、甲(レイモンド)は乙(ジュリアンナ)に対し、乙が考案した設計・技術・意匠に関する一切の権利を返還するものとする。また、乙の考案物を継続して使用する場合、甲は乙に対し、相応の特許使用料を支払わねばならない』

 読み終えたマックス様が、驚愕の表情で私を見ました。

「……こんな条項、よく認めさせたな?」

「殿下は細かい文字を読みませんから。婚約破棄=契約解除です。つまり、現在王都で使われている私の技術は、全て使の違法状態にあるのです」

 私は契約書を指で弾きました。

「殿下は私を泥棒と呼びましたが、法的に見れば、泥棒は殿下のほうです。……この紙切れ一枚が、最強の盾であり、相手の首を刎ねる剣になりますわ」

「お嬢様……。性格が悪……、いえ、準備が良いですね! これなら勝てます!」

 ロッテが拍手します。

「勝つだけでは足りません。……完膚なきまでに叩き潰し、二度とアイゼンガルドに手を出せないよう不可侵条約を結ばせます」

 私は木箱の中に、選別した書類を次々と放り込みました。
 領収書の束、契約書の原本、そして日記(業務日報)。
 これらは全て、王都の法廷で炸裂する予定の弾薬です。

「マックス様。あなたには、別の準備をお願いします」

「俺にか? 法廷で証言するくらいしかできんぞ」

「いいえ。あなたは物理的な抑止力です」

 私は彼の目を見つめました。

「王都には、あなたの武勇を恐れる貴族が大勢います。あなたが私の隣に立ち、剣の柄に手をかけているだけで、不当な逮捕や暗殺を防ぐことができます。……私の最強の防壁になってください」

 マックス様は、ニカッと笑い、自分の胸をドンと叩きました。

「任せろ。法廷だろうが地獄だろうが、君の指一本触れさせない。……俺の妻(予定)を侮辱した代償は、高くつくと教えてやる」

「頼もしいですわ。……さあ、ロッテ。一番上等なドレスを用意なさい。ただし、動きやすいものを」

「はいっ! 戦闘服ですね! あ、法廷でお腹が空いたとき用に、クッキーを隠しポケットに縫い付けておきますか?」

「……音が出ないソフトクッキーなら許可します」

 準備は整いました。

 論理、証拠、そして武力(マックス)。
 三つの要素が揃った今、私たちは被告人としてではなく、検察官として王都へ乗り込むのです。

「待っていてください、殿下。……あなたの杜撰な計画を、赤ペンで真っ赤に添削して差し上げますわ」

 私は眼鏡を光らせ、分厚い契約書の束を鞄に詰め込みました。
 その重みは、正義の重みそのものでした。
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