殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第37話:迎撃準備(経済)

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「法的な盾の準備は完了しました。……次は矛ですわ」

 私は執務室の机に広げたアイゼンガルド領と王国の交易地図に、赤いペンでバツ印を書き込みました。
 場所は、先日開通したばかりのアイゼンガルド大橋です。

「矛? 橋を落とすのか?」

 マックス様が驚いて身を乗り出しました。

「まさか。私が丹精込めて設計したトラス橋を壊すなんて、野蛮なことはしません。……ただ、ゲートを閉じるだけです」

 私はニヤリと笑いました。

「王都への物流を完全封鎖します」

「封鎖……、か。だが、それでは王都の民が飢えるのではないか?」

 マックス様が懸念を示します。
 彼はどこまでも領民思いの領主です。
 しかし、私は首を横に振りました。

「ご安心ください。王都には穀倉地帯からのルートが別にありますから、庶民が飢え死にすることはありません。……止まるのは、アイゼンガルド経由で運ばれている贅沢品と新鮮な海産物、そして季節の果物です」

 私は指を折って数えました。

「つまり、困るのは庶民ではなく、美食に慣れきった貴族たちだけです」

 王都の貴族たちは今、アイゼンガルド経由で届く新鮮な魚や、隣国の珍しい果物に夢中です。
 それが突然ストップしたらどうなるか。

「物価の高騰(インフレ)が起きます。希少価値が跳ね上がり、貴族たちは裏ルートを使ってでも手に入れようと必死になり、市場は大混乱に陥るでしょう」

「なるほど。兵糧攻めならぬ、贅沢攻めか」

「ええ。胃袋を掴まれているのが誰なのか、思い出させて差し上げます。……そして、混乱が起これば、次に何が起きると思いますか?」

 私は一束の証書を取り出しました。
 それは、王国が発行している国債です。

「国債? 国の借金の証書ですね。……お嬢様、そんな紙切れ集めてどうするんですか? 折り紙ですか?」

 ロッテが不思議そうに首を傾げます。

「いいえ、ロッテ。これで空売り(ショート)を仕掛けるのです」

「からうり……?」

「簡単に説明しましょう」

 私はロッテの手元にあったクッキーを指差しました。

 「まず、私は王都の大商人たちから、このクッキー(国債)を借ります。次に借りたクッキーを、今の高い値段、例えば100ゴールドですぐに他の人に売って、現金化します。その後、王都で悪いニュース、つまり物流停止や、王太子の不正発覚が流れ、クッキーの価値が暴落します。例えば10ゴールドになるとかですね。そこで私は暴落したクッキーを10ゴールドで買い戻し、商人に返します」

 私は眉間にシワを寄せているロッテの方を向きました。

「さて、手元にはいくら残りますか?」

「ええっと……。100ゴールドで売って、10ゴールドで買い戻したから……、差額の90ゴールドが丸儲け!?」

 ロッテが計算を終え、目を見開きました。

「正解です。これが空売り。……相手の破滅に賭けて、利益を得る手法です」

 私は国債の束を机に叩きつけました。

「レイモンド殿下は、新居の建設費や浪費を補填するために、無闇に国債を発行し続けています。今はまだ王太子の権威で信用が保たれていますが……、私たちが王都へ出頭し、物流を止め、殿下の不正を暴露したらどうなるでしょう?」

「……国の信用が地に落ちるな」

 マックス様がゴクリと唾を飲み込みました。

「はい。国債の価格は大暴落します。私たちはその暴落を見越して、今のうちに大量に空売り注文を出しておくのです」

 私はマックス様を見つめました。

「マックス様。アイゼンガルドの復興資金、さらに増やしたくはありませんか?」

「……恐ろしい女だ。相手を叩き潰すだけでなく、そのショックさえも金に変えるとは」

 マックス様は呆れたように笑い、しかしその目は楽しげに輝いていました。

「いいだろう。軍資金は俺が出す。……王都の商人たちに、アイゼンガルドの経済力を思い知らせてやろう」

「ありがとうございます。得た利益で、王都が手放す優良な土地や利権を、二束三文で買い叩いて差し上げますわ」

 私は商会宛の手紙を書き上げ、封蝋を押しました。
 宛先は、私たちと提携している大手の商業ギルド。
 内容は、『全資金を投入しての、王国国債の売り』という指示。

「さあ、ロッテ。荷造りは終わりましたか?」

「はいっ! おやつも、着替えも、六法全書も、ソロバンもバッチリです!」

「よろしい」

 私は立ち上がり、窓の外を見ました。
 アイゼンガルドの街は、今日も活気に満ちています。

 この豊かさを守るためなら、私は悪魔にでもなりましょう。
 ……いえ、経済学という名の悪魔に、魂を売る必要すらありません。
 ただ、ルール通りにプレイするだけです。

「行きましょう、王都へ。……私たちの凱旋です」

 翌朝。

 アイゼンガルド城から、一台の馬車が出発しました。
 中には、最強の騎士と、最強の設計士。
 そして、国一つを傾けるほどの戦略が積み込まれていました。

 王都のレイモンド殿下は、まだ気づいていません。
 自分が呼び寄せたのが、従順な羊ではなく、経済という名の鎌を持った死神であることに……。
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