殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第42話:愛の巣の不同沈下

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「……気持ち悪いですぅ」

 レイモンド殿下の新居、愛の巣への訪問。
 それは、私たちが法廷に出る前の最後の現場視察という名目で行われました。

 玄関をくぐった瞬間、ロッテが口元を押さえて呻きました。
 臭い(下水の逆流)のせいだけではありません。
 ロッテは乗り物酔いしやすい体質ですが、陸の上にいるはずの今も、なぜか顔色が青ざめています。

「我慢なさい、ロッテ。……三半規管が正常に働いている証拠ですわ」

 私は靴底から伝わる違和感を確かめながら、ホールへと進みました。
 白亜の大理石(スタッコ)で囲まれた豪華な空間。
 しかし、私の平衡感覚は、警報を鳴らし続けています。

「よく来たな、泥棒猫め! ここが私の完璧な城だ!」

 リビングの扉を開けると、レイモンド殿下が腕組みをして待ち構えていました。
 隣にはシルヴィア様もいますが、彼女はソファに深く沈み込み、どこか虚ろな目で宙を見つめています。

「どうだ、この広さ! この豪華さ! 貴様の住んでいる廃墟とは格が違うだろう!」

 殿下が床をドンと踏み鳴らしました。
 その瞬間、飾ってある絵画がカタッと揺れ、シルヴィア様が「うっ……」と口元を押さえました。

「……殿下。単刀直入に申し上げますが」

 私は部屋の中央にあるガラステーブルに歩み寄りました。

「この家、傾いていますわね」

「はぁ? 何を言っている! 私の目が黒いうちは、この家の品格が傾くことなどない!」

「品格ではなく、物理的な角度の話です」

 私はポケットから、小さなガラス玉――子供のおもちゃであるビー玉を一つ取り出しました。
 そして、それをテーブルの端にそっと置きます。

 そして、指を離した瞬間……。

 ビー玉は誰に押されることもなく、勝手に動き出しました。

 最初はゆっくり、次第に加速し、テーブルの反対側へ向かって一直線に転がっていきます。
 そして、音を立てて床に落ち、さらに床の上を転がり続け、部屋の隅へと吸い込まれていきました。

「なっ……!?」

 殿下が目を剥きます。

「……ご覧の通りです。水平であるはずのテーブルも、床も、南側に向かって下り坂になっています」

 私はビー玉の行方を指差しました。

「これは不同沈下です」

「フドウ……、チンカ?」

「ええ。この屋敷が建っているのは、湖畔の埋立地。本来なら、地下数十メートルの固い支持層まで杭を打たねばなりませんでした。……私が、口を酸っぱくして忠告したはずですが?」

 私の脳裏に、基礎工事の段階で「杭なんて埋めたら金がかかる! 見えないところに金をかけるな!」と怒鳴り散らしていた殿下の姿が蘇ります。

「お言葉通り、杭を打たずに建てた結果、重い家具や壁がある南側だけが、ズブズブと泥の中に沈み始めているのです」

 私はマックス様を見ました。
 彼は呆れたように天井の隅を見上げています。

「ジュリアンナ。あそこの壁、亀裂が入っているぞ」

「はい。家全体が歪んで沈んでいるため、構造体に無理な力がかかり、引き裂かれているのです」

 私は殿下に向き直り、冷徹に告げました。

「建物全体が均等に沈むならまだマシです。しかし、片方だけが沈む不同沈下は致命的です。家はいずれ引き裂かれ、崩壊します」

「う、嘘だ! そんなはずはない! これは……、そう、貴様の目が歪んでいるからそう見えるだけだ!」

 殿下は必死に否定しますが、現実は残酷です。
 ソファで青ざめていたシルヴィア様が、蚊の鳴くような声で呟きました。

「……だからなの?」
「シルヴィア?」


「最近、この家にいると目眩がするの。頭が痛くて、吐き気がして……。立っているだけで、体が勝手に斜めになるような気がして……」

「シルヴィア様、それは自律神経失調症に似た症状です」

 私は解説しました。

「人間の脳は、視覚情報と平衡感覚のズレに非常に敏感です。床が傾いているのに、壁や柱が垂直に見える(ように脳が補正しようとする)環境に長くいると、脳が混乱し、船酔いのような状態が続くのです」

 傾いた家に住むと、健康を害する。
 これは建築学における常識です。

「ひ、ひぃぃ……! じゃあ、私ずっと船酔いしてたの!? ヤダ、気持ち悪い! この家、私を殺す気!?」

 シルヴィア様がパニックになり、フラフラと立ち上がりましたが、平衡感覚がおかしいためによろけてテーブルにぶつかりました。
 すると、花瓶が落ちて割れました。

「ああ、なんてこと……。愛の巣だと思っていた場所が、健康を蝕む拷問部屋だったなんて」

 私は割れた花瓶の破片を見下ろしました。

「殿下。ビー玉一つで証明されましたわね。……あなた方の土台がいかに軟弱で、不安定であるかが」

「き、貴様ぁ……!」

「明日の法廷も同じですわ。確固たる証拠(杭)のない主張は、必ず傾き、崩れ去ります。……せいぜい、足元にお気をつけあそばせ」

 私はビー玉を拾うこともせず、踵を返しました。

「帰りましょう、マックス様。これ以上ここにいると、私たちまで平衡感覚がおかしくなりそうです」

「ああ。……見ているだけで酔いそうな家だ」

 マックス様がロッテを抱えるようにして支え、私たちは部屋を出ました。
 背後で、「傾いてない! これは錯覚だ!」という殿下の叫び声と、シルヴィア様の「オエェッ」というリアルな嘔吐く声が聞こえてきました。

 沈みゆく家。
 それは、彼らの未来を暗示する墓標のようでした。
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