殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第43話:カビと香水

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「……ゲホッ、ゴホッ! な、なんですかこの匂い!?」

 傾いたリビングを出て、玄関ホールへ向かう廊下。
 ロッテが突然むせ返り、涙目で鼻を押さえました。

「お花の匂い……、薔薇の匂いがしますけど、なんか変です! まるで、腐った雑巾の上に薔薇の花束を置いて、さらにその上から殺虫剤を撒いたみたいな……!」

「ロッテ、具体的かつ的確な表現ですが、食事中の方がいらしたら大変ですよ」

 私はハンカチで口元を覆いました。

 確かに強烈です。
 鼻腔の粘膜を直接刺激するような、濃厚すぎる香水の香り。
 しかし、その奥底には、湿った土のような、あるいは古い地下室のような、不快な腐敗臭(腐葉土臭)が潜んでいます。

「ああ、もう! なんでこんなに臭いのよッ!」

 廊下の奥にある衣装部屋(ウォークイン・クローゼット)から、シルヴィア様の金切り声が聞こえてきました。
 扉が開け放たれており、中では彼女が香水の瓶を片手に、部屋中に霧を撒き散らしています。

「おい、シルヴィア! そんなに使ったら、私の鼻が曲がってしまう!」

 後を追ってきたレイモンド殿下も、さすがに顔をしかめています。

「だって臭いんですもの! 私の大切なドレスが、なんか湿っぽくてカビ臭いの! これじゃ着ていけないわ!」

 シルヴィア様が手にしているのは、王都で一番高価と言われる薔薇の香水。
 それを惜しげもなく、壁やドレスに噴射しています。

「……愚かしい。臭いには必ず発生源があります。元を断たずに上から香りを被せても、悪臭のハーモニー(不協和音)を生むだけですわ」

 私はスタスタと衣装部屋に入っていきました。

「おい! 勝手に入るな!」

「現場検証です。……やはり、予想通りですわね」

 私は部屋の壁に近づきました。
 薄暗い衣装部屋の壁には、可愛らしいピンク色のダマスク柄の壁紙が貼られています。

 しかし、よく見ると壁紙の一部が浮き上がり、継ぎ目が黒ずんでいました。
 そして、表面には結露による水滴がびっしりと付着しています。

「殿下。この壁紙の素材はビニールクロスですね?」

「そうだ! 水拭きができて汚れにくい、最新素材だぞ! 高いんだからな!」

「ええ。ビニールは水を通しません。……それが仇になりました」

 私は手袋をはめると、壁紙の浮いている部分を指で摘まみました。
 そして、躊躇なくバリッと剥がしました。

「ああっ! 何をする!?」

 殿下の悲鳴と共に露わになった壁の下地。
 そこには――。

「ひぃぃぃっ!!」

 シルヴィア様が悲鳴を上げて尻餅をつきました。
 ロッテが「うげぇ……」と口を押さえます。

 壁紙の裏側、そして石膏ボードの表面は、びっしりと「黒い斑点」で覆われていました。
 まるで黒い煤を塗りたくったような、おぞましい光景。
 それが、あの腐敗臭の正体でした。

「黒カビ(クラドスポリウム)およびススカビ(アルテルナリア)のコロニーです」

 私は淡々と解説しました。

「原因は内部結露です。断熱材のない冷たい石壁と、暖房で温められた室内の空気。その温度差によって生じた水分が、通気性のないビニールクロスの裏側に閉じ込められ、カビの温床となったのです」

「カ、カビ……? これが全部……?」

「はい。そして、カビは胞子を撒き散らします」

 私はシルヴィア様が大切にしているドレスの裾を指差しました。
 レースのひだの奥に、うっすらと青黒いシミが広がっています。

「シルヴィア様。カビは湿気だけでなく、革やシルクといった有機物も大好物です。……あなたのドレスも、靴も、バッグも、すでに彼らのになっていますわ」

「嘘……、嘘よぉ! これ、高かったのに! 限定品なのにぃぃ!」

 シルヴィア様がドレスにすがりついて泣き叫びます。
 しかし、泣けば泣くほど、彼女が吸い込む空気による問題が発生します。

「泣かないほうが賢明です。この部屋の空気中には、目に見えないカビの胞子が数億個単位で浮遊しています。それを吸い込み続ければ、過敏性肺炎やアレルギー性気管支炎を引き起こしますよ」

「……っ!?」

 シルヴィア様が慌てて息を止め、真っ青になって部屋から飛び出しました。

「お、おのれ……! 私の新居が、カビだらけだと言うのか!?」

 レイモンド殿下が、黒く変色した壁を睨みつけます。

「外見(壁紙)だけ綺麗に取り繕っても、内部の環境(通気性)が悪ければ、中は腐っていくのです」

 私は剥がした壁紙をゴミ箱に捨て、手袋を外しました。

「殿下。香水で誤魔化すのはおやめなさい。……腐敗した関係(臭い)は、どんなに甘い香りを振りかけても、隠し通せるものではありませんから」

「き、貴様……っ! 誰との関係が腐っていると!?」

「壁の話ですけれど? ……何か思い当たる節でも?」

 私はニッコリと微笑み、マックス様を促しました。

「行きましょう、マックス様。これ以上ここにいると、肺にカビが生えてしまいます」

「ああ。……一刻も早く外の空気が吸いたい」

 私たちは逃げるようにその部屋を後にしました。
 背後で、殿下が「業者を呼べ! 全部張り替えろ!」と叫んでいますが、無駄なことです。
 断熱工事という根本治療をしない限り、何度張り替えてもカビは復活します。

 そして、彼らの悲劇はまだ、これで終わりではありませんでした……。
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