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第44話:腐朽菌の解説
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「……もう、嫌っ! 体中がムズムズするわ!」
カビだらけの衣装部屋から逃げ出したシルヴィア様が、廊下の真ん中でドレスの裾をバタバタと振るっています。
カビの胞子は目に見えませんが、一度付着すれば精神的な不快感は計り知れません。
「落ち着け、シルヴィア。……くそっ、業者はまだか! この壁を全部ひっぺがして、新しいのを貼らせろ!」
レイモンド殿下が使用人に向かって怒鳴り散らしています。
私はその様子を冷ややかに見つめながら、廊下の壁際――床と接する巾木の部分に目を留めました。
「……あら」
そこには、ほんのりと湿ったシミが広がり、さらに、小さな褐色の何かが顔を出していました。
「殿下。このお屋敷では、室内で家庭菜園も営んでおられるのですか?」
「はぁ? 何を言っている!」
殿下が振り返ると、私は杖の先で、その何かをツンと突きました。
「キノコですわ」
「……キノコ?」
巾木の隙間から、ひっそりと、しかし逞しく生えている小さな傘。
ロッテが興味津々で近づいてきました。
「わぁ、本当だ! 茶色くて小さくて……、お嬢様、これ食べられますか? スープに入れます?」
「絶対にダメですよ、ロッテ。これは食用ではありません。……家の死神です」
私は表情を引き締め、殿下に向き直りました。
「殿下。先ほどの黒カビは、健康を害しますが、建物自体をすぐに倒壊させるわけではありません。……ですが、これは違います」
私は手袋をした指で、キノコの生えている周辺の木枠を強めに押しました。
ズブッ。
「えっ……?」
硬いはずの木材に、私の指がまるで濡れたビスケットのように沈み込みました。
そして指を離すと、木材はボロボロと粉状に崩れ落ち、赤茶色の粉末となって床に散らばりました。
「ひぃっ! 柱が! 柱が溶けたぁ!?」
シルヴィア様が悲鳴を上げます。
「溶けたのではありません。腐ったのです」
私は指についた木屑を払い落としました。
「これは褐色腐朽菌――木材腐朽菌の一種による被害です。結露した水分が壁の内部を伝い落ち、土台や柱を湿らせ続けた結果、菌が繁殖して木材の成分(セルロース)を分解してしまったのです」
「ふ、腐朽菌……?」
「はい。この菌は、木材の強度を劇的に奪います。見た目は木の形をしていても、中身はスカスカのスポンジ同然。……初期段階で重量の五%が分解されるだけで、強度は半分以下に落ちると言われています」
私は崩れた木屑を拾い上げ、殿下の目の前に突き出しました。
「ご覧ください、この褐色立方体状亀裂を。これが出たら末期症状です。壁紙の裏で、構造を支える柱や土台が、すでにボロボロになっている証拠ですわ」
「う、嘘だ……! これは最高級のマホガニーだぞ! 鉄のように硬いはずだ!」
「いいえ。水分を含んだ木材にとって、菌は平等です。どんな銘木も、彼らにとってはただの美味しい餌に過ぎません」
私は天井を見上げました。
「殿下。先ほど不同沈下で家が傾いていると申し上げましたが、それに加えて腐朽による強度低下……。この家は今、骨粗鬆症にかかった老人が、泥沼の上で片足立ちをしているような状態です」
「こつ……、なんだと?」
「いつ倒れてもおかしくない、ということです。震度3程度の地震でも、一階が押し潰されてペシャンコになるでしょうね」
私の宣告に、殿下の顔色が土気色に変わりました。
自分の城だと思っていた場所が、実は腐り落ちる寸前の廃屋だったのですから。
「脅かすな! 貴様は……、そうやって専門用語を並べ立てて、私を不安にさせたいだけだろう!」
殿下は震える声で叫びました。
「この家は美しい! 新しい! 腐っているはずがないんだ! 出ていけ! 私の視界から消え失せろ!」
「……忠告はいたしましたよ」
私は肩をすくめました。
ここまで言っても現実を直視できないのなら、あとは物理法則(事実)が彼らを教育するだけです。
「行きましょう、マックス様。……長居は無用です。菌が靴に移ります」
「ああ。……気分が悪くなる家だ」
マックス様が私をエスコートし、私たちは玄関へと向かいました。
去り際、私はふとシルヴィア様を見ました。
彼女は恐怖で震えながらも、またコンパクトを取り出し、崩れた化粧を直そうと白粉をパタパタとはたいています。
その白粉の粉が、廊下に差し込む光の中でキラキラと舞いました。
「……シルヴィア様」
「な、なによ!」
「最後に一つだけ。……その白粉、あまり厚塗りなさらないほうがよろしいかと」
「はぁ? 余計なお世話よ! あんたの商品が手に入らないから、仕方なく王都のものを使ってるんじゃない!」
「そうですか。……では、せめて換気だけは良くなさってくださいね。色々な意味で毒が溜まりますから」
私は意味深な言葉を残し、扉を開けました。
外の空気は、王都の悪臭を含んでいましたが、あの屋敷の中のカビと腐敗と香水の混じった空気よりは幾分マシでした。
「ジュリアンナ。最後のアレは、どういう意味だ?」
馬車に乗り込んでから、マックス様が尋ねてきました。
「ああ、白粉のことですか? ……見て分かりませんでしたか? 彼女の肌、ただの肌荒れではありませんでしたわ」
私は窓の外、遠ざかる歪んだ豪邸を見つめました。
「赤黒い発疹、そして手の震え。……あれは典型的な鉱物中毒の症状です」
「中毒……?」
「明日の法廷で、全てが明らかになりますわ。建物だけでなく、彼らの身体もまた、無知によって蝕まれていることが」
私は手帳を取り出し、証拠リストの最後に項目を書き足しました。
それは、明日の勝利を確定させる、最後のピースでした。
さあ、視察は終了です。
次はいよいよ、断罪のステージ――王宮法廷へ。
カビだらけの衣装部屋から逃げ出したシルヴィア様が、廊下の真ん中でドレスの裾をバタバタと振るっています。
カビの胞子は目に見えませんが、一度付着すれば精神的な不快感は計り知れません。
「落ち着け、シルヴィア。……くそっ、業者はまだか! この壁を全部ひっぺがして、新しいのを貼らせろ!」
レイモンド殿下が使用人に向かって怒鳴り散らしています。
私はその様子を冷ややかに見つめながら、廊下の壁際――床と接する巾木の部分に目を留めました。
「……あら」
そこには、ほんのりと湿ったシミが広がり、さらに、小さな褐色の何かが顔を出していました。
「殿下。このお屋敷では、室内で家庭菜園も営んでおられるのですか?」
「はぁ? 何を言っている!」
殿下が振り返ると、私は杖の先で、その何かをツンと突きました。
「キノコですわ」
「……キノコ?」
巾木の隙間から、ひっそりと、しかし逞しく生えている小さな傘。
ロッテが興味津々で近づいてきました。
「わぁ、本当だ! 茶色くて小さくて……、お嬢様、これ食べられますか? スープに入れます?」
「絶対にダメですよ、ロッテ。これは食用ではありません。……家の死神です」
私は表情を引き締め、殿下に向き直りました。
「殿下。先ほどの黒カビは、健康を害しますが、建物自体をすぐに倒壊させるわけではありません。……ですが、これは違います」
私は手袋をした指で、キノコの生えている周辺の木枠を強めに押しました。
ズブッ。
「えっ……?」
硬いはずの木材に、私の指がまるで濡れたビスケットのように沈み込みました。
そして指を離すと、木材はボロボロと粉状に崩れ落ち、赤茶色の粉末となって床に散らばりました。
「ひぃっ! 柱が! 柱が溶けたぁ!?」
シルヴィア様が悲鳴を上げます。
「溶けたのではありません。腐ったのです」
私は指についた木屑を払い落としました。
「これは褐色腐朽菌――木材腐朽菌の一種による被害です。結露した水分が壁の内部を伝い落ち、土台や柱を湿らせ続けた結果、菌が繁殖して木材の成分(セルロース)を分解してしまったのです」
「ふ、腐朽菌……?」
「はい。この菌は、木材の強度を劇的に奪います。見た目は木の形をしていても、中身はスカスカのスポンジ同然。……初期段階で重量の五%が分解されるだけで、強度は半分以下に落ちると言われています」
私は崩れた木屑を拾い上げ、殿下の目の前に突き出しました。
「ご覧ください、この褐色立方体状亀裂を。これが出たら末期症状です。壁紙の裏で、構造を支える柱や土台が、すでにボロボロになっている証拠ですわ」
「う、嘘だ……! これは最高級のマホガニーだぞ! 鉄のように硬いはずだ!」
「いいえ。水分を含んだ木材にとって、菌は平等です。どんな銘木も、彼らにとってはただの美味しい餌に過ぎません」
私は天井を見上げました。
「殿下。先ほど不同沈下で家が傾いていると申し上げましたが、それに加えて腐朽による強度低下……。この家は今、骨粗鬆症にかかった老人が、泥沼の上で片足立ちをしているような状態です」
「こつ……、なんだと?」
「いつ倒れてもおかしくない、ということです。震度3程度の地震でも、一階が押し潰されてペシャンコになるでしょうね」
私の宣告に、殿下の顔色が土気色に変わりました。
自分の城だと思っていた場所が、実は腐り落ちる寸前の廃屋だったのですから。
「脅かすな! 貴様は……、そうやって専門用語を並べ立てて、私を不安にさせたいだけだろう!」
殿下は震える声で叫びました。
「この家は美しい! 新しい! 腐っているはずがないんだ! 出ていけ! 私の視界から消え失せろ!」
「……忠告はいたしましたよ」
私は肩をすくめました。
ここまで言っても現実を直視できないのなら、あとは物理法則(事実)が彼らを教育するだけです。
「行きましょう、マックス様。……長居は無用です。菌が靴に移ります」
「ああ。……気分が悪くなる家だ」
マックス様が私をエスコートし、私たちは玄関へと向かいました。
去り際、私はふとシルヴィア様を見ました。
彼女は恐怖で震えながらも、またコンパクトを取り出し、崩れた化粧を直そうと白粉をパタパタとはたいています。
その白粉の粉が、廊下に差し込む光の中でキラキラと舞いました。
「……シルヴィア様」
「な、なによ!」
「最後に一つだけ。……その白粉、あまり厚塗りなさらないほうがよろしいかと」
「はぁ? 余計なお世話よ! あんたの商品が手に入らないから、仕方なく王都のものを使ってるんじゃない!」
「そうですか。……では、せめて換気だけは良くなさってくださいね。色々な意味で毒が溜まりますから」
私は意味深な言葉を残し、扉を開けました。
外の空気は、王都の悪臭を含んでいましたが、あの屋敷の中のカビと腐敗と香水の混じった空気よりは幾分マシでした。
「ジュリアンナ。最後のアレは、どういう意味だ?」
馬車に乗り込んでから、マックス様が尋ねてきました。
「ああ、白粉のことですか? ……見て分かりませんでしたか? 彼女の肌、ただの肌荒れではありませんでしたわ」
私は窓の外、遠ざかる歪んだ豪邸を見つめました。
「赤黒い発疹、そして手の震え。……あれは典型的な鉱物中毒の症状です」
「中毒……?」
「明日の法廷で、全てが明らかになりますわ。建物だけでなく、彼らの身体もまた、無知によって蝕まれていることが」
私は手帳を取り出し、証拠リストの最後に項目を書き足しました。
それは、明日の勝利を確定させる、最後のピースでした。
さあ、視察は終了です。
次はいよいよ、断罪のステージ――王宮法廷へ。
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