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第47話:疫病の発生
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「……始まったようですわね」
決戦の朝。
私は王都別邸(元・廃墟)のテラスに出て、黄色い靄に包まれた下町の方角を見下ろしました。
風に乗って、今までとは違う異質な音が聞こえてきます。
鐘の音。
それも、時を告げるものではなく、乱打される警鐘の音です。
そして、遠くから響く悲鳴と怒号。
「ジュリアンナ! 大変だ!」
マックス様が、外の様子を見に行って戻ってきました。いつになく顔色を変えています。
「下町で、人がバタバタと倒れている。……ただの熱中症じゃない。激しい嘔吐と下痢、そして脱水症状で肌が青黒くなって……」
「青き死……。やはり、来ましたか」
私は手すりを握りしめました。
水系感染症。
汚染された水を介して爆発的に広がる、都市の悪夢です。
「原因は分かっているのか? 王宮の医師団は何と言っている?」
「王宮からは悪い空気が原因だというお触れが出ているそうです。窓を閉め切り、香を焚けと」
「……愚かしい。そんなものは迷信ですわ」
私は冷徹に切り捨てました。
「原因は空気ではなく水です。この猛暑で川の水位が下がり、汚水濃度が限界を超えました。その汚水が地下水脈に浸透し、井戸水を汚染したのです」
「井戸が……、毒されていると?」
「ええ。下町の井戸は浅い。トイレの汚物と飲み水が、地下で繋がってしまっているのです。……人々は喉の渇きを癒そうとして、自ら病原菌を飲み込んでいる」
王都のシステムは破綻していました。
人口過密、排水設備の不備、そして異常気象。
これらが重なり、都市全体が巨大な培養皿と化してしまったのです。
「くそっ……。このままでは、王都は全滅するぞ。レイモンドは何をしている!」
「殿下は、ご自分の屋敷に閉じ籠もっているでしょうね。……自分だけは安全だと信じて」
しかし、感染症に身分は関係ありません。
使用人が井戸水を汲んでくれば、貴族の食卓にも「死」は運ばれてきます。
「お嬢様……。門の外、見てください」
ロッテが震える声で指差しました。
館の鉄門の前に、数人の市民がふらふらと集まってきていました。
彼らは顔色が悪く、中には子供を抱えた母親もいます。
「水……、水をくれ……」
「この屋敷からは、綺麗な水の匂いがするんだ……」
彼らは本能的に嗅ぎつけたのでしょう。
この腐臭漂う王都の中で、唯一、この館だけが清潔で、澄んだ空気に包まれていることを。
「追い返すか? 彼らを入れたら、病気が移るかもしれない」
マックス様が苦渋の表情で尋ねてきます。
護衛としては、主の安全が最優先ですから。
しかし、私は首を横に振りました。
「いいえ。……門を開けなさい」
「ジュリアンナ?」
「言ったはずです。私は解毒の機会を与えると。……それは貴族だけでなく、罪のない市民に対しても同じです」
私はテラスから、使用人たちに大声で指示を飛ばしました。
「総員、緊急時対応! 門を開放! 庭の噴水を給水所として開放します!」
「は、はいっ!」
「ただし、ゾーニングを徹底なさい! 入ってくる人々の靴裏を石灰で消毒! 手洗いを強制! そして、症状のある者とない者をエリア分けしなさい!」
鉄の扉が開かれます。
雪崩れ込んできた市民たちは、庭の中央にある噴水を見て、目を疑いました。
そこには、アイゼンガルド式の独立浄化槽と、地下深くから汲み上げた、クリスタルのように透き通った水が溢れていたからです。
「水だ……! 透明な水だ!」
「臭くない! 飲めるぞ!」
人々が噴水に殺到します。
私はそれをバルコニーから見下ろしました。
「ロッテ、備蓄していたアイゼンガルド・ビネガーと塩、そして砂糖を持ってきて。……経口補水液を作ります」
「はいっ! 特製ジュースですね!」
脱水症状には、ただの水ではなく、塩分と糖分を含んだ水が必要です。
そしてビネガーの殺菌作用が、弱った胃腸を助けます。
「……君は、ここを野戦病院にするつもりか?」
マックス様が、驚きと、そして深い敬意を込めた目で見つめてきます。
「王都の民を見殺しにはできません。……それに、これが一番のデモンストレーションになりますわ」
私は王城の方角を指差しました。
あちらでは、門を堅く閉ざし、民衆を拒絶しています。
一方、こちらの廃墟は門を開き、清浄な水と治療を提供している。
「どちらが統治者としてふさわしいか。……言葉で語るよりも、雄弁な光景でしょう?」
庭では、水を飲んだ子供の顔に赤みが戻り、母親が泣いて感謝しています。
その噂は、風よりも早く王都中に広がるでしょう。
『あのお屋敷に行けば助かる』
『あそこには聖女様がいる』
「さあ、マックス様。……そろそろ時間です」
私はドレスの裾を翻しました。
今日はいよいよ、レイモンド殿下との法廷対決。
外では疫病が蔓延し、民衆の怒りと絶望が頂点に達しているこのタイミング。
「行きましょう。……腐りきった王家にとどめを刺す舞台が整いましたわ」
決戦の朝。
私は王都別邸(元・廃墟)のテラスに出て、黄色い靄に包まれた下町の方角を見下ろしました。
風に乗って、今までとは違う異質な音が聞こえてきます。
鐘の音。
それも、時を告げるものではなく、乱打される警鐘の音です。
そして、遠くから響く悲鳴と怒号。
「ジュリアンナ! 大変だ!」
マックス様が、外の様子を見に行って戻ってきました。いつになく顔色を変えています。
「下町で、人がバタバタと倒れている。……ただの熱中症じゃない。激しい嘔吐と下痢、そして脱水症状で肌が青黒くなって……」
「青き死……。やはり、来ましたか」
私は手すりを握りしめました。
水系感染症。
汚染された水を介して爆発的に広がる、都市の悪夢です。
「原因は分かっているのか? 王宮の医師団は何と言っている?」
「王宮からは悪い空気が原因だというお触れが出ているそうです。窓を閉め切り、香を焚けと」
「……愚かしい。そんなものは迷信ですわ」
私は冷徹に切り捨てました。
「原因は空気ではなく水です。この猛暑で川の水位が下がり、汚水濃度が限界を超えました。その汚水が地下水脈に浸透し、井戸水を汚染したのです」
「井戸が……、毒されていると?」
「ええ。下町の井戸は浅い。トイレの汚物と飲み水が、地下で繋がってしまっているのです。……人々は喉の渇きを癒そうとして、自ら病原菌を飲み込んでいる」
王都のシステムは破綻していました。
人口過密、排水設備の不備、そして異常気象。
これらが重なり、都市全体が巨大な培養皿と化してしまったのです。
「くそっ……。このままでは、王都は全滅するぞ。レイモンドは何をしている!」
「殿下は、ご自分の屋敷に閉じ籠もっているでしょうね。……自分だけは安全だと信じて」
しかし、感染症に身分は関係ありません。
使用人が井戸水を汲んでくれば、貴族の食卓にも「死」は運ばれてきます。
「お嬢様……。門の外、見てください」
ロッテが震える声で指差しました。
館の鉄門の前に、数人の市民がふらふらと集まってきていました。
彼らは顔色が悪く、中には子供を抱えた母親もいます。
「水……、水をくれ……」
「この屋敷からは、綺麗な水の匂いがするんだ……」
彼らは本能的に嗅ぎつけたのでしょう。
この腐臭漂う王都の中で、唯一、この館だけが清潔で、澄んだ空気に包まれていることを。
「追い返すか? 彼らを入れたら、病気が移るかもしれない」
マックス様が苦渋の表情で尋ねてきます。
護衛としては、主の安全が最優先ですから。
しかし、私は首を横に振りました。
「いいえ。……門を開けなさい」
「ジュリアンナ?」
「言ったはずです。私は解毒の機会を与えると。……それは貴族だけでなく、罪のない市民に対しても同じです」
私はテラスから、使用人たちに大声で指示を飛ばしました。
「総員、緊急時対応! 門を開放! 庭の噴水を給水所として開放します!」
「は、はいっ!」
「ただし、ゾーニングを徹底なさい! 入ってくる人々の靴裏を石灰で消毒! 手洗いを強制! そして、症状のある者とない者をエリア分けしなさい!」
鉄の扉が開かれます。
雪崩れ込んできた市民たちは、庭の中央にある噴水を見て、目を疑いました。
そこには、アイゼンガルド式の独立浄化槽と、地下深くから汲み上げた、クリスタルのように透き通った水が溢れていたからです。
「水だ……! 透明な水だ!」
「臭くない! 飲めるぞ!」
人々が噴水に殺到します。
私はそれをバルコニーから見下ろしました。
「ロッテ、備蓄していたアイゼンガルド・ビネガーと塩、そして砂糖を持ってきて。……経口補水液を作ります」
「はいっ! 特製ジュースですね!」
脱水症状には、ただの水ではなく、塩分と糖分を含んだ水が必要です。
そしてビネガーの殺菌作用が、弱った胃腸を助けます。
「……君は、ここを野戦病院にするつもりか?」
マックス様が、驚きと、そして深い敬意を込めた目で見つめてきます。
「王都の民を見殺しにはできません。……それに、これが一番のデモンストレーションになりますわ」
私は王城の方角を指差しました。
あちらでは、門を堅く閉ざし、民衆を拒絶しています。
一方、こちらの廃墟は門を開き、清浄な水と治療を提供している。
「どちらが統治者としてふさわしいか。……言葉で語るよりも、雄弁な光景でしょう?」
庭では、水を飲んだ子供の顔に赤みが戻り、母親が泣いて感謝しています。
その噂は、風よりも早く王都中に広がるでしょう。
『あのお屋敷に行けば助かる』
『あそこには聖女様がいる』
「さあ、マックス様。……そろそろ時間です」
私はドレスの裾を翻しました。
今日はいよいよ、レイモンド殿下との法廷対決。
外では疫病が蔓延し、民衆の怒りと絶望が頂点に達しているこのタイミング。
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