殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第48話:聖女ジュリアンナ

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「聖女様……! おお、水の女神様……!」

「あっちの王宮は門を閉ざしたのに、ここは俺たちを入れてくれたぞ!」

 王都別邸(元・廃墟)の庭園は、かつてないほどの喧騒に包まれていました。
 しかし、それは暴動の騒ぎではありません。
 救済を求める人々の、祈りと感謝の声でした。

「……複雑ですわね。ただの濾過装置と経口補水液ですのに」

 私はテラスからその光景を見下ろし、小さく溜息をつきました。
 庭の中央にある噴水には、アイゼンガルド特産の珪藻土と活性炭(木炭)を用いた巨大な濾過フィルターが設置されています。
 
 そこから溢れ出るのは、この汚染された王都において唯一の、無色透明な安全な水。
 人々はそれを聖水と呼び、私を聖女と崇め始めていました。

「お嬢様、この特製ジュース、すごい人気です! 飲んだ人がみるみる元気になっていきます!」

 ロッテが庭を走り回り、桶に入れた液体を配っています。
 水に少量の塩と砂糖、そしてアイゼンガルド・ビネガーを混ぜたもの。
 味は少し変わっていますが、脱水症状で乾ききった身体には、どんな高級ワインよりも染み渡る命の水です。

「単純な生理学ですわ。塩分と糖分を同時に摂取することで、水分吸収率が飛躍的に高まるのです。……奇跡でも魔法でもありません」

「だが、民にとっては奇跡だよ」

 隣に立つマックス様が、庭の隅でうずくまる老婆に自分のマントを掛けてやりながら戻ってきました。

「彼らは見捨てられたと思っていたんだ。王家にも、神にも。……そこへ君が手を差し伸べた。その事実だけで、君は彼らにとっての信仰対象になる」

「信仰なんて非合理的なものは不要です。必要なのは衛生管理と、インフラへの投資だけ……」

 私が言いかけた時、鉄門の方で怒声が上がりました。

「どけ! 邪魔だ! 我々は王宮騎士団であるぞ!」

 王家の紋章をつけた騎士たちが、避難民を押しのけて入ってきました。
 彼らは私の前に立つと、尊大な態度で宣言しました。

「ジュリアンナ・フォン・ヴィクトル! 貴様に命じる! この屋敷の水源を直ちに王家へ引き渡せ! レイモンド殿下がお飲みになる水がないのだ!」

 庭が一瞬で静まり返りました。
 民衆の視線が、恐怖から怒りへと変わっていきます。
 自分たちは汚水をすすって倒れているのに、王太子は安全な水を独占しようというのか。

「……お断りします」

 私は冷徹に返答しました。

「なっ……!? 王命だぞ!」

「ここは私の私有地です。そしてこの浄水システムは、私が設計し、私の資金で設置したものです。……民衆に配る分はあっても、民を見捨てて引きこもっている殿下に差し上げる分など、一滴もありませんわ」

「き、貴様……! ならば力づくで……!」

 騎士が剣に手をかけた瞬間……。

 マックス様が目にも止まらぬ速さで間合いを詰め、騎士の剣を鞘ごと押さえ込みました。

 抜刀すらさせない、圧倒的な制圧力。
 北の辺境で魔獣と戦ってきた本物の騎士の殺気が、温室育ちの王宮騎士を射抜きます。

「……俺の庭で、俺の女に剣を向けるか?」

 マックス様の低い声が、地響きのように響きました。

「水が欲しければ、後ろに並べ。……ただし、武器を捨て、民と同じ列にな。ここでは身分など関係ない。あるのは喉が渇いた人間だけだ」

 騎士たちは顔面蒼白になり、後ずさりしました。
 そして、周囲を取り囲む数百人の民衆の、刺すような視線に気づいたのです。

「か、帰るぞ! こんな……、こんな反逆者の水など!」

 彼らは捨て台詞を吐いて逃げ出しました。
 その背中に、民衆から「帰れ!」「臆病者!」という罵声が浴びせられます。

「……勝負あり、ですわね」

 私はその様子を見て、確信しました。
 王家は今、物理的な水だけでなく、最も重要な民衆の支持という基盤を完全に失いました。

「聖女様万歳! 辺境伯様万歳!」

 庭園に歓声が沸き起こります。
 私は手を振って応えながら、マックス様に耳打ちしました。

「マックス様。……これで王都の世論は味方につけました。次は経済です」

「経済?」

「はい。民衆には水を配りましたが……、貴族たちには兵糧攻めを行います」

 私は懐から、伝書鳩に持たせるための小さな手紙を取り出しました。
 宛先は、アイゼンガルド大橋の管理事務所。

「あの橋を封鎖します。……王都への贅沢品の供給を、今この瞬間からストップさせますわ」

 聖女の慈悲(水)と、悪魔の冷徹さ(物流封鎖)。
 この二つを使い分けることこそが、本当の統治者です。

「さあ、法廷の時間が迫っています。……行きましょうか」

 ドレスを翻し、私は歩き出しました。
 その背中には、数千人の民衆の祈りと期待が、見えない翼のように乗っていました。
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