殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

文字の大きさ
48 / 69

第48話:聖女ジュリアンナ

しおりを挟む
「聖女様……! おお、水の女神様……!」

「あっちの王宮は門を閉ざしたのに、ここは俺たちを入れてくれたぞ!」

 王都別邸(元・廃墟)の庭園は、かつてないほどの喧騒に包まれていました。
 しかし、それは暴動の騒ぎではありません。
 救済を求める人々の、祈りと感謝の声でした。

「……複雑ですわね。ただの濾過装置と経口補水液ですのに」

 私はテラスからその光景を見下ろし、小さく溜息をつきました。
 庭の中央にある噴水には、アイゼンガルド特産の珪藻土と活性炭(木炭)を用いた巨大な濾過フィルターが設置されています。
 
 そこから溢れ出るのは、この汚染された王都において唯一の、無色透明な安全な水。
 人々はそれを聖水と呼び、私を聖女と崇め始めていました。

「お嬢様、この特製ジュース、すごい人気です! 飲んだ人がみるみる元気になっていきます!」

 ロッテが庭を走り回り、桶に入れた液体を配っています。
 水に少量の塩と砂糖、そしてアイゼンガルド・ビネガーを混ぜたもの。
 味は少し変わっていますが、脱水症状で乾ききった身体には、どんな高級ワインよりも染み渡る命の水です。

「単純な生理学ですわ。塩分と糖分を同時に摂取することで、水分吸収率が飛躍的に高まるのです。……奇跡でも魔法でもありません」

「だが、民にとっては奇跡だよ」

 隣に立つマックス様が、庭の隅でうずくまる老婆に自分のマントを掛けてやりながら戻ってきました。

「彼らは見捨てられたと思っていたんだ。王家にも、神にも。……そこへ君が手を差し伸べた。その事実だけで、君は彼らにとっての信仰対象になる」

「信仰なんて非合理的なものは不要です。必要なのは衛生管理と、インフラへの投資だけ……」

 私が言いかけた時、鉄門の方で怒声が上がりました。

「どけ! 邪魔だ! 我々は王宮騎士団であるぞ!」

 王家の紋章をつけた騎士たちが、避難民を押しのけて入ってきました。
 彼らは私の前に立つと、尊大な態度で宣言しました。

「ジュリアンナ・フォン・ヴィクトル! 貴様に命じる! この屋敷の水源を直ちに王家へ引き渡せ! レイモンド殿下がお飲みになる水がないのだ!」

 庭が一瞬で静まり返りました。
 民衆の視線が、恐怖から怒りへと変わっていきます。
 自分たちは汚水をすすって倒れているのに、王太子は安全な水を独占しようというのか。

「……お断りします」

 私は冷徹に返答しました。

「なっ……!? 王命だぞ!」

「ここは私の私有地です。そしてこの浄水システムは、私が設計し、私の資金で設置したものです。……民衆に配る分はあっても、民を見捨てて引きこもっている殿下に差し上げる分など、一滴もありませんわ」

「き、貴様……! ならば力づくで……!」

 騎士が剣に手をかけた瞬間……。

 マックス様が目にも止まらぬ速さで間合いを詰め、騎士の剣を鞘ごと押さえ込みました。

 抜刀すらさせない、圧倒的な制圧力。
 北の辺境で魔獣と戦ってきた本物の騎士の殺気が、温室育ちの王宮騎士を射抜きます。

「……俺の庭で、俺の女に剣を向けるか?」

 マックス様の低い声が、地響きのように響きました。

「水が欲しければ、後ろに並べ。……ただし、武器を捨て、民と同じ列にな。ここでは身分など関係ない。あるのは喉が渇いた人間だけだ」

 騎士たちは顔面蒼白になり、後ずさりしました。
 そして、周囲を取り囲む数百人の民衆の、刺すような視線に気づいたのです。

「か、帰るぞ! こんな……、こんな反逆者の水など!」

 彼らは捨て台詞を吐いて逃げ出しました。
 その背中に、民衆から「帰れ!」「臆病者!」という罵声が浴びせられます。

「……勝負あり、ですわね」

 私はその様子を見て、確信しました。
 王家は今、物理的な水だけでなく、最も重要な民衆の支持という基盤を完全に失いました。

「聖女様万歳! 辺境伯様万歳!」

 庭園に歓声が沸き起こります。
 私は手を振って応えながら、マックス様に耳打ちしました。

「マックス様。……これで王都の世論は味方につけました。次は経済です」

「経済?」

「はい。民衆には水を配りましたが……、貴族たちには兵糧攻めを行います」

 私は懐から、伝書鳩に持たせるための小さな手紙を取り出しました。
 宛先は、アイゼンガルド大橋の管理事務所。

「あの橋を封鎖します。……王都への贅沢品の供給を、今この瞬間からストップさせますわ」

 聖女の慈悲(水)と、悪魔の冷徹さ(物流封鎖)。
 この二つを使い分けることこそが、本当の統治者です。

「さあ、法廷の時間が迫っています。……行きましょうか」

 ドレスを翻し、私は歩き出しました。
 その背中には、数千人の民衆の祈りと期待が、見えない翼のように乗っていました。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】前代未聞の婚約破棄~なぜあなたが言うの?~【長編】

暖夢 由
恋愛
「サリー・ナシェルカ伯爵令嬢、あなたの婚約は破棄いたします!」 高らかに宣言された婚約破棄の言葉。 ドルマン侯爵主催のガーデンパーティーの庭にその声は響き渡った。 でもその婚約破棄、どうしてあなたが言うのですか? ********* 以前投稿した小説を長編版にリメイクして投稿しております。 内容も少し変わっておりますので、お楽し頂ければ嬉しいです。

「予備」として連れてこられた私が、本命を連れてきたと勘違いした王国の滅亡フラグを華麗に回収して隣国の聖女になりました

平山和人
恋愛
王国の辺境伯令嬢セレスティアは、生まれつき高い治癒魔法を持つ聖女の器でした。しかし、十年間の婚約期間の末、王太子ルシウスから「真の聖女は別にいる。お前は不要になった」と一方的に婚約を破棄されます。ルシウスが連れてきたのは、派手な加護を持つ自称「聖女」の少女、リリア。セレスティアは失意の中、国境を越えた隣国シエルヴァード帝国へ。 一方、ルシウスはセレスティアの地味な治癒魔法こそが、王国の呪いの進行を十年間食い止めていた「代替の聖女」の役割だったことに気づきません。彼の連れてきたリリアは、見かけの派手さとは裏腹に呪いを加速させる力を持っていました。 隣国でその真の力を認められたセレスティアは、帝国の聖女として迎えられます。王国が衰退し、隣国が隆盛を極める中、ルシウスはようやくセレスティアの真価に気づき復縁を迫りますが、後の祭り。これは、価値を誤認した愚かな男と、自分の力で世界を変えた本物の聖女の、代わりではなく主役になる物語です。

もう散々泣いて悔やんだから、過去に戻ったら絶対に間違えない

もーりんもも
恋愛
セラフィネは一目惚れで結婚した夫に裏切られ、満足な食事も与えられず自宅に軟禁されていた。 ……私が馬鹿だった。それは分かっているけど悔しい。夫と出会う前からやり直したい。 そのチャンスを手に入れたセラフィネは復讐を誓う――。

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

彼女の離縁とその波紋

豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。 ※子どもに関するセンシティブな内容があります。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

平民とでも結婚すれば?と言われたので、隣国の王と結婚しました

ゆっこ
恋愛
「リリアーナ・ベルフォード、これまでの婚約は白紙に戻す」  その言葉を聞いた瞬間、私はようやく――心のどこかで予感していた結末に、静かに息を吐いた。  王太子アルベルト殿下。金糸の髪に、これ見よがしな笑み。彼の隣には、私が知っている顔がある。  ――侯爵令嬢、ミレーユ・カスタニア。  学園で何かと殿下に寄り添い、私を「高慢な婚約者」と陰で嘲っていた令嬢だ。 「殿下、どういうことでしょう?」  私の声は驚くほど落ち着いていた。 「わたくしは、あなたの婚約者としてこれまで――」

処理中です...