殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第49話:物流封鎖

「鳩が飛び立ちましたわ」

 私はテラスの手すりから、一羽の伝書鳩が北の空へと消えていくのを見送りました。
 その足には、赤い封蝋で閉じられた、短いけれど致命的な指令書が結ばれています。

「『アイゼンガルド大橋、および全関所のゲートを閉鎖せよ。期限は無期限』……か」

 マックス様が、空を見上げながら複雑そうな表情を浮かべました。

「これで、王都への贅沢の供給は断たれる。……貴族たちはパニックになるぞ」

「ええ。それが狙いです」

 私はテラスのテーブルに戻り、ロッテが淹れてくれた、アイゼンガルドから持参した茶葉の紅茶を一口飲みました。

「勘違いしないでくださいね。私は王都の民を飢えさせようとしているのではありません。小麦や芋といった基礎食糧は、南部の平原から陸路で運ばれてきますから、庶民の食卓には影響ありません」

 私はティーカップを置きました。

「止まるのは、北の港から運ばれる新鮮な魚介類。東の果樹園からの果物。山岳地帯からの氷。そして、私たちの領地で作られたワインと化粧品……。つまり、貴族たちが生活の質を維持するために不可欠な、嗜好品だけです」

「なるほど。庶民は生き延びられるが、貴族は豊かな生活ができなくなるわけか」

「はい。彼らは今、疫病と悪臭のストレスで気が立っています。そこへ来て、楽しみだった食事やワインまで奪われたら……、その怒りの矛先はどこへ向かうでしょう?」

 私は王城の方角を冷ややかに見つめました。

「物流を握る私か。……それとも、私を怒らせて物流を止めさせた、無能な王家か」

     *

(※同時刻・アイゼンガルド大橋)

「閉門ッ!!」

 ギュンター親方(現在は橋梁管理責任者も兼任)の号令と共に、巨大な鉄のゲートが轟音を立てて降ろされた。
 橋の手前には、王都へ向かう商人たちの馬車が長蛇の列を作っていた。

「おいおい、どういうことだ! なんで通れないんだ!」

「荷台には生魚が積んであるんだぞ! 氷が溶けちまう!」

「頼む、通してくれ! これがないと王都のレストランとの契約が切れる!」

 商人たちが詰め寄るが、アイゼンガルドの兵士たちは槍を構えて一歩も引かない。

「領主代行・ジュリアンナ様の命令だ! 『王都における疫病の蔓延、および治安悪化のため、検疫として物流を封鎖する』とのことだ!」

「検疫だって!? そんなの建前だろう!」

「ああ、建前だとも。だが、通すわけにはいかん。……文句があるなら、ジュリアンナ様を不当に召喚した王家に言うんだな!」

 兵士の言葉に、商人たちは絶望して天を仰いだ。
 この橋を通れなければ、険しい山道を三日かけて迂回しなければならない。
 そんなことをすれば、魚は腐り、氷は水になり、果物は熟れすぎてゴミになる。
 彼らの積荷は、ここで価値を失うことが確定したのだ。

     *

(※王都の貴族街)

「なんですって!? 今日は魚が出ない!?」

 ある伯爵邸のダイニングルームで、夫人の悲鳴が上がった。

「申し訳ございません、奥様。市場に魚が全く入ってこないのです。……なんでも、北の橋が封鎖されたとかで」

「そんな……! じゃあ、デザートのメロンは?」

「それも届いておりません。氷屋も『氷がないから冷やせない』と……」

 食卓に並んだのは、干し肉と、萎びた野菜のスープだけ。
 華やかな貴族の食事とは程遠い、囚人のようなメニューだ。

「ふざけないで! こんな臭い街で、食事まで惨めな思いをしなきゃならないの!? ワインは? あのアイゼンガルド・ルビーを持ってきなさい!」

「それが……、酒屋にも在庫がないそうで。価格が昨日の十倍に跳ね上がっており、とても手が出ません」

「十倍ぃ!? ……レイモンド殿下は何をしているのよ! アイゼンガルドの機嫌を損ねるから、こんなことになるんじゃない!」

 夫人はナイフとフォークを投げ出した。

 同様のパニックは、王都中の屋敷で起きていた。
 金貨を持っていても、物が買えない。
 供給ショックによるハイパーインフレが、貴族経済を直撃していたのだ。

 市場では、最後の在庫となったエンジェル・スキン(滑石パウダー)を巡って、貴婦人たちが掴み合いの喧嘩を始めているという噂さえあった。

     *

「お嬢様、情報が入りました。市場の魚の値段が、金貨一枚にまで高騰しているそうです」

 ロッテが、どこから仕入れたのか焼き立てのパンを齧りながら報告してくれました。

「金貨一枚……。庶民の年収並みですね。需給バランスが完全に崩壊しています」

 私は手元のリストをチェックしました。
 経済封鎖の効果は覿面です。
 貴族たちは飢餓状態に陥り、その不満は爆発寸前。

「これで、法廷の陪審員となる貴族たちの心理状態は整いました」

 私は立ち上がり、用意しておいた勝負服――最高級のアイゼンガルド産シルクで仕立てた、シンプルだが圧倒的な品格を持つドレス――に袖を通しました。

「彼らは今、私を罪人として裁きたいのではありません。『どうか機嫌を直して、物流を再開してください』と懇願したくてたまらないのです」

「なるほど。……胃袋を掴むというのは、剣を突きつけるより恐ろしいな」

 マックス様が、正装の襟を正しながら苦笑します。

「ええ。物流を制する者が、世界を制するのです」

 私は鏡の前で、胸元の蛍石のペンダントを直しました。
 紫と緑の光が、決意のように強く輝きます。

「さあ、行きましょう。……レイモンド殿下に、最後の請求書を渡しに」

 私たちは馬車に乗り込みました。
 向かう先は王宮。
 門の外には、私たちの動向を見守る何千もの民衆と、生活を脅かされた貴族たちの視線が集中していました。

 すべての決着をつける、法廷の扉が開かれます。

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