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第58話:世論の誘導
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「……やはり、計算通りですわ」
決戦前日の夜。
私は王都別邸の執務室で、一枚の海図と、明日の潮汐表を重ね合わせていました。
「明日の夜八時。……満潮のピークです。しかも、月と太陽の引力が重なる大潮の日」
私はコンパスで、レイモンド殿下の新離宮がある地点を囲みました。
「この場所の標高は、海抜わずか五十センチ。……満潮時の海面とほぼ同じ高さです」
「おいおい、正気か?」
マックス様が呆れたように海図を覗き込みました。
「波が少し高くなれば、床下浸水どころの騒ぎじゃないぞ。なぜそんな場所に建てたんだ?」
「海の上に浮いているような幻想的な宮殿がコンセプトだそうですから。……建築家は地上げ(盛り土)を提案したそうですが、殿下が『海面が遠くなる』と却下したとか」
私は呆れて肩をすくめました。
さらに悪いことに、最新の情報では、景観を優先して防潮堤と逆流防止弁(フラップゲート)も撤去されているとのこと。
「自殺行為ですわ。……海を舐めています」
「だが、そんな危険な場所に、貴族たちは集まるのか? 王家への不満は爆発寸前だろう?」
「ええ。ですから、少し背中を押して差し上げました」
私は、今朝発行された新聞の夕刊をテーブルに置きました。
そこには、私のインタビュー記事が掲載されています。
『聖女ジュリアンナ、王太子の舞踏会へ出席を表明!』
『王家との和解なるか? 物流再開の話し合いが行われる可能性も』
「……なるほど。君が行くなら、物流が再開するかもしれないと期待させるわけか」
「はい。貴族たちは飢えています。魚とワインのためなら、泥舟にでも乗るでしょう。……それに、聖女がいる場所なら安全だという集団心理も働きます」
私はニヤリと笑いました。
「観客は多ければ多いほど良いのです。……王家の威信が水に流される瞬間を目撃する証人は、一人でも多い方が楽しいですから」
翌日。
私たちは、王都の港から船で、会場となる新離宮へ向かいました。
陸路もありますが、あえて海路を選んだのには理由があります。
「お嬢様、このお船……なんだか変です」
ロッテが、私たちが乗っている小型船の船底を不思議そうに見ています。
それは、アイゼンガルドの職人が一晩で改造した特注のゴンドラでした。
外見は金色の装飾で優雅に見えますが、船底は浅く、安定性を高めるためのアウトリガー(浮き)が隠されています。
「変ではありませんよ、ロッテ。これは救命艇としての機能を備えた、高機能なドレスアップ・ボートです」
「救命艇……? 沈むんですか? 私、泳げませんよぉ!」
「大丈夫です。あなたのドレスの下には、コルクを縫い込んだ補正下着(という名のライフジャケット)を着せてありますから」
船は穏やかな内海を進み、やがて前方に白亜の宮殿が見えてきました。
「……あれか」
マックス様が目を細めます。
海に突き出た岬の先端。
波打ち際ギリギリに建てられたその宮殿は、ガラスを多用したモダンなデザインで、夕陽を浴びてキラキラと輝いています。
確かに、見た目は美しい。
まるで海の上に浮かんでいるようです。
「……本当に、海面スレスレだな。満潮まであと数時間あるというのに、すでに波がテラスの柱を洗っているぞ」
「基礎部分を見てください、マックス様」
私は双眼鏡を手渡しました。
「コンクリートの表面に、白い粉が吹いています。あれは塩害です。……海砂を使った粗悪なコンクリートが、潮風と海水で劣化しています。鉄筋が錆びて膨張し、内部からひび割れを起こしているはずです」
「……あんな場所に、数百人を詰め込むのか」
「ええ。重量負荷がかかれば、劣化速度は加速します。……それに加えて、今夜は風も出てきました」
私は湿った海風を肌に感じました。
低気圧が接近しています。
気圧が下がれば海面は吸い上げられ、さらに水位が上がります(吸い上げ効果)。
「全ての条件が整いましたわ」
船が桟橋に到着すると、そこにはすでに多くの貴族たちの馬車や船が集まっていました。
彼らは皆、不安と期待の入り混じった顔で、美しいけれど危ういガラスの城へと吸い込まれていきます。
「ようこそ、ジュリアンナ嬢!」
桟橋で待ち構えていたのは、満面の(しかし引きつった)笑みを浮かべたレイモンド殿下でした。
新品の燕尾服に身を包んでいますが、その目は血走り、追い詰められた獣のような光を宿しています。
「よく来てくれた! さあ、中へ! 今日は最高のもてなしを用意しているぞ!」
「ごきげんよう、殿下。……素晴らしいロケーションですわね。水際立った演出を期待しておりますわ」
私は皮肉を込めて挨拶し、マックス様のエスコートで桟橋を渡りました。
足元の板の隙間から、黒い海水がチャプチャプと音を立てて迫ってきています。
会場に入ると、そこはクリスタルと鏡で装飾された、まばゆいばかりの空間でした。
床は一面の大理石(もちろん本物ではなく、滑りやすいタイル)。
壁一面の巨大なガラス窓からは、夜の海が一望できます。
「キャハハ! 見てぇ、ジュリアンナ! 海が近いでしょ! まるで人魚姫になった気分よぉ!」
シルヴィア様が、海をバックにポーズを取っています。
彼女のドレスは、鱗を模したスパンコールがびっしりと縫い付けられた、重そうなマーメイドラインです。
「……ええ、人魚姫ですか。素晴らしいチョイスですわ」
私は彼女の足元を見ました。
その重いドレスで水に浸かれば、そのまま海の底へ引きずり込まれるでしょう。
人魚姫の結末が、泡になって消えることだと、彼女は知っているのでしょうか。
「さあ、宴の始まりだ!」
レイモンド殿下が合図をし、楽団が音楽を奏で始めました。
しかし、その優雅なワルツの裏で、私は別の音を聞き取っていました。
床下の配管から響く、不気味な水の音。
そして、窓の外で次第に荒くなり始めた波の音。
「……カウントダウン開始ですわ」
私はマックス様に目配せをし、出口(避難経路)に近い柱の影へと移動しました。
潮が満ちる時、この華やかな舞踏会は、阿鼻叫喚の水族館へと変わるのです。
決戦前日の夜。
私は王都別邸の執務室で、一枚の海図と、明日の潮汐表を重ね合わせていました。
「明日の夜八時。……満潮のピークです。しかも、月と太陽の引力が重なる大潮の日」
私はコンパスで、レイモンド殿下の新離宮がある地点を囲みました。
「この場所の標高は、海抜わずか五十センチ。……満潮時の海面とほぼ同じ高さです」
「おいおい、正気か?」
マックス様が呆れたように海図を覗き込みました。
「波が少し高くなれば、床下浸水どころの騒ぎじゃないぞ。なぜそんな場所に建てたんだ?」
「海の上に浮いているような幻想的な宮殿がコンセプトだそうですから。……建築家は地上げ(盛り土)を提案したそうですが、殿下が『海面が遠くなる』と却下したとか」
私は呆れて肩をすくめました。
さらに悪いことに、最新の情報では、景観を優先して防潮堤と逆流防止弁(フラップゲート)も撤去されているとのこと。
「自殺行為ですわ。……海を舐めています」
「だが、そんな危険な場所に、貴族たちは集まるのか? 王家への不満は爆発寸前だろう?」
「ええ。ですから、少し背中を押して差し上げました」
私は、今朝発行された新聞の夕刊をテーブルに置きました。
そこには、私のインタビュー記事が掲載されています。
『聖女ジュリアンナ、王太子の舞踏会へ出席を表明!』
『王家との和解なるか? 物流再開の話し合いが行われる可能性も』
「……なるほど。君が行くなら、物流が再開するかもしれないと期待させるわけか」
「はい。貴族たちは飢えています。魚とワインのためなら、泥舟にでも乗るでしょう。……それに、聖女がいる場所なら安全だという集団心理も働きます」
私はニヤリと笑いました。
「観客は多ければ多いほど良いのです。……王家の威信が水に流される瞬間を目撃する証人は、一人でも多い方が楽しいですから」
翌日。
私たちは、王都の港から船で、会場となる新離宮へ向かいました。
陸路もありますが、あえて海路を選んだのには理由があります。
「お嬢様、このお船……なんだか変です」
ロッテが、私たちが乗っている小型船の船底を不思議そうに見ています。
それは、アイゼンガルドの職人が一晩で改造した特注のゴンドラでした。
外見は金色の装飾で優雅に見えますが、船底は浅く、安定性を高めるためのアウトリガー(浮き)が隠されています。
「変ではありませんよ、ロッテ。これは救命艇としての機能を備えた、高機能なドレスアップ・ボートです」
「救命艇……? 沈むんですか? 私、泳げませんよぉ!」
「大丈夫です。あなたのドレスの下には、コルクを縫い込んだ補正下着(という名のライフジャケット)を着せてありますから」
船は穏やかな内海を進み、やがて前方に白亜の宮殿が見えてきました。
「……あれか」
マックス様が目を細めます。
海に突き出た岬の先端。
波打ち際ギリギリに建てられたその宮殿は、ガラスを多用したモダンなデザインで、夕陽を浴びてキラキラと輝いています。
確かに、見た目は美しい。
まるで海の上に浮かんでいるようです。
「……本当に、海面スレスレだな。満潮まであと数時間あるというのに、すでに波がテラスの柱を洗っているぞ」
「基礎部分を見てください、マックス様」
私は双眼鏡を手渡しました。
「コンクリートの表面に、白い粉が吹いています。あれは塩害です。……海砂を使った粗悪なコンクリートが、潮風と海水で劣化しています。鉄筋が錆びて膨張し、内部からひび割れを起こしているはずです」
「……あんな場所に、数百人を詰め込むのか」
「ええ。重量負荷がかかれば、劣化速度は加速します。……それに加えて、今夜は風も出てきました」
私は湿った海風を肌に感じました。
低気圧が接近しています。
気圧が下がれば海面は吸い上げられ、さらに水位が上がります(吸い上げ効果)。
「全ての条件が整いましたわ」
船が桟橋に到着すると、そこにはすでに多くの貴族たちの馬車や船が集まっていました。
彼らは皆、不安と期待の入り混じった顔で、美しいけれど危ういガラスの城へと吸い込まれていきます。
「ようこそ、ジュリアンナ嬢!」
桟橋で待ち構えていたのは、満面の(しかし引きつった)笑みを浮かべたレイモンド殿下でした。
新品の燕尾服に身を包んでいますが、その目は血走り、追い詰められた獣のような光を宿しています。
「よく来てくれた! さあ、中へ! 今日は最高のもてなしを用意しているぞ!」
「ごきげんよう、殿下。……素晴らしいロケーションですわね。水際立った演出を期待しておりますわ」
私は皮肉を込めて挨拶し、マックス様のエスコートで桟橋を渡りました。
足元の板の隙間から、黒い海水がチャプチャプと音を立てて迫ってきています。
会場に入ると、そこはクリスタルと鏡で装飾された、まばゆいばかりの空間でした。
床は一面の大理石(もちろん本物ではなく、滑りやすいタイル)。
壁一面の巨大なガラス窓からは、夜の海が一望できます。
「キャハハ! 見てぇ、ジュリアンナ! 海が近いでしょ! まるで人魚姫になった気分よぉ!」
シルヴィア様が、海をバックにポーズを取っています。
彼女のドレスは、鱗を模したスパンコールがびっしりと縫い付けられた、重そうなマーメイドラインです。
「……ええ、人魚姫ですか。素晴らしいチョイスですわ」
私は彼女の足元を見ました。
その重いドレスで水に浸かれば、そのまま海の底へ引きずり込まれるでしょう。
人魚姫の結末が、泡になって消えることだと、彼女は知っているのでしょうか。
「さあ、宴の始まりだ!」
レイモンド殿下が合図をし、楽団が音楽を奏で始めました。
しかし、その優雅なワルツの裏で、私は別の音を聞き取っていました。
床下の配管から響く、不気味な水の音。
そして、窓の外で次第に荒くなり始めた波の音。
「……カウントダウン開始ですわ」
私はマックス様に目配せをし、出口(避難経路)に近い柱の影へと移動しました。
潮が満ちる時、この華やかな舞踏会は、阿鼻叫喚の水族館へと変わるのです。
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