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第61話:嵐の夜の避難所
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「……ひっ、ひぐっ。し、死ぬかと思いました……」
漆黒の海原を滑るように進む装甲ゴンドラの上で、救助された数名の高位貴族たちが、濡れ鼠のようになって震えていました。
彼らは皆、国の中枢を担う大臣や、大商会の会頭たちです。
ほんの一時間前までは、レイモンド殿下の新離宮でシャンパングラスを傾けていたはずの人々が、今は私の用意した毛布にくるまり、ガタガタと歯を鳴らしています。
「ご安心ください。このゴンドラは、アイゼンガルドの造船技術の粋を集めた不沈構造です。どんな高波でも転覆しませんわ」
私は船首でランタンを掲げ、冷静に告げました。
「それにしても、皆様。……随分と重そうですわね。ポケットに入れた宝石や金貨を海に捨てれば、もう少し早く進むのですが」
私の皮肉に、貴族たちはバツの悪そうな顔をして、懐を抑えました。
彼らは逃げる際、我先にとテーブルの上の金目のものを詰め込んでいたのです。
「ジュリアンナ嬢……、いや、ヴィクトル辺境伯夫人。感謝する。君がいなければ、我々は今頃、あのガラスの水槽で魚の餌になっていただろう」
財務大臣が、蒼白な顔で頭を下げました。
「礼には及びません。……救助費用は、後ほどきっちりと請求させていただきますから」
ゴンドラは荒れた海を乗り越え、やがて陸地へと近づきました。
目指す先は、浸水した新離宮がある岬の対岸。
小高い丘の上に建つ、私がリノベーションした王都別邸(元・廃墟)です。
「……あかりだ。灯りが見えるぞ」
誰かが叫びました。
暴風雨の中、丘の上に建つその館だけが、暖かく、力強いオレンジ色の光を放っていました。
窓ガラスは一枚も割れておらず、煙突からは穏やかな煙が立ち上っています。
「着岸します! 皆様、足元にご注意を!」
マックス様が巧みな櫂さばきでゴンドラを桟橋に寄せました。
そこでは、合羽を着たロッテと使用人たちが待機していました。
「お嬢様ー! 無事ですかー! タオルと温かいスープ、準備できてますよー!」
「ありがとう、ロッテ。……さあ、皆様。こちらへどうぞ。安全圏へご案内いたします」
館の重厚な扉が開かれると、そこは別世界でした。
「あ……、あったかい……」
凍えていた貴族たちが、夢見心地で呟きました。
外は嵐だというのに、館の中は無音に近い静寂と、春のような暖かさに満ちています。
断熱材(ロックウール)と二重窓(ペアガラス)、そして床暖房の威力です。
「どうぞ、こちらのタオルを。スープはアイゼンガルド特産の野菜とビネガーのポトフです。冷えたお体を芯から温めますわ」
ロッテたちが手際よく世話を焼きます。
貴族たちは、ふかふかのソファに沈み込み、温かいスープを啜りました。
その一口が喉を通った瞬間、彼らの目から涙が溢れ出しました。
「うまい……。なんだこれは、生き返るようだ……」
「あの新離宮では、干し肉と腐りかけの水しかなかったのに……」
天国と地獄。
そのコントラストがあまりにも鮮明すぎました。
「さて、皆様」
私は彼らが落ち着いた頃合いを見計らって、書類の束をテーブルに置きました。
「人心地ついたところで、ビジネスの話をいたしましょう」
「ビ、ビジネス?」
「はい。これはアイゼンガルド・王都間 優先通商条約の草案です」
私はニッコリと微笑みました。
「この条約に署名された方には、明日からアイゼンガルド大橋の通行を許可し、我が領地の特産品(ワイン、化粧品、ガラス製品)を優先的に卸させていただきます。……もちろん、今回の救助費用もお友達価格にしてさしあげますわ」
貴族たちが顔を見合わせました。
これは事実上の踏み絵です。
レイモンド殿下を見限り、私(アイゼンガルド)の経済圏に下るかどうかの選択。
しかし、迷う余地などありませんでした。
彼らは今、身を持って知ったからです。
レイモンド殿下の見栄だけの建築がいかに脆く、私の機能的な建築がいかに快適で安全であるかを。
「……サインする。喜んでサインさせてもらおう」
財務大臣が震える手で羽根ペンを取りました。
「私もだ!」
「私もお願いします! もう、あんな泥船(王太子)に乗るのは御免だ!」
次々と署名がなされていきます。
ペンが紙を走る音は、レイモンド殿下の政治生命が断ち切られる音でもありました。
「ありがとうございます。……賢明なご判断ですわ」
私は契約書を回収し、窓の外を見ました。
嵐の向こう、岬の先端にあるはずの新離宮は、停電したのか漆黒の闇に包まれ、波の音だけが響いています。
「……あの、ジュリアンナ様。殿下とシルヴィア嬢は……?」
一人の貴婦人が、恐る恐る尋ねてきました。
「ご心配なく。建物自体は鉄骨造ですので、即座に倒壊はしません。……ただ、水が引く朝までは、冷たい海水に浸かって頭を冷やしていただくことになりますが」
私は冷徹に告げました。
「リーダーとは、一番最後に船を降りるものです。……彼らは今、その責任を全うされているのですわ」
貴族たちは身震いし、そして深く納得したように頷きました。
この夜、王都の実権は、名実ともに王城からこの元・廃墟へと移ったのです。
「さあ、ロッテ。皆様に追加のワインを。……明日は忙しくなりますよ。水が引いた後の残骸から、もっと面白い証拠が出てくるはずですから」
「はいっ! 宝探しですね!」
外は激しい雨。
けれど、この堅牢な館の中では、グラスを合わせる穏やかな音が、夜更けまで響いていました。
漆黒の海原を滑るように進む装甲ゴンドラの上で、救助された数名の高位貴族たちが、濡れ鼠のようになって震えていました。
彼らは皆、国の中枢を担う大臣や、大商会の会頭たちです。
ほんの一時間前までは、レイモンド殿下の新離宮でシャンパングラスを傾けていたはずの人々が、今は私の用意した毛布にくるまり、ガタガタと歯を鳴らしています。
「ご安心ください。このゴンドラは、アイゼンガルドの造船技術の粋を集めた不沈構造です。どんな高波でも転覆しませんわ」
私は船首でランタンを掲げ、冷静に告げました。
「それにしても、皆様。……随分と重そうですわね。ポケットに入れた宝石や金貨を海に捨てれば、もう少し早く進むのですが」
私の皮肉に、貴族たちはバツの悪そうな顔をして、懐を抑えました。
彼らは逃げる際、我先にとテーブルの上の金目のものを詰め込んでいたのです。
「ジュリアンナ嬢……、いや、ヴィクトル辺境伯夫人。感謝する。君がいなければ、我々は今頃、あのガラスの水槽で魚の餌になっていただろう」
財務大臣が、蒼白な顔で頭を下げました。
「礼には及びません。……救助費用は、後ほどきっちりと請求させていただきますから」
ゴンドラは荒れた海を乗り越え、やがて陸地へと近づきました。
目指す先は、浸水した新離宮がある岬の対岸。
小高い丘の上に建つ、私がリノベーションした王都別邸(元・廃墟)です。
「……あかりだ。灯りが見えるぞ」
誰かが叫びました。
暴風雨の中、丘の上に建つその館だけが、暖かく、力強いオレンジ色の光を放っていました。
窓ガラスは一枚も割れておらず、煙突からは穏やかな煙が立ち上っています。
「着岸します! 皆様、足元にご注意を!」
マックス様が巧みな櫂さばきでゴンドラを桟橋に寄せました。
そこでは、合羽を着たロッテと使用人たちが待機していました。
「お嬢様ー! 無事ですかー! タオルと温かいスープ、準備できてますよー!」
「ありがとう、ロッテ。……さあ、皆様。こちらへどうぞ。安全圏へご案内いたします」
館の重厚な扉が開かれると、そこは別世界でした。
「あ……、あったかい……」
凍えていた貴族たちが、夢見心地で呟きました。
外は嵐だというのに、館の中は無音に近い静寂と、春のような暖かさに満ちています。
断熱材(ロックウール)と二重窓(ペアガラス)、そして床暖房の威力です。
「どうぞ、こちらのタオルを。スープはアイゼンガルド特産の野菜とビネガーのポトフです。冷えたお体を芯から温めますわ」
ロッテたちが手際よく世話を焼きます。
貴族たちは、ふかふかのソファに沈み込み、温かいスープを啜りました。
その一口が喉を通った瞬間、彼らの目から涙が溢れ出しました。
「うまい……。なんだこれは、生き返るようだ……」
「あの新離宮では、干し肉と腐りかけの水しかなかったのに……」
天国と地獄。
そのコントラストがあまりにも鮮明すぎました。
「さて、皆様」
私は彼らが落ち着いた頃合いを見計らって、書類の束をテーブルに置きました。
「人心地ついたところで、ビジネスの話をいたしましょう」
「ビ、ビジネス?」
「はい。これはアイゼンガルド・王都間 優先通商条約の草案です」
私はニッコリと微笑みました。
「この条約に署名された方には、明日からアイゼンガルド大橋の通行を許可し、我が領地の特産品(ワイン、化粧品、ガラス製品)を優先的に卸させていただきます。……もちろん、今回の救助費用もお友達価格にしてさしあげますわ」
貴族たちが顔を見合わせました。
これは事実上の踏み絵です。
レイモンド殿下を見限り、私(アイゼンガルド)の経済圏に下るかどうかの選択。
しかし、迷う余地などありませんでした。
彼らは今、身を持って知ったからです。
レイモンド殿下の見栄だけの建築がいかに脆く、私の機能的な建築がいかに快適で安全であるかを。
「……サインする。喜んでサインさせてもらおう」
財務大臣が震える手で羽根ペンを取りました。
「私もだ!」
「私もお願いします! もう、あんな泥船(王太子)に乗るのは御免だ!」
次々と署名がなされていきます。
ペンが紙を走る音は、レイモンド殿下の政治生命が断ち切られる音でもありました。
「ありがとうございます。……賢明なご判断ですわ」
私は契約書を回収し、窓の外を見ました。
嵐の向こう、岬の先端にあるはずの新離宮は、停電したのか漆黒の闇に包まれ、波の音だけが響いています。
「……あの、ジュリアンナ様。殿下とシルヴィア嬢は……?」
一人の貴婦人が、恐る恐る尋ねてきました。
「ご心配なく。建物自体は鉄骨造ですので、即座に倒壊はしません。……ただ、水が引く朝までは、冷たい海水に浸かって頭を冷やしていただくことになりますが」
私は冷徹に告げました。
「リーダーとは、一番最後に船を降りるものです。……彼らは今、その責任を全うされているのですわ」
貴族たちは身震いし、そして深く納得したように頷きました。
この夜、王都の実権は、名実ともに王城からこの元・廃墟へと移ったのです。
「さあ、ロッテ。皆様に追加のワインを。……明日は忙しくなりますよ。水が引いた後の残骸から、もっと面白い証拠が出てくるはずですから」
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けれど、この堅牢な館の中では、グラスを合わせる穏やかな音が、夜更けまで響いていました。
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