62 / 69
第62話:水門の設計ミス
しおりを挟む
嵐が過ぎ去った翌朝。
王都の空は、昨夜の暴風雨が嘘のように晴れ渡っていました。
しかし、その青空の下に晒された新離宮の姿は、悲惨という言葉では生温いものでした。
自慢のガラス壁はあちこちで砕け散り、室内には海から運ばれた海藻や流木、そして大量のヘドロが堆積しています。
かつて海に浮かぶ宝石と謳われた宮殿は、今や巨大なゴミ箱と化していました。
「……うぅ、……さ、寒い……」
「助けて……、誰か……」
泥水が引いた大広間のシャンデリアの上には、二つの濡れた塊がしがみついていました。
レイモンド殿下とシルヴィア様です。
二人は水が引いた後も、床のヘドロに降りる勇気がなく(あるいは恐怖で腰が抜けて)、高い場所で震えながら朝を迎えたのです。
「救助隊、突入! 要人を確保せよ!」
マックス様の号令で、アイゼンガルドの兵士たちが突入しました。
王宮の騎士団ではありません。
彼らは昨夜の混乱で逃げ散っており、現場を制圧しているのは、今や実質的な指揮権を持つ私たちアイゼンガルド勢でした。
「いやぁぁ! 触らないで! 泥がつくぅ!」
「くそっ、私の燕尾服が……! これは特注なんだぞ!」
兵士に抱え下ろされた二人は、全身ずぶ濡れで、髪にはワカメが絡まっています。
シルヴィア様の自慢のマーメイドドレスは水分を吸って鉛のように重くなり、引きずるたびにズズズ……、と重い音を立てていました。
「ごきげんよう、殿下。……水も滴るいい男とは、まさにこのことですわね」
私は長靴を履いて、泥だらけのホールに入りました。
後ろには、昨夜救助した貴族たちや、新聞記者たちがぞろぞろとついてきています。
「き、貴様ぁ……! よくも私を見捨てて!」
殿下が食ってかかろうとしますが、足元が滑って無様に転びました。
「見捨てたのではありません。定員オーバーでしたので。……さて、皆様。現場検証を始めましょうか」
私は杖で、床の一部を指し示しました。
そこには、海水が噴き出した排水口があります。
「昨夜、ここから海水が逆流しました。本来、このような海沿いの低地に建物を建てる場合、絶対に欠かせない安全装置があります」
私は記者たちを引き連れ、建物の外――海に面したテラスの下へと回りました。
そこには、太い排水パイプが口を開けています。
「ご覧ください。ここが放流口です」
パイプの中は空っぽで、奥まで見通せます。
「本来、ここにはフラップゲート(逆流防止弁)という、蓋が取り付けられているはずなのです」
私は手帳に図解を描いて見せました。
内側から水が流れるときは、水圧で蓋が開く。
外側(海)の水位が上がると、外からの圧力で蓋がパタンと閉まり、海水の侵入を防ぐ。
「非常にシンプルですが、確実な仕組みです。これさえあれば、昨夜のような大潮でも、床下浸水程度で済んだはずです」
「な、なるほど……。蓋があれば、逆流しなかったのか」
「なぜついていないんだ? 工事のし忘れか?」
貴族たちがざわめきます。
私はパイプの縁を指でなぞりました。
そこには、蝶番を取り付けるためのネジ穴だけが開いており、肝心の蓋がありません。
「工事忘れではありません。……意図的に撤去されたのです」
私はレイモンド殿下を振り返りました。
「殿下。建設中、建築家が取り付けようとした鉄の蓋を、『無骨で美しくない』『水の流れが見えない』と言って、外させたのを覚えておいでですか?」
「うっ……」
殿下の顔が引きつりました。
「貴方は……『たかが鉄の板一枚、あってもなくても変わらないだろう』と仰いましたね? 景観を損ねるからと」
「そ、それは! 優雅な宮殿の下に、あんな錆びた鉄板があったら台無しじゃないか! まさか、海が逆流してくるなんて……」
「想像力の欠如です」
私は冷徹に断罪しました。
「たかが鉄の板一枚。……その一枚が、生死を分けるのです。あなたは美観のために安全を捨てた。その結果が、この泥だらけの惨状です」
私は泥まみれのシルヴィア様を見ました。
「シルヴィア様。あなたが履いているガラスの靴も、今は泥で見えませんわね。……基礎的な機能(安全)が担保されていなければ、どんな装飾も無意味だということを、身を持って学ばれたことでしょう」
「うぅ……、うわぁぁぁん!」
シルヴィア様が泣き崩れます。
記者たちが一斉にフラッシュを焚き(魔導カメラの光)、その惨めな姿を記録しました。
「お嬢様、つまり……。お風呂の栓をしないで『お湯がたまらない!』って騒いでたようなものですか?」
ロッテが呆れたように呟きます。
「ええ。しかも、『栓なんてダサイから捨てちゃえ』と言って捨てたのです。……自業自得ですわね」
これで、昨夜の被害が天災ではなく、明らかな人災であることが証明されました。
賠償責任は、設計を変更させた施主――レイモンド殿下個人に降りかかります。
「さあ、次に行きましょうか。……建物は壊れましたが、瓦礫の中にはまだ過去の悪事が埋まっていますから」
私は杖を振るい、瓦礫の山を指しました。
そこには、海水の塩分と衝撃で崩れ落ちた壁の断面が露出していました。
「ロッテ、ハンマーを持ってきて。……壁の中身を確認しますよ」
王都の空は、昨夜の暴風雨が嘘のように晴れ渡っていました。
しかし、その青空の下に晒された新離宮の姿は、悲惨という言葉では生温いものでした。
自慢のガラス壁はあちこちで砕け散り、室内には海から運ばれた海藻や流木、そして大量のヘドロが堆積しています。
かつて海に浮かぶ宝石と謳われた宮殿は、今や巨大なゴミ箱と化していました。
「……うぅ、……さ、寒い……」
「助けて……、誰か……」
泥水が引いた大広間のシャンデリアの上には、二つの濡れた塊がしがみついていました。
レイモンド殿下とシルヴィア様です。
二人は水が引いた後も、床のヘドロに降りる勇気がなく(あるいは恐怖で腰が抜けて)、高い場所で震えながら朝を迎えたのです。
「救助隊、突入! 要人を確保せよ!」
マックス様の号令で、アイゼンガルドの兵士たちが突入しました。
王宮の騎士団ではありません。
彼らは昨夜の混乱で逃げ散っており、現場を制圧しているのは、今や実質的な指揮権を持つ私たちアイゼンガルド勢でした。
「いやぁぁ! 触らないで! 泥がつくぅ!」
「くそっ、私の燕尾服が……! これは特注なんだぞ!」
兵士に抱え下ろされた二人は、全身ずぶ濡れで、髪にはワカメが絡まっています。
シルヴィア様の自慢のマーメイドドレスは水分を吸って鉛のように重くなり、引きずるたびにズズズ……、と重い音を立てていました。
「ごきげんよう、殿下。……水も滴るいい男とは、まさにこのことですわね」
私は長靴を履いて、泥だらけのホールに入りました。
後ろには、昨夜救助した貴族たちや、新聞記者たちがぞろぞろとついてきています。
「き、貴様ぁ……! よくも私を見捨てて!」
殿下が食ってかかろうとしますが、足元が滑って無様に転びました。
「見捨てたのではありません。定員オーバーでしたので。……さて、皆様。現場検証を始めましょうか」
私は杖で、床の一部を指し示しました。
そこには、海水が噴き出した排水口があります。
「昨夜、ここから海水が逆流しました。本来、このような海沿いの低地に建物を建てる場合、絶対に欠かせない安全装置があります」
私は記者たちを引き連れ、建物の外――海に面したテラスの下へと回りました。
そこには、太い排水パイプが口を開けています。
「ご覧ください。ここが放流口です」
パイプの中は空っぽで、奥まで見通せます。
「本来、ここにはフラップゲート(逆流防止弁)という、蓋が取り付けられているはずなのです」
私は手帳に図解を描いて見せました。
内側から水が流れるときは、水圧で蓋が開く。
外側(海)の水位が上がると、外からの圧力で蓋がパタンと閉まり、海水の侵入を防ぐ。
「非常にシンプルですが、確実な仕組みです。これさえあれば、昨夜のような大潮でも、床下浸水程度で済んだはずです」
「な、なるほど……。蓋があれば、逆流しなかったのか」
「なぜついていないんだ? 工事のし忘れか?」
貴族たちがざわめきます。
私はパイプの縁を指でなぞりました。
そこには、蝶番を取り付けるためのネジ穴だけが開いており、肝心の蓋がありません。
「工事忘れではありません。……意図的に撤去されたのです」
私はレイモンド殿下を振り返りました。
「殿下。建設中、建築家が取り付けようとした鉄の蓋を、『無骨で美しくない』『水の流れが見えない』と言って、外させたのを覚えておいでですか?」
「うっ……」
殿下の顔が引きつりました。
「貴方は……『たかが鉄の板一枚、あってもなくても変わらないだろう』と仰いましたね? 景観を損ねるからと」
「そ、それは! 優雅な宮殿の下に、あんな錆びた鉄板があったら台無しじゃないか! まさか、海が逆流してくるなんて……」
「想像力の欠如です」
私は冷徹に断罪しました。
「たかが鉄の板一枚。……その一枚が、生死を分けるのです。あなたは美観のために安全を捨てた。その結果が、この泥だらけの惨状です」
私は泥まみれのシルヴィア様を見ました。
「シルヴィア様。あなたが履いているガラスの靴も、今は泥で見えませんわね。……基礎的な機能(安全)が担保されていなければ、どんな装飾も無意味だということを、身を持って学ばれたことでしょう」
「うぅ……、うわぁぁぁん!」
シルヴィア様が泣き崩れます。
記者たちが一斉にフラッシュを焚き(魔導カメラの光)、その惨めな姿を記録しました。
「お嬢様、つまり……。お風呂の栓をしないで『お湯がたまらない!』って騒いでたようなものですか?」
ロッテが呆れたように呟きます。
「ええ。しかも、『栓なんてダサイから捨てちゃえ』と言って捨てたのです。……自業自得ですわね」
これで、昨夜の被害が天災ではなく、明らかな人災であることが証明されました。
賠償責任は、設計を変更させた施主――レイモンド殿下個人に降りかかります。
「さあ、次に行きましょうか。……建物は壊れましたが、瓦礫の中にはまだ過去の悪事が埋まっていますから」
私は杖を振るい、瓦礫の山を指しました。
そこには、海水の塩分と衝撃で崩れ落ちた壁の断面が露出していました。
「ロッテ、ハンマーを持ってきて。……壁の中身を確認しますよ」
2
あなたにおすすめの小説
【完結】前代未聞の婚約破棄~なぜあなたが言うの?~【長編】
暖夢 由
恋愛
「サリー・ナシェルカ伯爵令嬢、あなたの婚約は破棄いたします!」
高らかに宣言された婚約破棄の言葉。
ドルマン侯爵主催のガーデンパーティーの庭にその声は響き渡った。
でもその婚約破棄、どうしてあなたが言うのですか?
*********
以前投稿した小説を長編版にリメイクして投稿しております。
内容も少し変わっておりますので、お楽し頂ければ嬉しいです。
「予備」として連れてこられた私が、本命を連れてきたと勘違いした王国の滅亡フラグを華麗に回収して隣国の聖女になりました
平山和人
恋愛
王国の辺境伯令嬢セレスティアは、生まれつき高い治癒魔法を持つ聖女の器でした。しかし、十年間の婚約期間の末、王太子ルシウスから「真の聖女は別にいる。お前は不要になった」と一方的に婚約を破棄されます。ルシウスが連れてきたのは、派手な加護を持つ自称「聖女」の少女、リリア。セレスティアは失意の中、国境を越えた隣国シエルヴァード帝国へ。
一方、ルシウスはセレスティアの地味な治癒魔法こそが、王国の呪いの進行を十年間食い止めていた「代替の聖女」の役割だったことに気づきません。彼の連れてきたリリアは、見かけの派手さとは裏腹に呪いを加速させる力を持っていました。
隣国でその真の力を認められたセレスティアは、帝国の聖女として迎えられます。王国が衰退し、隣国が隆盛を極める中、ルシウスはようやくセレスティアの真価に気づき復縁を迫りますが、後の祭り。これは、価値を誤認した愚かな男と、自分の力で世界を変えた本物の聖女の、代わりではなく主役になる物語です。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
もう散々泣いて悔やんだから、過去に戻ったら絶対に間違えない
もーりんもも
恋愛
セラフィネは一目惚れで結婚した夫に裏切られ、満足な食事も与えられず自宅に軟禁されていた。
……私が馬鹿だった。それは分かっているけど悔しい。夫と出会う前からやり直したい。 そのチャンスを手に入れたセラフィネは復讐を誓う――。
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
婚約破棄を伝えられて居るのは帝国の皇女様ですが…国は大丈夫でしょうか【完結】
繭
恋愛
卒業式の最中、王子が隣国皇帝陛下の娘で有る皇女に婚約破棄を突き付けると言う、前代未聞の所業が行われ阿鼻叫喚の事態に陥り、卒業式どころでは無くなる事から物語は始まる。
果たして王子の国は無事に国を維持できるのか?
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる