殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第62話:水門の設計ミス

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 嵐が過ぎ去った翌朝。
 王都の空は、昨夜の暴風雨が嘘のように晴れ渡っていました。

 しかし、その青空の下に晒された新離宮の姿は、悲惨という言葉では生温いものでした。
 自慢のガラス壁はあちこちで砕け散り、室内には海から運ばれた海藻や流木、そして大量のヘドロが堆積しています。
 かつて海に浮かぶ宝石と謳われた宮殿は、今や巨大なゴミ箱と化していました。

「……うぅ、……さ、寒い……」

「助けて……、誰か……」

 泥水が引いた大広間のシャンデリアの上には、二つの濡れた塊がしがみついていました。
 レイモンド殿下とシルヴィア様です。
 二人は水が引いた後も、床のヘドロに降りる勇気がなく(あるいは恐怖で腰が抜けて)、高い場所で震えながら朝を迎えたのです。

「救助隊、突入! 要人を確保せよ!」

 マックス様の号令で、アイゼンガルドの兵士たちが突入しました。
 王宮の騎士団ではありません。
 彼らは昨夜の混乱で逃げ散っており、現場を制圧しているのは、今や実質的な指揮権を持つ私たちアイゼンガルド勢でした。

「いやぁぁ! 触らないで! 泥がつくぅ!」

「くそっ、私の燕尾服が……! これは特注なんだぞ!」

 兵士に抱え下ろされた二人は、全身ずぶ濡れで、髪にはワカメが絡まっています。
 シルヴィア様の自慢のマーメイドドレスは水分を吸って鉛のように重くなり、引きずるたびにズズズ……、と重い音を立てていました。

「ごきげんよう、殿下。……水も滴るいい男とは、まさにこのことですわね」

 私は長靴を履いて、泥だらけのホールに入りました。
 後ろには、昨夜救助した貴族たちや、新聞記者たちがぞろぞろとついてきています。

「き、貴様ぁ……! よくも私を見捨てて!」

 殿下が食ってかかろうとしますが、足元が滑って無様に転びました。

「見捨てたのではありません。定員オーバーでしたので。……さて、皆様。現場検証を始めましょうか」

 私は杖で、床の一部を指し示しました。
 そこには、海水が噴き出した排水口があります。

「昨夜、ここから海水が逆流しました。本来、このような海沿いの低地に建物を建てる場合、絶対に欠かせない安全装置があります」

 私は記者たちを引き連れ、建物の外――海に面したテラスの下へと回りました。
 そこには、太い排水パイプが口を開けています。

「ご覧ください。ここが放流口です」

 パイプの中は空っぽで、奥まで見通せます。

「本来、ここにはフラップゲート(逆流防止弁)という、蓋が取り付けられているはずなのです」

 私は手帳に図解を描いて見せました。

 内側から水が流れるときは、水圧で蓋が開く。

 外側(海)の水位が上がると、外からの圧力で蓋がパタンと閉まり、海水の侵入を防ぐ。

「非常にシンプルですが、確実な仕組みです。これさえあれば、昨夜のような大潮でも、床下浸水程度で済んだはずです」

「な、なるほど……。蓋があれば、逆流しなかったのか」

「なぜついていないんだ? 工事のし忘れか?」

 貴族たちがざわめきます。
 私はパイプの縁を指でなぞりました。
 そこには、蝶番を取り付けるためのネジ穴だけが開いており、肝心の蓋がありません。

「工事忘れではありません。……意図的に撤去されたのです」

 私はレイモンド殿下を振り返りました。

「殿下。建設中、建築家が取り付けようとした鉄の蓋を、『無骨で美しくない』『水の流れが見えない』と言って、外させたのを覚えておいでですか?」

「うっ……」

 殿下の顔が引きつりました。

「貴方は……『たかが鉄の板一枚、あってもなくても変わらないだろう』と仰いましたね? 景観を損ねるからと」

「そ、それは! 優雅な宮殿の下に、あんな錆びた鉄板があったら台無しじゃないか! まさか、海が逆流してくるなんて……」

「想像力の欠如です」

 私は冷徹に断罪しました。

「たかが鉄の板一枚。……その一枚が、生死を分けるのです。あなたは美観のために安全を捨てた。その結果が、この泥だらけの惨状です」

 私は泥まみれのシルヴィア様を見ました。

「シルヴィア様。あなたが履いているガラスの靴も、今は泥で見えませんわね。……基礎的な機能(安全)が担保されていなければ、どんな装飾も無意味だということを、身を持って学ばれたことでしょう」

「うぅ……、うわぁぁぁん!」

 シルヴィア様が泣き崩れます。
 記者たちが一斉にフラッシュを焚き(魔導カメラの光)、その惨めな姿を記録しました。

「お嬢様、つまり……。お風呂の栓をしないで『お湯がたまらない!』って騒いでたようなものですか?」

 ロッテが呆れたように呟きます。

「ええ。しかも、『栓なんてダサイから捨てちゃえ』と言って捨てたのです。……自業自得ですわね」

 これで、昨夜の被害が天災ではなく、明らかな人災であることが証明されました。
 賠償責任は、設計を変更させた施主――レイモンド殿下個人に降りかかります。

「さあ、次に行きましょうか。……建物は壊れましたが、瓦礫の中にはまだが埋まっていますから」

 私は杖を振るい、瓦礫の山を指しました。
 そこには、海水の塩分と衝撃で崩れ落ちた壁の断面が露出していました。

「ロッテ、ハンマーを持ってきて。……壁の中身を確認しますよ」
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