殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第66話:ゾーニングの罠

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「は……、働く、だと?」

 アスベストの山と化した新離宮の跡地で、レイモンド殿下は私の言葉を反芻し、そしてヒステリックに笑い出しました。

「ハッ、ハハハ! 冗談を言うな! 私は王族だぞ! たとえ廃嫡されようと、腐っても王家の血筋だ! 労働などという下賤な真似ができるか!」

 殿下は瓦礫の上に仁王立ちになり、まだ残っているテラスの一部を指差しました。

「金がないなら、ここに住む! 建物は壊れたが、土地は私のものだ! ここにテントを張ってでも、私はこのオーシャンビューを手放さんぞ!」

 シルヴィア様も、泥だらけのドレスを引きずりながら同調します。

「そうよぉ! 貧乏な長屋になんて住めないわ! ここなら腐っても元・離宮だし、海が見えるもの! 雨風さえ凌げれば、なんとか……」

 彼らはまだ、自分たちが特権階級であるという幻想にしがみついています。
 アスベストが舞うこの危険地帯に住み続けることが、どれほど愚かなことか理解していません。

「……困りましたわね。そこまで土地への執着がおありとは」

 私はわざとらしく溜息をつき、鞄から筒状の図面を取り出しました。
 それは、古びた羊皮紙の地図です。

「ですが、残念なお知らせがあります。……殿下、あなたはここに住むことはできません」

「はぁ? なぜだ! 私の土地だと言っているだろう!」

「土地の所有権と、使用権は別物だからです。……ゾーニング(用途地域制)という法律をご存知で?」

 私は地図を広げました。
 それは王都の都市計画図。
 街が赤や青、黄色といった色で塗り分けられています。

「都市計画法において、土地はその用途が厳格に定められています。住居を建てて良い場所、工場を建てる場所、商業を行う場所……。無秩序な建設を防ぐためです」

 私は現在地である新離宮の場所を指差しました。
 そのエリアは、毒々しい茶色で塗られています。

「ご覧ください。この岬のエリアは、百年前に定められた第1種特定用途制限地域です」

「なんだその長い名前は! 要するに何ができる場所なんだ!」

「古地図の凡例を読み上げますわ。……『本区域は、悪臭・騒音・汚水の発生が予想されるため、住居の建設を禁止する。許可される用途は、屠畜場、皮革加工場、および……』」

 私は一呼吸置き、告げました。

「『家畜排泄物処理場』のみとする」

「……は?」

 殿下とシルヴィア様が、ぽかんと口を開けました。

「か、家畜の……、うんち捨て場……?」

「はい。ここは風向きの関係で、王都の悪臭が海へと抜ける通り道なのです。ゆえに、人が住むには適さない迷惑施設専用エリアとしてゾーニングされています」

「う、嘘だ! じゃあ、今まで建っていたこの離宮はなんだったんだ!」

「ですから、既存不適格ですわ」

 私は冷徹に解説しました。

「先代が違法に建てた別荘でしたが、建ってしまったものは仕方がないと黙認されていました。……ですが、今回その建物は物理的に消滅しました」

 私は瓦礫の山を杖で叩きました。

「建物がなくなった以上、既得権益も消滅します。この土地は、本来のゾーニング規制に戻るのです。……つまり、現在ここでは家畜小屋かゴミ処理場以外の建築は認められません」

「な、なんだとぉぉぉ!?」

「テント生活も居住とみなされますから、違法です。即刻退去していただかないと、都市計画法違反で逮捕されますわよ?」

 これが、法律による完全包囲網です。
 彼らがしがみつこうとした最後の拠点は、法的にはゴミ捨て場以下の場所だったのです。

「そ、そんな……。じゃあ、私はどこに行けばいいんだ! 王城も追い出され、ここも住めないなら……」

 殿下が涙目で周囲を見回します。

「ご安心ください。あなた方に相応しい新居をご用意してあります」

 私はロッテに合図しました。
 ロッテが持ってきたのは、一枚の薄汚れた紙切れ――賃貸契約書です。

「場所は、ここから東へ三キロ。……王都の最下流に位置するスラム街の一角です」

「ス、スラムぅ!?」

 シルヴィア様が絶叫しました。

「嫌よ! あんな臭くて汚いところ! 私の肌がもっと荒れちゃうじゃない!」

「贅沢を言っている場合ですか? そこの家賃は、あなた方が今持っている小銭でも払える唯一の物件です。……それに」

 私はニヤリと笑いました。

「あそこは現在、私が進めている王都再開発計画のエリア外。つまり、私の手が及ばない、あなた方にとっての自由の天地ですわ」

「じ、自由……」

 殿下が縋るようにその言葉を繰り返しました。

 自由。
 それは聞こえはいいですが、インフラも、治安も、衛生管理も、何の保証もない野生に放り出されることを意味します。

「さあ、馬車を用意しました。……ただし、荷台ですが」

 用意されたのは、貴族用の優雅な馬車ではなく、瓦礫搬出用の荷馬車でした。

「乗ってください。それとも、ここでアスベストを吸い続けて、肺が石になるのを待ちますか?」

「く、くそぉぉぉ……!」

 殿下は悔し涙を流しながら、荷馬車に乗り込みました。
 シルヴィア様も、「ドレスが汚れるぅ!」と喚きながら、嫌々乗り込みます。

 ロッテがどこからか哀愁漂う歌を口ずさむ中、かつての王太子と令嬢を乗せた荷馬車は、ガタゴトと音を立ててスラム街へと去っていきました。

「……終わりましたね」

 マックス様が、遠ざかる荷馬車を見送りながら呟きました。

「ええ。ゾーニング完了です。……不適切な要素を排除したことで、この土地はようやく浄化されます」

 私は瓦礫の山を見つめました。
 ここを更地にし、汚染を除去した後、私には新しい計画があります。

 それは、ここを公園として市民に開放すること。
 誰かの独占物ではなく、誰もが海を眺められる公共の場所として。

「さあ、仕事に戻りましょうか。……王都の再建は、これからが本番ですわ」

 私は海風に吹かれながら、眼鏡の位置を直しました。
 腐敗した建物が消えた後の青空は、どこまでも高く、澄み渡っていました。
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