殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

文字の大きさ
93 / 100

第93話:数年後

しおりを挟む
「……ここが、かつて泥の国と呼ばれた場所なのか?」

 隣国の大国・ガルディア帝国から派遣された特命全権大使、ボルグ侯爵は、馬車の窓から外の景色を凝視し、呆然と呟きました。

 彼は数年前にもこの国を訪れたことがありました。
 その時の記憶は、最悪の一言に尽きます。

 国境の峠越えで馬車の車軸が折れ、王都に入れば強烈な下水の臭いに鼻を覆い、出された食事は泥臭い水と硬いパンだけ。
 二度と来るものかと誓ったはずでした。

 しかし、今。
 彼が乗る馬車は、まるで氷の上を滑るように滑らかに走っています。

「揺れない……。それに、速い」

 窓の外を流れるのは、どこまでも続く平坦で強固なコンクリート舗装の街道。
 そして、行く手を阻んでいたはずの険しい渓谷には、銀色に輝く巨大な鉄の橋――『アイゼンガルド大橋』が、天を駆ける龍のように架かっていました。

「ようこそ、ボルグ大使。……我が国の自慢の動脈はいかがですか?」

 出迎えに来た騎士が、誇らしげに声をかけました。

「信じられん……。これほどのインフラを、わずか数年で?」

「ええ。全ては、我らが設計士様の指揮によるものです」

 王都に到着した大使を待っていたのは、さらなる衝撃でした。

「……臭わない。それに、ゴミ一つ落ちていない」

 かつてスラムが広がっていた東地区は、レンガと鉄とガラスが調和した最先端の工房街に変貌していました。
 煙突からは煙が出ていますが、黒煙ではありません。
 フィルターで濾過された白い水蒸気です。

 そして、街の中心部には、ガラス張りの美しい建物が林立し、整備された大通りを行き交う人々は皆、清潔な服を着て、活気に満ちていました。

「ここはクリスタル・シティか……?」

 大使が案内されたのは、かつての陰気な石造りの王城ではなく、その隣に新設された中央行政センターでした。
 全面ガラス張りのその建物は、太陽の光を燦々と浴び、中で働く官僚たちの姿が外からも見えます。

「お待たせいたしました、大使閣下」

 会議室に現れたのは、この国の実質的な支配者である摂政、マックス公爵。
 そして、その隣に並ぶ、知的な眼鏡をかけた美しい女性――国家筆頭設計士、ジュリアンナ夫人でした。

「ご無沙汰しております、閣下。……以前お越しの際は、泥水しかお出しできず失礼いたしました」

 ジュリアンナ夫人が、優雅に微笑みました。
 彼女が差し出したのは、透明度の高いクリスタルグラスに注がれた、ルビー色の液体です。

「こ、これは……」

「アイゼンガルド・ルビーの五年熟成物です。……どうぞ、旅の疲れを癒やしてください」

 大使が一口飲むと、芳醇な香りと雑味のない味わいが口いっぱいに広がりました。
 帝国皇帝ですら、これほどのワインは飲んでいないでしょう。

「美味い……。それに、このグラスも、この部屋の空調も……」

 大使は、部屋の隅にある通気口に手をかざしました。
 外は真夏だというのに、室内はひんやりと涼しいのです。

「地中熱利用システムですわ」

 ジュリアンナ夫人が解説しました。

「地下十メートルの地温は年間を通して一定です。その冷気をパイプで循環させ、都市全体の熱を冷ましています。……エネルギーを使わない、天然のクーラーです」

「地中の熱を……? 魔法ですか?」

「いいえ。物理です」

 彼女はきっぱりと言い切りました。

「我が国には、魔法のような資源はありません。あるのは知恵と計算、そしてそれを形にする職人だけです」

 大使は、目の前の女性に戦慄を覚えました。

 この国は、もはや侮れる小国ではありません。
 建築、土木、化学、衛生管理。
 あらゆる分野で、帝国を凌駕する技術大国に成り上がっていたのです。

「……単刀直入に申し上げよう」

 大使は姿勢を正しました。

「我が帝国は、貴国との技術提携を希望する。……特に、あのアスベスト処理技術と、上下水道の設計図を売っていただきたい」

「おや。……以前は『辺境の芋掘り国家』と仰っていたのでは?」

 マックス様が意地悪く笑います。

「くっ……。撤回する。貴国は今や、大陸の最先端だ。……言い値で買おう」

 帝国のプライドをへし折った瞬間でした。
 しかし、ジュリアンナ夫人は静かに首を横に振りました。

「設計図の切り売りはいたしません」

「な、なんだと?」

「私たちが提供するのはコンサルティング(技術指導)です。……我が国の王立工科院の卒業生を、貴国へ派遣しましょう。彼らが現地で調査し、最適なプランを設計します」

 彼女はニヤリと笑いました。

「ただし、彼らの給料は帝国大臣並みでお願いしますね? ……技術(ノウハウ)とは、それだけ価値のあるものですから」

「ぐぬぬ……。承知した」

 大使は契約書にサインしました。
 これは、アイゼンガルドが技術という武器で、大国をも従えた歴史的瞬間でした。

     *

「……やったな、ジュリアンナ。帝国までひれ伏させるとは」

 会談の後、マックス様が肩をすくめて笑いました。

「当然ですわ。これからは知識を輸出する時代です」

 私は窓の外、美しく生まれ変わった王都を見下ろしました。

 街には、工科院の制服を着た若者たちが、測量機器を持って走り回っています。
 彼らが私の弟子たちであり、この国の未来そのものです。

「数年前、ここは腐敗と悪臭に満ちた廃墟でした。……でも今は、世界中が憧れるモデル都市です」

「ああ。君が基礎を打ち直し、俺たちが柱を立てた」

 マックス様が私の腰に手を回しました。

「だが、そろそろ次の事業(プロジェクト)に取り掛からないか?」

「次の? ……まだ何か、インフラに不備が?」

「いや、国の方じゃない。……家の方だ」

 マックス様が、少し照れくさそうに私の耳元で囁きました。

「この国は豊かになった。……そろそろ、この平和な国を受け継ぐ後継者の設計図を引いてもいい頃じゃないか?」

「……!」

 私は顔を真っ赤にして、持っていた指示棒を取り落としました。
 都市計画やダム建設には動じないのに、この手の話題にはまだ、計算式が追いつきません。

「も、もう……! それは共同作業が必要なプロジェクトですわよ?」

「望むところだ。……今夜、じっくりと構造計算をしようか」

 平和になった王国。
 技術立国としての繁栄。
 そして、私たち夫婦の新しい幸せの計画。

 すべては順調に、完璧な工程表の上を進んでいました。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

『婚約破棄された令嬢ですが、名も残さず街を支えています』

ふわふわ
恋愛
婚約破棄された伯爵令嬢コルネリア・フォン・ヴァルデン。 名誉も立場も失いかけた彼女が選んだのは、誰かに勝つことでも、名を取り戻すことでもなかった。 前に立たず、声高に語らず、ただ「判断が続く仕組み」を街に残すこと。 現場に任せ、失敗を隠さず、問いを残し、そして最後には自ら手を離す――。 名を呼ばれず、称賛もされない。 それでも街は止まらず、確かに良くなっていく。 これは、ざまぁの先で「勝たなかった令嬢」が、 静かに世界を変え、そして正しく消えていく物語。

【完結】この運命を受け入れましょうか

なか
恋愛
「君のようは妃は必要ない。ここで廃妃を宣言する」  自らの夫であるルーク陛下の言葉。  それに対して、ヴィオラ・カトレアは余裕に満ちた微笑みで答える。   「承知しました。受け入れましょう」  ヴィオラにはもう、ルークへの愛など残ってすらいない。  彼女が王妃として支えてきた献身の中で、平民生まれのリアという女性に入れ込んだルーク。  みっともなく、情けない彼に対して恋情など抱く事すら不快だ。  だが聖女の素養を持つリアを、ルークは寵愛する。  そして貴族達も、莫大な益を生み出す聖女を妃に仕立てるため……ヴィオラへと無実の罪を被せた。  あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。  これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。  前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。  ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。     ◇◇◇◇◇  設定は甘め。  不安のない、さっくり読める物語を目指してます。  良ければ読んでくだされば、嬉しいです。

【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する

ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。 夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。 社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。 ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。 「私たち、離婚しましょう」 アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。 どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。 彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。 アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。 こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。

婚約破棄は了承済みですので、慰謝料だけ置いていってください

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢アナスタシア・オルステッドは、第三王子アレンの婚約者だった。 しかし、アレンは没落貴族の令嬢カリーナと密かに関係を持っていたことが発覚し、彼女を愛していると宣言。アナスタシアとの婚約破棄を告げるが── 「わかりました。でも、それには及びません。すでに婚約は破棄されております」 なんとアナスタシアは、事前に国王へ婚約破棄を申し出ており、すでに了承されていたのだ。 さらに、慰謝料もしっかりと請求済み。 「どうぞご自由に、カリーナ様とご婚約なさってください。でも、慰謝料のお支払いはお忘れなく」 驚愕するアレンを後にし、悠々と去るアナスタシア。 ところが数カ月後、生活に困窮したアレンが、再び彼女のもとへ婚約のやり直しを申し出る。 「呆れたお方ですね。そんな都合のいい話、お受けするわけがないでしょう?」 かつての婚約者の末路に興味もなく、アナスタシアは公爵家の跡取りとして堂々と日々を過ごす。 しかし、王国には彼女を取り巻く新たな陰謀の影が忍び寄っていた。 暗躍する謎の勢力、消える手紙、そして不審な襲撃──。 そんな中、王国軍の若きエリート将校ガブリエルと出会い、アナスタシアは自らの運命に立ち向かう決意を固める。 「私はもう、誰かに振り回されるつもりはありません。この王国の未来も、私自身の未来も、私の手で切り拓きます」 婚約破棄を経て、さらに強く、賢くなった公爵令嬢の痛快ざまぁストーリー! 自らの誇りを貫き、王国を揺るがす陰謀を暴く彼女の華麗なる活躍をお楽しみください。

あなたが恋をしなければ

あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで婚約破棄を宣言する第一王子。 よくあるシーンだけど、それが馬鹿王子ではなく、優秀だけど人の機微に疎い王子だったら……。

断罪の準備は完璧です!国外追放が楽しみすぎてボロが出る

黒猫かの
恋愛
「ミモリ・フォン・ラングレイ! 貴様との婚約を破棄し、国外追放に処す!」 パルマ王国の卒業パーティー。第一王子アリオスから突きつけられた非情な断罪に、公爵令嬢ミモリは……内心でガッツポーズを決めていた。 (ついにきたわ! これで堅苦しい王妃教育も、無能な婚約者の世話も、全部おさらばですわ!)

【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ
恋愛
王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。 味方だと思っていた家族も友人も、誰一人として彼女を庇わなかった。 ――けれど、彼らは知らなかった。 彼女こそが国を支えていた“本当の功労者”だったことを。 すべてを失ったはずの令嬢が選んだのは、 復讐ではなく「関わらない」という選択。 だがその選択こそが、彼らにとって最も残酷な“ざまぁ”の始まりだった。

【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます

腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった! 私が死ぬまでには完結させます。 追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。 追記2:ひとまず完結しました!

処理中です...