殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第97話:回顧録

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「……重いですわね」

 アイゼンガルド王都別邸の書斎。
 私の手には、刷り上がったばかりの一冊の本が握られていました。
 革張りの表紙には、金文字でこう刻まれています。

『国を支える基礎工事 ~崩れない国家の設計論~』
 著:ジュリアンナ・フォン・アイゼン

「物理的な重量の話ではありませんよ。……ここに記された、私たちが積み上げてきた三十年の歴史の重みのことです」

「ああ。……レンガ一つ、計算式一つに、思い出が詰まっているからな」

 隣で同じ本を手に取ったマックス様が、感慨深げにページをめくります。
 老眼鏡をかけた彼の横顔には、年輪のような皺が刻まれていますが、それは建物の風合いのように、彼をより魅力的に見せていました。

「お嬢様……、いえ、大奥様! すごいです! 本屋さんに行ったら、平積みになってましたよ!」

 少しふくよかになったロッテが、買い物袋を抱えて飛び込んできました。
 彼女の後ろには、孫である小さな子供が隠れています。

「しかも、今週のベストセラー第一位ですって! 恋愛小説よりも売れてるなんて、この国の国民はどれだけコンクリート好きなんですか!?」

「ふふ。……恋愛も建築も、構造(ロジック)が大事だということに、皆が気づき始めたのでしょう」

 私はインクの香りがするページを開きました。
 この本は、単なる自叙伝ではありません。
 私がこれまでに手掛けた、上下水道の浄化システム、トラス橋の構造計算、耐震建築の工法、そして都市計画の理念……。

 それら全ての技術データを網羅した、実用的な建築技術書(マニュアル)なのです。

「普通なら、こんな専門書は一部の技術者しか読みません。……ですが」

 私は窓の外、美しく発展した王都を見下ろしました。

「この街の誰もが知っているのです。……泥水が清流に変わり、悪臭が消え、光が灯ったあの日の感動を。この本は、彼らにとって自分たちの生活の変遷を記した歴史書でもあるのです」

「……そうだな。だが、ジュリアンナ」

 マックス様が、あるページを開いて苦笑しました。

「この失敗例の章……。名前こそ伏せているが、誰のことか丸わかりじゃないか?」

 その章のタイトルは、『見栄と手抜きが招く崩壊のメカニズム』。

 そこには、基礎を打たずに建てられた家がどのように傾くか、ヒ素入りの化粧品がいかに人体を破壊するか、そして水門のない離宮がどう水没するか……。
 かつてのレイモンド殿下とシルヴィア様が犯した過ちが、詳細な図解入りで、冷徹かつ科学的に分析されていました。

「あら。個人攻撃をするつもりはありませんわ」

 私は澄まして紅茶を啜りました。

「ただ、後世の建築家たちが同じ轍を踏まないよう、貴重な反面教師として記録に残しただけです。……彼らの失敗も、データとして活用すれば、立派な公共の利益になりますから」

「……恐ろしいな。彼らは死してなお(まだ生きていますが)、君の教材として利用されるのか」

「ええ。名前すら残しません。……無能な施主Aとして、永遠に語り継がれるのです」

 それは、歴史からの抹殺よりも残酷な、永遠の晒し者としての刑罰でした。

     *

(※同時刻・スラム街の古本屋)

「……おい、これ」

 腰の曲がった薄汚れた老人が、古本屋の軒先で、一冊の本を震える手で手に取っていました。

 レイモンドです。
 彼は日雇いの仕事の帰りに、人々が噂している聖女様の本を見つけ、立ち読みをしていたのです。

「な、なんだこれは……。私の……、私の愛の巣が、典型的な欠陥住宅として紹介されている……!」

 ページをめくればめくるほど、自分の人生が否定されていく。
 しかも、自分の名前は一文字も出てこない。
 ただの愚かな例として、無機質な記号で処理されている。

「ねえ……、お腹すいたぁ……」

 隣で、老婆となったシルヴィアが、力なく袖を引きました。
 彼女の肌はボロボロで、かつての面影はありません。

「……行くぞ」

 レイモンドは本を閉じ、棚に戻しました。
 買うお金などありません。
 それに、読めば読むほど、自分が惨めになるだけです。

「あの本……、みんなが持ってるわね」 

「ああ。……あいつは、本当に歴史になったんだな」

 二人は背を丸め、夕闇の路地へと消えていきました。

 華やかな表通りの書店に並ぶベストセラーと、その裏路地を這う名もなき老人たち。
 そのコントラストこそが、本に記された因果応報の結論でした。

     *

「……でも、お嬢様」

 ロッテが、私の手元にある本を覗き込み、ニヤニヤと笑いました。

「この本、難しいことばっかり書いてありますけど……、あとがきだけは、甘々ですね?」

「ロ、ロッテ! 余計なことを!」

 私は慌てて本を閉じようとしましたが、マックス様がその手を止めました。

「ほう? あとがき、か。……まだ読んでいなかったな」

 マックス様が朗読を始めました。

『――最後に。この無謀な設計図を信じ、共に汗を流し、生涯を通じて私を支え続けてくれた、最高の施工パートナーであり、最愛の夫であるマックス様に、この書を捧ぐ。あなたがいたから、私の人生は頑丈で、温かいものになりました』

「……読み上げないでください! 恥ずかしいですわ!」

 私が顔を真っ赤にして抗議すると、マックス様は優しく微笑み、私の肩を抱きました。

「ありがとう、ジュリアンナ。……俺にとっても、この本は最高の感謝状だ」

「……もう。計算外の攻撃には弱いですわ」

 私は彼の胸に顔を埋めました。

 建物はいずれ朽ちるかもしれません。
 ですが、こうして記された言葉(記録)は、紙が風化するまで、いえ、人々の記憶に刻まれている限り、永遠に残り続けます。

「さて、執筆も終わりましたし……」

 私は眼鏡を外し、机に置きました。

「次は図書館の建設ですわね。この本を収めるための、世界一機能的な知の殿堂を」

「ハハッ、まだ働く気か。……さすが、俺の妻だ」

 老境に入ってもなお、私たちの設計への情熱は、いささかも衰えてはいませんでした。
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