殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第98話:最後の視察

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「……よいしょ、と。構造補強(つえ)の調子は良好ですわ」

 ある晴れた秋の午後。

 私は銀色の持ち手がついた樫の杖を突き、王都の中央大通りに立ちました。
 腰は少し曲がり、歩く速度も若い頃のようにはいきませんが、杖が一本あるだけで3点支持となり、安定感は格段に増します。

「無理はするなよ、ジュリアンナ。……俺の腕という移動式手すりも空いているぞ」

 隣に立つマックス様が、白髪混じりの髭を揺らして笑い、腕を差し出してくれました。
 彼もまた、かつての大剣を杖に持ち替えていますが、その背中の広さと安心感は、出会った頃と少しも変わっていません。

「ふふ。では、お言葉に甘えて。……今日は久しぶりの現場視察ですからね」

 私は彼の腕に手を回し、ゆっくりと歩き出しました。

 杖と靴音が、硬質な音を立てます。
 私たちが歩いているのは、数十年前に敷設した花崗岩(御影石)の石畳です。

「……見てください、マックス様。この石の表面」

 私は立ち止まり、足元の石を指差しました。

「何千万回という馬車の車輪、何億回という人々の足音に踏まれてきましたが……、ひび割れ一つありません。角が取れて丸くなり、むしろ艶が出ています」

「ああ。雨の日でも滑らない、自慢の道だ。……俺たちの作った道は、まだ生きているな」

 道行く人々は、老夫婦となった私たちに気づくと、帽子を取り、深々と頭を下げていきます。
 中には、「聖女様、長生きしてくださいね!」と駆け寄ってきて、花や焼き立てのパンを渡してくれる子供たちもいました。

「……愛されていますわね、この街に」

「それは君が、この街を愛してくれたからだ」

 私たちは、街の中心部を抜け、港の方へと向かいました。

 そこには、かつて私が水門の不備を指摘し、水没した旧・新離宮の跡地があります。
 今は津波防災公園となったその場所で、私たちは足を止めました。

「……変わらないな、あの海は」

 マックス様が、穏やかに凪いだ海を見つめます。
 しかし、その海岸線には大きな変化がありました。
 かつては無防備だった沿岸部に、巨大な、しかし景観を損ねないデザインの防潮堤が築かれていたのです。

「あれは、レオンが設計した堤防ですわ。景観と防災の両立……。私よりも柔軟な発想です」

 私は目を細めました。
 公園では、工科院の制服を着た若い技師たちが、測量機器を覗き込み、何やら熱心に議論しています。

「先輩! ここの地盤、少し沈下傾向にあります! 杭の増し打ちを提案します!」

「よし、データ取ってこい! 予算申請は俺がやる!」

 その光景を見て、私は胸の奥が熱くなるのを感じました。

「……マックス様。私の仕事は、もう終わったようです」

「終わった?」

「ええ。私が口を出さなくても、彼らが勝手に異常を見つけ、勝手に直してくれています。……メンテナンスの文化が、この国に完全に根付きました」

 建物は、建てた時が完成ではありません。
 人々がそれを使い、愛し、手入れをし続けることで、初めて街として完成するのです。

「私がいなくなっても、この街はもう腐りません。……自浄作用を持った、健康な有機体になりましたから」

「……そうか。寂しいか?」

「いいえ。……誇らしいです」

 私は風に吹かれながら、杖を握り直しました。

 かつて、カビと悪臭にまみれていた死の都。
 それが今、こんなにも美しく、強く、そして若々しい息吹に満ちている。

 建築家として、これ以上の喜びがあるでしょうか。

「……ジュリアンナ」

 マックス様が、私のしわくちゃになった手を、そっと包み込みました。

「俺たちの人生も、随分と高く積み上がったな」

「ええ。基礎工事に時間はかかりましたが……、おかげで、崩れることなくここまで来られました」

「ああ。……頑丈だ」

 マックス様が、私を見てニカッと笑いました。
 その笑顔は、泥沼の中で馬車を押してくれたあの日のままでした。

「帰りましょうか、マックス様。……ロッテがアップルパイを焼いて待っていますわ」

「そうだな。……あいつのパイは、年々甘くなっている気がするが」

「糖分の過剰摂取は構造体(体型)に悪影響ですが……、今日くらいは多めに見ましょう」

 私たちは腕を組み、整備された遊歩道をゆっくりと戻っていきました。
 夕陽が、二人の長い影を石畳の上に落とします。

 私たちが築いたものは、石や鉄だけではありません。
 この国のあちこちに刻まれた信頼と誇りこそが、私たちが残す最大の遺産なのですから……。
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