妹に婚約者を奪われた上に断罪されていたのですが、それが公爵様からの溺愛と逆転劇の始まりでした

水上

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第10話:クモの糸の罠

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 クロード領の復興を象徴する日がやってきた。

 再生毛布クロード・ウォームと、イラクサと綿の混紡布ソフィア・クロス。
 これらの製品を積んだ最初の輸送馬車隊が、王都へ向けて出発する日だ。

「行ってらっしゃい! 気をつけて!」

 ソフィアは手を振り、峠を越えていく馬車を見送った。
 これが市場で認められれば、領地への収入は桁違いに増える。
 領民たちの期待も最高潮に達していた。

 だが、その日の夕方。
 泥だらけになった伝令が、血相を変えて屋敷に飛び込んできた。

「た、大変です! 第三輸送馬車が、山道のカーブで崖下に転落しました!」

 現場は惨憺たる有様だった。 

 崖下の河原には大破した馬車が横たわり、自慢の商品である毛布や布が泥水に浸かっている。
 幸い御者は放り出されて木に引っかかり、怪我はしているものの命に別状はなかった。

「ううっ……、申し訳ございません、公爵様……!」

 御者の男、ガスパールは包帯を巻かれた腕で頭を抱え、涙ながらに証言した。

「下り坂でブレーキをかけようとしたんです。でも、手綱代わりの制御ロープが突然ブツンと切れて……! 馬が暴走して、どうにもならなかったんです!」

「ロープが切れた、だと?」

 アレックスは泥で汚れた革靴も気にせず、大破した馬車の残骸へと歩み寄った。
 彼の目は、散乱した商品ではなく、千切れた一本の白いロープに釘付けになっていた。

「ガスパール。お前は、『ロープが突然切れた』と言ったな?」

「は、はい! 荷物が重すぎたんだと思います。古くなったロープだったんでしょう……。まさか、こんな不運なことが起きるなんて……」

 ガスパールは震えながら訴える。
 ソフィアも痛ましそうに彼を見た。

(可哀想に……。責任を感じているのね)

 しかし、アレックスは冷酷なまでに静かな声で言った。

「不運? ……いいや、これは本来起こり得ないことだ」

 彼は切断されたロープの端を拾い上げ、ガスパールの目の前に突きつけた。

「このロープを作ったのは私だ」

「え……?」

「ただの麻縄ではない。私はこの繊維の分子構造を、ある生物の糸に似せて合成・配列させた。――ジョロウグモの牽引糸だ」

 アレックスの講義が、事故現場という不釣り合いな場所で始まった。

「クモの糸は、硬い結晶領域と、柔らかい非晶質領域が交互に並ぶ構造をしている。これにより、鋼鉄に匹敵する引張強度と、ナイロンを凌ぐ伸縮性を併せ持つ。同じ太さなら、鋼のワイヤーよりも強い」

 彼はロープを強く引っ張ってみせた。

「このロープ一本で、体重の重い男を三人吊り下げても切れない計算だ。たかが馬車のブレーキ操作ごときで、自然断裂するなどあり得ない」

 ガスパールの顔が引きつる。

「で、でも! 現に切れているじゃないですか! 公爵様の計算間違いでしょう!」

「私の計算に間違いはない。あるとすれば、それはだ。……ソフィア、鑑定しろ」

 アレックスからロープの断面を渡されたソフィアは、目を凝らし、指先でその切り口を触れた。
 布や糸にたくさん触れてきた彼女には、繊維がどのように切れたのかが分かる。

「……変です」

「何がだ?」

「引っ張られて切れたのなら、繊維一本一本が引きちぎれて、筆の穂先のように不揃いに毛羽立つはずです。でも、これは……」

 ソフィアは断面を撫でた。

「スパッと、綺麗に揃っています。まるで、何かが通り抜けたように平らです」

 その言葉を聞いた瞬間、アレックスは懐から折りたたみ式のナイフを取り出し、残りのロープをサッと切りつけた。
 出来上がった断面は、ソフィアが持っているものと全く同じだった。

「これが、その証明だ」

 アレックスは氷のような視線をガスパールに向けた。

「これは切れたのではない。のだ。ナイフか何かで、人為的に」

 ガスパールが後ずさりする。
 背中は崖の岩肌だ。
 逃げ場はない。

「崖に落ちる直前、お前は自らロープを切断し、馬車を暴走させた。そして自分だけ木に飛び移れるよう計算して脱出した。……違うか?」

「そ、そんな……、まさか……」

「動機は金か? 王都の商会から、いくら貰った?」

 アレックスが詰め寄る。
 その威圧感に耐えきれず、ガスパールはその場に崩れ落ちた。

「……金貨、十枚です……」

「何?」

「王都のオライオン商会の男が……、『イラクサの布なんて流行らせるな。失敗させて公爵の評判を落とせ』って……。娘の薬代が必要だったんです、許してください!」

 ガスパールは泥に額を擦り付けて謝罪した。

 ソフィアは悲しげに目を伏せた。
 信頼していた仲間が、お金のために裏切った。
 そして、多くの人々が懸命に作った商品を泥まみれにしたのだ。

「……許しはしない」

 アレックスは冷たく言い放った。

「娘の病気は同情するが、そのために君は多くの職人の努力を殺した。そして何より、私の作った自慢のロープの強度を侮辱した罪は重い」

 ガスパールは警備兵に引き渡された。
 雨が降り出した河原で、ソフィアは泥だらけになった毛布を拾い上げた。

「……洗えば、また使えるでしょうか」

「いや、泥が繊維の奥まで入り込んでいる。売り物にはならん。廃棄だ」

 アレックスは現実的な判断を下したが、その手はソフィアの肩に置かれた。

「だが、全滅ではない。他の馬車は無事だ。それに、敵の正体も分かった」

「オライオン商会……、ですね」

「ああ。既得権益にしがみつく古い連中だ。正面から競争する度胸もなく、卑劣な工作しかできない弱者だ」

 アレックスは、雨に濡れるソフィアの髪を払い、珍しく優しい声色で言った。

「悲しむな、ソフィア。人間は嘘をつくが、繊維は嘘をつかない。君がロープの断面から真実を読み取ったように、確かなものだけを信じればいい」

 彼の言葉は、論理的で少し冷たく聞こえるかもしれない。
 けれどソフィアには、それが彼なりの精一杯の慰めであることが分かった。
 
「はい。……私、もっと勉強します。布だけでなく、それを扱う人の心も守れるように」

 雨の中、二人は泥まみれの現場を後にした。

 失った商品はあるが、得られた結束は、クモの糸よりも強固なものになりつつあった。
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