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第12話:平民の絹
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王都の朝霧が晴れる頃、大通りに面したクロード公爵家のタウンハウスは、異様な熱気に包まれていた。
今日こそが、ソフィアたちが手塩にかけて開発した新商品の発表日。
しかし、店を開ける前から、アレックスは不機嫌そうに窓の外を睨んでいた。
「……気に入らんな」
「どうしました、アレックス様?」
「あの向かいの店だ。朝から『最高級シルク入荷』などと看板を出して、我が物顔で客を呼び込んでいる」
アレックスが指差した先には、王都でも屈指の老舗生地屋があった。
そこには、煌びやかな絹のドレスを纏った貴族の夫人たちが吸い込まれていく。
一方で、こちらの店の前で足を止めるのは、地味な服を着た平民たちばかりだ。
彼女たちはショーウィンドウを覗き込んでは、溜息をついて去っていく。
「でも、それは当然です。王都の社交界では絹(シルク)こそが正義。綿(コットン)なんて、下着か寝間着にするものだと思われているのですから」
ソフィアは準備の手を動かしながら苦笑した。
この国では、衣服の素材は身分の壁そのものだ。
光沢のある美しい絹は貴族の特権。
平民は、ガサガサとした麻や、光沢のない綿を着るしかない。
「ふん。カイコという芋虫が吐き出したタンパク質を有り難がるとは、人間というのはなんと原始的なんだ」
アレックスは鼻で笑うと、実験室から持ってきたビーカーをテーブルに置いた。
中には透明な液体が入っている。
「だが、それも今日で終わる。ソフィア、準備はいいか?」
「はい。……でも、本当に大丈夫でしょうか? 綿を薬品に浸すなんて、知られたら怖がられませんか?」
「説明の仕方次第だ。……いいか、客を入れるぞ」
開店と同時に、数人の女性客が恐る恐る入ってきた。
彼女たちは商人の妻や、裕福な平民の娘たちだ。
「いらっしゃいませ」
ソフィアが笑顔で迎える。
「あの……、噂を聞いて来たんだけど。公爵様が、貴族にも負けないドレスを作ったって……」
「でも、綿なんでしょう? やっぱり綿は、綿よねえ」
客たちは半信半疑だ。
彼女たちの目は、綺麗になりたいけれど、絹には手が届かないという諦めに満ちている。
アレックスが、うやうやしく進み出た。
「綿がなぜ安っぽく見えるか、ご存じで?」
唐突な問いかけに、客たちは顔を見合わせた。
「え? そりゃあ、艶がないから……」
「その通り。では、なぜ艶がないのか。――それは、綿の繊維がねじれた空豆のような形をしているからです」
アレックスは黒板に図を描き始めた。
顕微鏡で見た綿の繊維の断面図だ。
「天然の綿は、乾燥すると平たく潰れ、リボンのようにねじれてしまいます。このねじれが光を乱反射させるため、白っぽく、くすんで見えるのです」
彼は陳列台に積まれた、これまでの普通の綿布を指差した。
そして、その隣にかけられたベルベットの覆いに手をかけた。
「ならば、科学の力でそのねじれを解き、ふっくらとした円柱形に戻してやればどうなるか? ……ご覧ください」
バサリ、と覆いが取り払われた。
客たちが息を呑む音が重なった。
「え……っ!?」
「うそ、これ……、本当に綿なの?」
そこに現れたのは、濡れたような光沢を放つ、滑らかな布だった。
窓から差し込む光を反射し、まるで真珠のように輝いている。
手触りはシルクのように滑らかで、色も深く鮮やかに染まっていた。
「これが我々の新技術――マーセル化加工(シルケット加工)を施した綿です」
アレックスが得意げに解説する。
「綿糸を、低温の苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)溶液に浸し、張力をかけながら処理をする。すると、アルカリの作用で繊維が膨潤し、ねじれが取れて丸くなる。結果、表面が平滑になり、シルクに匹敵する光沢と、鮮やかな発色を得ることができるのです」
専門用語の羅列に客たちはポカンとしたが、目の前の結果がすべてを物語っていた。
一人の客が、震える手で布に触れた。
「……ツルツルしてる。それに、色がとっても綺麗……」
「お値段は? やっぱりお高いんでしょう?」
ソフィアが進み出て、微笑んだ。
「いいえ。素材はあくまで綿ですから、絹の十分の一のお値段です。それに、絹と違ってご家庭で洗うこともできますよ」
その瞬間、店内の空気が弾けた。
「十分の一!? 買うわ! 私、この青いのが欲しい!」
「私は赤を! これなら夜会に着て行っても恥ずかしくないわ!」
「洗える絹なんて、夢みたい!」
我先にと布を求める客たちで、レジは瞬く間に長蛇の列となった。
平民の絹。
その噂は瞬く間に王都中を駆け巡った。
向かいの高級生地屋から出てきた貴族の夫人が、クロード家のショーウィンドウを見て立ち止まる。
「あら……、あの輝きは何? 南方の新しいシルクかしら?」
彼女はプライドが高そうだったが、その目は明らかに魅了されていた。
喧騒を眺めながら、アレックスは満足げに腕を組んだ。
「ふん。見たまえソフィア。人間はブランドというレッテルをありがたがるが、本能は正直だ。美しいものは美しいと反応する」
「はい。……すごいです、アレックス様。これなら、身分に関係なく、誰もがお洒落を楽しめます」
ソフィアは胸がいっぱいだった。
かつて自分が着せられていた地味な服。
それが今、科学の魔法で、誰もが憧れるドレスに変わったのだ。
「勘違いするな。これはまだ序章だ」
アレックスはニヤリと笑い、次の棚を指差した。
「次は色だ。平民が着る服は、洗濯に弱くすぐに色褪せる植物染料しかなかった。だが、私が合成した新しい染料を使えば、百年経っても色褪せない鮮烈なドレスが作れる」
王都進出の第一歩は、大成功を収めた。
だがそれは同時に、絹織物を扱う既存の商人たち――そしてソフィアを追放したマリアンヌの実家との、全面戦争の幕開けでもあったのだった……。
今日こそが、ソフィアたちが手塩にかけて開発した新商品の発表日。
しかし、店を開ける前から、アレックスは不機嫌そうに窓の外を睨んでいた。
「……気に入らんな」
「どうしました、アレックス様?」
「あの向かいの店だ。朝から『最高級シルク入荷』などと看板を出して、我が物顔で客を呼び込んでいる」
アレックスが指差した先には、王都でも屈指の老舗生地屋があった。
そこには、煌びやかな絹のドレスを纏った貴族の夫人たちが吸い込まれていく。
一方で、こちらの店の前で足を止めるのは、地味な服を着た平民たちばかりだ。
彼女たちはショーウィンドウを覗き込んでは、溜息をついて去っていく。
「でも、それは当然です。王都の社交界では絹(シルク)こそが正義。綿(コットン)なんて、下着か寝間着にするものだと思われているのですから」
ソフィアは準備の手を動かしながら苦笑した。
この国では、衣服の素材は身分の壁そのものだ。
光沢のある美しい絹は貴族の特権。
平民は、ガサガサとした麻や、光沢のない綿を着るしかない。
「ふん。カイコという芋虫が吐き出したタンパク質を有り難がるとは、人間というのはなんと原始的なんだ」
アレックスは鼻で笑うと、実験室から持ってきたビーカーをテーブルに置いた。
中には透明な液体が入っている。
「だが、それも今日で終わる。ソフィア、準備はいいか?」
「はい。……でも、本当に大丈夫でしょうか? 綿を薬品に浸すなんて、知られたら怖がられませんか?」
「説明の仕方次第だ。……いいか、客を入れるぞ」
開店と同時に、数人の女性客が恐る恐る入ってきた。
彼女たちは商人の妻や、裕福な平民の娘たちだ。
「いらっしゃいませ」
ソフィアが笑顔で迎える。
「あの……、噂を聞いて来たんだけど。公爵様が、貴族にも負けないドレスを作ったって……」
「でも、綿なんでしょう? やっぱり綿は、綿よねえ」
客たちは半信半疑だ。
彼女たちの目は、綺麗になりたいけれど、絹には手が届かないという諦めに満ちている。
アレックスが、うやうやしく進み出た。
「綿がなぜ安っぽく見えるか、ご存じで?」
唐突な問いかけに、客たちは顔を見合わせた。
「え? そりゃあ、艶がないから……」
「その通り。では、なぜ艶がないのか。――それは、綿の繊維がねじれた空豆のような形をしているからです」
アレックスは黒板に図を描き始めた。
顕微鏡で見た綿の繊維の断面図だ。
「天然の綿は、乾燥すると平たく潰れ、リボンのようにねじれてしまいます。このねじれが光を乱反射させるため、白っぽく、くすんで見えるのです」
彼は陳列台に積まれた、これまでの普通の綿布を指差した。
そして、その隣にかけられたベルベットの覆いに手をかけた。
「ならば、科学の力でそのねじれを解き、ふっくらとした円柱形に戻してやればどうなるか? ……ご覧ください」
バサリ、と覆いが取り払われた。
客たちが息を呑む音が重なった。
「え……っ!?」
「うそ、これ……、本当に綿なの?」
そこに現れたのは、濡れたような光沢を放つ、滑らかな布だった。
窓から差し込む光を反射し、まるで真珠のように輝いている。
手触りはシルクのように滑らかで、色も深く鮮やかに染まっていた。
「これが我々の新技術――マーセル化加工(シルケット加工)を施した綿です」
アレックスが得意げに解説する。
「綿糸を、低温の苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)溶液に浸し、張力をかけながら処理をする。すると、アルカリの作用で繊維が膨潤し、ねじれが取れて丸くなる。結果、表面が平滑になり、シルクに匹敵する光沢と、鮮やかな発色を得ることができるのです」
専門用語の羅列に客たちはポカンとしたが、目の前の結果がすべてを物語っていた。
一人の客が、震える手で布に触れた。
「……ツルツルしてる。それに、色がとっても綺麗……」
「お値段は? やっぱりお高いんでしょう?」
ソフィアが進み出て、微笑んだ。
「いいえ。素材はあくまで綿ですから、絹の十分の一のお値段です。それに、絹と違ってご家庭で洗うこともできますよ」
その瞬間、店内の空気が弾けた。
「十分の一!? 買うわ! 私、この青いのが欲しい!」
「私は赤を! これなら夜会に着て行っても恥ずかしくないわ!」
「洗える絹なんて、夢みたい!」
我先にと布を求める客たちで、レジは瞬く間に長蛇の列となった。
平民の絹。
その噂は瞬く間に王都中を駆け巡った。
向かいの高級生地屋から出てきた貴族の夫人が、クロード家のショーウィンドウを見て立ち止まる。
「あら……、あの輝きは何? 南方の新しいシルクかしら?」
彼女はプライドが高そうだったが、その目は明らかに魅了されていた。
喧騒を眺めながら、アレックスは満足げに腕を組んだ。
「ふん。見たまえソフィア。人間はブランドというレッテルをありがたがるが、本能は正直だ。美しいものは美しいと反応する」
「はい。……すごいです、アレックス様。これなら、身分に関係なく、誰もがお洒落を楽しめます」
ソフィアは胸がいっぱいだった。
かつて自分が着せられていた地味な服。
それが今、科学の魔法で、誰もが憧れるドレスに変わったのだ。
「勘違いするな。これはまだ序章だ」
アレックスはニヤリと笑い、次の棚を指差した。
「次は色だ。平民が着る服は、洗濯に弱くすぐに色褪せる植物染料しかなかった。だが、私が合成した新しい染料を使えば、百年経っても色褪せない鮮烈なドレスが作れる」
王都進出の第一歩は、大成功を収めた。
だがそれは同時に、絹織物を扱う既存の商人たち――そしてソフィアを追放したマリアンヌの実家との、全面戦争の幕開けでもあったのだった……。
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