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第13話:農村の女性たちへ
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王都での平民の絹(シルケット加工綿)の大ヒットにより、クロード領には莫大な注文が舞い込んでいた。
工場の機械はフル稼働し、猫の手も借りたい状況だ。
しかし、ソフィアには気にかかっていることがあった。
「アレックス様。生産量を増やすために、農村の女性たちに仕事を頼めないでしょうか」
執務室でソフィアが提案すると、アレックスは手回し計算機を回す手を止めた。
「農村の女性にか? ……ふむ。確かに今は農閑期だ。男性陣は出稼ぎや工場の力仕事に従事しているが、女性や子供、老人は家に残っている。労働力としては未利用資源だな」
アレックスはあくまで効率の面から肯定した。
だが、ソフィアの動機はもう少し感情的なものだった。
先日、視察で訪れた農村の家々は暗く、冬の間は暖房費すら節約してじっと春を待つような生活を強いられていたのだ。
女性たちは「自分たちには稼ぐ手段がない」と嘆いていた。
「ですが、問題があります。農家の家屋は狭く、大きな織機は置けません。それに、彼女たちは農作業で忙しく、複雑な技術を習得する時間もありませんでした」
「場所を取らず、高単価で、かつスキマ時間にできる仕事か。……そんな都合のいい商材が――」
アレックスが言いかけた時、ソフィアは背中に隠していたバスケットをテーブルに置いた。
中に入っていたのは、小さな木製の棒(ボビン)が数十本ぶら下がった、奇妙な枕のようなクッションだった。
「そこで、これです。ボビンレースです」
ソフィアは手際よくボビンを操り始めた。
カチカチと軽快な音が響き、クッションの上に固定されたピンの周りを糸が交差し、複雑で繊細な幾何学模様が編み上がっていく。
「これなら、膝の上だけで作業ができます。道具も安価な木製ですし、糸さえあればどこでも織れます。何より……」
ソフィアは編み上がったばかりの小さなレース片を見せた。
「このレースは、ドレスの袖口や襟元に少しあしらうだけで、服の価値を何倍にも高めます。軽くて、輸送コストもかかりません」
「……なるほど。空間充填率に対する付加価値が極めて高いな」
アレックスはモノクルを光らせ、レースの構造を凝視した。
「それに、この幾何学模様は数学的だ。私がパターンを設計し、君が教えれば、規格化された高品質なレースが量産できる。……採用だ、ソフィア。すぐに農村へ行くぞ」
翌日、二人は領内の農村にある集会所を訪れた。
集まったのは、農家の主婦や老婆たちだ。
彼女たちは、公爵様がわざわざ仕事を持ってきてくれたことに恐縮しつつも、どこか自信なさげだった。
「あ、あのぅ……、お言葉ですが、公爵様」
一人の女性がおずおずと手を挙げた。
「私たちには、無理でごぜえます。こんな繊細なレースなんて……」
彼女は自分の手を差し出した。
長年の農作業で日焼けし、節くれ立ち、ひび割れた手。
皮膚はガサガサで、ところどころ皮がめくれている。
「こんなガサガサの手じゃ、すぐに細い糸が引っかかって切れてしまいます。それに、私たちの汚い手で触ったら、純白のレースが汚れてしまいます」
他の女性たちも頷き、恥ずかしそうに手を隠した。
美しいものを作るには、自分たちは相応しくない。
そんな諦めが彼女たちを支配していた。
「……」
ソフィアは胸が詰まった。
その手は、家族のために働き続けた勲章だ。
決して汚いものではない。
何か言わなければ。
そう思った時、アレックスが前に出た。
「手荒れが原因で生産効率が落ちる、という懸念か。……なかなか合理的だ」
「あ、アレックス様……!」
「だが、解決策のない問題を私は持ち込まない」
アレックスは鞄から、クリーム色の軟膏が入った瓶を取り出した。
「これは、ラノリンだ」
「ラノリン……?」
「羊毛を洗浄した際に出る副産物――つまり、羊の脂を精製したものだ。人の皮脂に近い成分で、高い保湿力と皮膚の軟化作用がある」
彼は女性の手を取り、そのクリームをたっぷりと塗り込んだ。
「以前、再生毛布を作った時に大量の廃液が出たのを覚えているか? あれから抽出したんだ。捨てるには惜しい良質な脂だったからな」
クリームを塗られた女性の手は、見る見るうちに潤い、しっとりとした艶を帯びた。
ガサガサだった角質が柔らかくなり、ささくれも落ち着いていく。
「わあ……、すごい。手が、すべすべだわ」
「べたつきが気になるなら、少し時間を置けば馴染む。これで糸が引っかかる物理的要因は排除された」
アレックスはソフィアに目配せをした。
ソフィアは深く頷き、女性たちの前に立った。
「皆様。この仕事は、皆様のその働き者の手だからこそ、お願いしたいのです」
ソフィアは一人一人の目を見て語りかけた。
「レース編みは根気が必要です。雨の日も風の日も、畑を守り続けてきた皆様の忍耐強さがなければ、この美しい模様は作れません。……どうか、その手を貸してくださいませんか?」
ソフィアの言葉と、アレックスの魔法のクリーム。
女性たちの目に、光が宿った。
「……やってみます。私たちにもできるなら」
それから数週間。
農閑期の村々からは、カチカチという心地よいボビンの音が聞こえるようになった。
ソフィアの指導と、アレックスが考案した分かりやすい図案のおかげで、女性たちは驚くべき速さで技術を習得した。
出来上がったレースは、王都の店でクロード・レースとして売り出された。
機械編みにはない、手仕事ならではの温かみと精緻な美しさは、貴族の女性たちをも魅了し、飛ぶように売れた。
「ソフィア様! 見てください、初めて自分のお金でお砂糖を買ったんです!」
「私は、子供に新しい靴を!」
給金を受け取った女性たちが、ソフィアを取り囲んで報告に来る。
彼女たちの表情は明るく、自分自身への誇りに満ちていた。
そしていつしか、ソフィアは村の女性たちからこう言われるようになっていた。
「貧しい私たちに仕事と、美しい手をくださったお方」
「ソフィア様は、私たちの聖女様だ」
屋敷への帰り道、馬車の中でその噂を聞いたアレックスは、くっくと喉を鳴らして笑った。
「聖女、か。……君に崇拝者が増えるのは計算外だったが、悪くない気分だ」
「もう、からかわないでください。私はただ、ボビンの動かし方を教えただけです」
「謙遜するな。君は彼女たちに自信という、金では買えない最も高価な素材を与えたのだからな」
アレックスは、ソフィアの指先――彼女自身もまた、針仕事で少し硬くなった指先――に触れた。
「それに、あのラノリン・クリームの商品化も決定した。商品名は聖女のハンドクリームで行こう。君の顔写真をラベルに貼れば、売上は三割増しだ」
「ぜ、絶対にお断りです!」
真っ赤になって抗議するソフィアと、楽しげな公爵。
農村に響くレース編みの音は、クロード領の冬を温かく、そして豊かに彩っていくのだった。
工場の機械はフル稼働し、猫の手も借りたい状況だ。
しかし、ソフィアには気にかかっていることがあった。
「アレックス様。生産量を増やすために、農村の女性たちに仕事を頼めないでしょうか」
執務室でソフィアが提案すると、アレックスは手回し計算機を回す手を止めた。
「農村の女性にか? ……ふむ。確かに今は農閑期だ。男性陣は出稼ぎや工場の力仕事に従事しているが、女性や子供、老人は家に残っている。労働力としては未利用資源だな」
アレックスはあくまで効率の面から肯定した。
だが、ソフィアの動機はもう少し感情的なものだった。
先日、視察で訪れた農村の家々は暗く、冬の間は暖房費すら節約してじっと春を待つような生活を強いられていたのだ。
女性たちは「自分たちには稼ぐ手段がない」と嘆いていた。
「ですが、問題があります。農家の家屋は狭く、大きな織機は置けません。それに、彼女たちは農作業で忙しく、複雑な技術を習得する時間もありませんでした」
「場所を取らず、高単価で、かつスキマ時間にできる仕事か。……そんな都合のいい商材が――」
アレックスが言いかけた時、ソフィアは背中に隠していたバスケットをテーブルに置いた。
中に入っていたのは、小さな木製の棒(ボビン)が数十本ぶら下がった、奇妙な枕のようなクッションだった。
「そこで、これです。ボビンレースです」
ソフィアは手際よくボビンを操り始めた。
カチカチと軽快な音が響き、クッションの上に固定されたピンの周りを糸が交差し、複雑で繊細な幾何学模様が編み上がっていく。
「これなら、膝の上だけで作業ができます。道具も安価な木製ですし、糸さえあればどこでも織れます。何より……」
ソフィアは編み上がったばかりの小さなレース片を見せた。
「このレースは、ドレスの袖口や襟元に少しあしらうだけで、服の価値を何倍にも高めます。軽くて、輸送コストもかかりません」
「……なるほど。空間充填率に対する付加価値が極めて高いな」
アレックスはモノクルを光らせ、レースの構造を凝視した。
「それに、この幾何学模様は数学的だ。私がパターンを設計し、君が教えれば、規格化された高品質なレースが量産できる。……採用だ、ソフィア。すぐに農村へ行くぞ」
翌日、二人は領内の農村にある集会所を訪れた。
集まったのは、農家の主婦や老婆たちだ。
彼女たちは、公爵様がわざわざ仕事を持ってきてくれたことに恐縮しつつも、どこか自信なさげだった。
「あ、あのぅ……、お言葉ですが、公爵様」
一人の女性がおずおずと手を挙げた。
「私たちには、無理でごぜえます。こんな繊細なレースなんて……」
彼女は自分の手を差し出した。
長年の農作業で日焼けし、節くれ立ち、ひび割れた手。
皮膚はガサガサで、ところどころ皮がめくれている。
「こんなガサガサの手じゃ、すぐに細い糸が引っかかって切れてしまいます。それに、私たちの汚い手で触ったら、純白のレースが汚れてしまいます」
他の女性たちも頷き、恥ずかしそうに手を隠した。
美しいものを作るには、自分たちは相応しくない。
そんな諦めが彼女たちを支配していた。
「……」
ソフィアは胸が詰まった。
その手は、家族のために働き続けた勲章だ。
決して汚いものではない。
何か言わなければ。
そう思った時、アレックスが前に出た。
「手荒れが原因で生産効率が落ちる、という懸念か。……なかなか合理的だ」
「あ、アレックス様……!」
「だが、解決策のない問題を私は持ち込まない」
アレックスは鞄から、クリーム色の軟膏が入った瓶を取り出した。
「これは、ラノリンだ」
「ラノリン……?」
「羊毛を洗浄した際に出る副産物――つまり、羊の脂を精製したものだ。人の皮脂に近い成分で、高い保湿力と皮膚の軟化作用がある」
彼は女性の手を取り、そのクリームをたっぷりと塗り込んだ。
「以前、再生毛布を作った時に大量の廃液が出たのを覚えているか? あれから抽出したんだ。捨てるには惜しい良質な脂だったからな」
クリームを塗られた女性の手は、見る見るうちに潤い、しっとりとした艶を帯びた。
ガサガサだった角質が柔らかくなり、ささくれも落ち着いていく。
「わあ……、すごい。手が、すべすべだわ」
「べたつきが気になるなら、少し時間を置けば馴染む。これで糸が引っかかる物理的要因は排除された」
アレックスはソフィアに目配せをした。
ソフィアは深く頷き、女性たちの前に立った。
「皆様。この仕事は、皆様のその働き者の手だからこそ、お願いしたいのです」
ソフィアは一人一人の目を見て語りかけた。
「レース編みは根気が必要です。雨の日も風の日も、畑を守り続けてきた皆様の忍耐強さがなければ、この美しい模様は作れません。……どうか、その手を貸してくださいませんか?」
ソフィアの言葉と、アレックスの魔法のクリーム。
女性たちの目に、光が宿った。
「……やってみます。私たちにもできるなら」
それから数週間。
農閑期の村々からは、カチカチという心地よいボビンの音が聞こえるようになった。
ソフィアの指導と、アレックスが考案した分かりやすい図案のおかげで、女性たちは驚くべき速さで技術を習得した。
出来上がったレースは、王都の店でクロード・レースとして売り出された。
機械編みにはない、手仕事ならではの温かみと精緻な美しさは、貴族の女性たちをも魅了し、飛ぶように売れた。
「ソフィア様! 見てください、初めて自分のお金でお砂糖を買ったんです!」
「私は、子供に新しい靴を!」
給金を受け取った女性たちが、ソフィアを取り囲んで報告に来る。
彼女たちの表情は明るく、自分自身への誇りに満ちていた。
そしていつしか、ソフィアは村の女性たちからこう言われるようになっていた。
「貧しい私たちに仕事と、美しい手をくださったお方」
「ソフィア様は、私たちの聖女様だ」
屋敷への帰り道、馬車の中でその噂を聞いたアレックスは、くっくと喉を鳴らして笑った。
「聖女、か。……君に崇拝者が増えるのは計算外だったが、悪くない気分だ」
「もう、からかわないでください。私はただ、ボビンの動かし方を教えただけです」
「謙遜するな。君は彼女たちに自信という、金では買えない最も高価な素材を与えたのだからな」
アレックスは、ソフィアの指先――彼女自身もまた、針仕事で少し硬くなった指先――に触れた。
「それに、あのラノリン・クリームの商品化も決定した。商品名は聖女のハンドクリームで行こう。君の顔写真をラベルに貼れば、売上は三割増しだ」
「ぜ、絶対にお断りです!」
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