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第42話:新しい美の基準
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ベルベット商会との戦いが終わり、平和が戻ったクロード公爵領の研究所。
しかし、アレックスの研究意欲が衰えることはなかった。
むしろ、邪魔者がいなくなったことで、彼の知的好奇心は暴走気味に加速していた。
「……汚いです、アレックス様」
ソフィアは、フラスコの中でドロドロと煮えている黒い液体を見て、正直な感想を漏らした。
実験室には、鼻を突くような油の臭いが充満している。
「失敬な。これはただの汚れではない。地下深くから汲み上げた原油から精製した、炭素と水素の結晶だ」
アレックスは保護メガネを光らせ、愛おしげにフラスコを揺すった。
「いいか、ソフィア。これまでの繊維は、植物(綿・麻)か動物(羊毛・絹)から貰うしかなかった。だが、神は不公平だ。天候や病気で、すぐに供給を止めてしまう」
彼はピペットで別の透明な液体を滴下した。
ジュワッ、と反応音がする。
「だから私は、神に頼るのをやめた。これからは、人間が自らの手で繊維を創り出す時代だ。石炭と空気と水からな」
アレックスはピンセットをビーカーに突っ込み、界面にできた薄い膜を摘み上げた。
そして、ゆっくりと引き上げる。
すると、その膜は切れずにどこまでも伸び、一本の細く、透明な糸となって空中に描かれた。
「わあ……っ!」
ソフィアは目を奪われた。
それは蜘蛛の糸のように細く、クリスタルガラスのように透明で、ゴムのようにしなやかだった。
「これこそが、ポリアミド合成繊維。……ナイロンだ」
アレックスは糸を引っ張ってみせた。
「鋼鉄よりも強く、蜘蛛の糸より細い。そして何より、圧倒的な伸縮性と透明感を持つ。……ソフィア、これで君の脚を飾るぞ」
「えっ? 私の、脚ですか?」
数日後。
ソフィアは自室で、完成した試作品――ストッキングを試着していた。
これまで、貴族の女性が履く靴下といえば、分厚い絹や綿で編まれたもので、どうしても足首にシワが寄り、野暮ったく見えるのが常識だった。足は隠すものであり、美しく見せる対象ではなかったのだ。
だが、このストッキングは違った。
「……すごい」
足を通した瞬間、吸い付くように肌に密着する。
薄く透明な生地は、肌の色を隠すのではなく、ヴェールをかけたように傷や毛穴を目立たなくし、脚全体を陶器のように滑らかに見せてくれる。
動いてもシワにならず、まるで第二の皮膚を纏ったようだ。
「どうだ、ソフィア。感想は?」
扉の向こうからアレックスの声がする。
「はい……! 驚きました。履いているのを忘れてしまいそうです」
ソフィアが扉を開けて出てくると、待っていたアレックスは一瞬言葉を失い、それから満足げに頷いた。
「……完璧だ。私の計算通り、光の屈折率が脚の立体感を強調している。君の脚線美が、黄金比レベルで証明されたな」
「もう、どこを見ているんですか……」
ソフィアは恥ずかしそうにスカートの裾を押さえたが、アレックスは真面目な顔で言った。
「これは革命になる。女性たちは、重い靴下から解放され、自分の脚を美の一部として誇れるようになるだろう」
クロード公爵家が、空気のように軽い魔法の靴下を発売した。
そのニュースは、瞬く間に王都中を駆け巡った。
発売初日。
店の前には、これまでにないほどの長蛇の列ができた。
最初は「透ける靴下なんて恥ずかしい」という保守的な声もあった。
だが、実際に商品を手に取り、その透明感と強度を目の当たりにすると、女性たちの目の色が変わった。
「見て! 引っ張っても破れないわ!」
「私の足が、半分くらいの細さに見える!」
「これなら、ダンスの時も足取りが軽いわ!」
貴族の令嬢も、踊り子も、市場の奥様方も。
身分を問わず、すべての女性がこの新しい美を求めた。
街を行く女性たちの足元は軽やかになり、それに合わせてスカートの丈も、靴のデザインも、より活動的で洗練されたものへと変わっていった。
たった一つの素材が、国中のファッションを変えたのだ
その功績を称え、ソフィアは王宮に招かれた。
国王陛下から授与されたのは、勲章と、ある特別な称号だった。
「ソフィア・リネンよ。そなたの知識と感性は、我が国の文化を大いに発展させた。よってここに、繊維の賢者の名を与える」
繊維の賢者。
かつて「泥棒猫」「役立たず」と罵られた少女は、今や国一番の知恵者として認められたのだ。
「……勿体なき幸せです」
ソフィアは深々と頭を下げた。
隣に立つアレックスが、小声で囁く。
「賢者か。悪くない響きだ。……まあ、私にとっては賢者というより女神だがな」
「アレックス様、静かにしてください……!」
顔を赤くするソフィアを見て、国王も愉快そうに笑った。
式典の帰り道。
馬車の中で、ソフィアは勲章を胸に抱きしめ、しみじみと呟いた。
「夢のようです。私が、賢者だなんて」
「夢ではない。君が積み重ねてきた努力が、形になっただけだ」
アレックスは窓の外、ストッキングを履いて颯爽と歩く女性たちを眺めた。
「君は、布を通して人々に自由と自信を与えた。それはどんな魔法使いにもできない偉業だ」
「それは、アレックス様が知識をくださったからです。……私一人では、ただの布好きで終わっていました」
「私一人でも、ただのマッドサイエンティストで終わっていただろうな」
二人は顔を見合わせて笑った。
お互いがお互いを補完し合う、最強の混紡素材。
「さて、ソフィア。次はいよいよ、人生最大のイベントだ」
「はい。……結婚式、ですね」
新しい美の基準を作った二人が、最後に織り上げるのは、自分たち自身の幸福な未来だった。
しかし、アレックスの研究意欲が衰えることはなかった。
むしろ、邪魔者がいなくなったことで、彼の知的好奇心は暴走気味に加速していた。
「……汚いです、アレックス様」
ソフィアは、フラスコの中でドロドロと煮えている黒い液体を見て、正直な感想を漏らした。
実験室には、鼻を突くような油の臭いが充満している。
「失敬な。これはただの汚れではない。地下深くから汲み上げた原油から精製した、炭素と水素の結晶だ」
アレックスは保護メガネを光らせ、愛おしげにフラスコを揺すった。
「いいか、ソフィア。これまでの繊維は、植物(綿・麻)か動物(羊毛・絹)から貰うしかなかった。だが、神は不公平だ。天候や病気で、すぐに供給を止めてしまう」
彼はピペットで別の透明な液体を滴下した。
ジュワッ、と反応音がする。
「だから私は、神に頼るのをやめた。これからは、人間が自らの手で繊維を創り出す時代だ。石炭と空気と水からな」
アレックスはピンセットをビーカーに突っ込み、界面にできた薄い膜を摘み上げた。
そして、ゆっくりと引き上げる。
すると、その膜は切れずにどこまでも伸び、一本の細く、透明な糸となって空中に描かれた。
「わあ……っ!」
ソフィアは目を奪われた。
それは蜘蛛の糸のように細く、クリスタルガラスのように透明で、ゴムのようにしなやかだった。
「これこそが、ポリアミド合成繊維。……ナイロンだ」
アレックスは糸を引っ張ってみせた。
「鋼鉄よりも強く、蜘蛛の糸より細い。そして何より、圧倒的な伸縮性と透明感を持つ。……ソフィア、これで君の脚を飾るぞ」
「えっ? 私の、脚ですか?」
数日後。
ソフィアは自室で、完成した試作品――ストッキングを試着していた。
これまで、貴族の女性が履く靴下といえば、分厚い絹や綿で編まれたもので、どうしても足首にシワが寄り、野暮ったく見えるのが常識だった。足は隠すものであり、美しく見せる対象ではなかったのだ。
だが、このストッキングは違った。
「……すごい」
足を通した瞬間、吸い付くように肌に密着する。
薄く透明な生地は、肌の色を隠すのではなく、ヴェールをかけたように傷や毛穴を目立たなくし、脚全体を陶器のように滑らかに見せてくれる。
動いてもシワにならず、まるで第二の皮膚を纏ったようだ。
「どうだ、ソフィア。感想は?」
扉の向こうからアレックスの声がする。
「はい……! 驚きました。履いているのを忘れてしまいそうです」
ソフィアが扉を開けて出てくると、待っていたアレックスは一瞬言葉を失い、それから満足げに頷いた。
「……完璧だ。私の計算通り、光の屈折率が脚の立体感を強調している。君の脚線美が、黄金比レベルで証明されたな」
「もう、どこを見ているんですか……」
ソフィアは恥ずかしそうにスカートの裾を押さえたが、アレックスは真面目な顔で言った。
「これは革命になる。女性たちは、重い靴下から解放され、自分の脚を美の一部として誇れるようになるだろう」
クロード公爵家が、空気のように軽い魔法の靴下を発売した。
そのニュースは、瞬く間に王都中を駆け巡った。
発売初日。
店の前には、これまでにないほどの長蛇の列ができた。
最初は「透ける靴下なんて恥ずかしい」という保守的な声もあった。
だが、実際に商品を手に取り、その透明感と強度を目の当たりにすると、女性たちの目の色が変わった。
「見て! 引っ張っても破れないわ!」
「私の足が、半分くらいの細さに見える!」
「これなら、ダンスの時も足取りが軽いわ!」
貴族の令嬢も、踊り子も、市場の奥様方も。
身分を問わず、すべての女性がこの新しい美を求めた。
街を行く女性たちの足元は軽やかになり、それに合わせてスカートの丈も、靴のデザインも、より活動的で洗練されたものへと変わっていった。
たった一つの素材が、国中のファッションを変えたのだ
その功績を称え、ソフィアは王宮に招かれた。
国王陛下から授与されたのは、勲章と、ある特別な称号だった。
「ソフィア・リネンよ。そなたの知識と感性は、我が国の文化を大いに発展させた。よってここに、繊維の賢者の名を与える」
繊維の賢者。
かつて「泥棒猫」「役立たず」と罵られた少女は、今や国一番の知恵者として認められたのだ。
「……勿体なき幸せです」
ソフィアは深々と頭を下げた。
隣に立つアレックスが、小声で囁く。
「賢者か。悪くない響きだ。……まあ、私にとっては賢者というより女神だがな」
「アレックス様、静かにしてください……!」
顔を赤くするソフィアを見て、国王も愉快そうに笑った。
式典の帰り道。
馬車の中で、ソフィアは勲章を胸に抱きしめ、しみじみと呟いた。
「夢のようです。私が、賢者だなんて」
「夢ではない。君が積み重ねてきた努力が、形になっただけだ」
アレックスは窓の外、ストッキングを履いて颯爽と歩く女性たちを眺めた。
「君は、布を通して人々に自由と自信を与えた。それはどんな魔法使いにもできない偉業だ」
「それは、アレックス様が知識をくださったからです。……私一人では、ただの布好きで終わっていました」
「私一人でも、ただのマッドサイエンティストで終わっていただろうな」
二人は顔を見合わせて笑った。
お互いがお互いを補完し合う、最強の混紡素材。
「さて、ソフィア。次はいよいよ、人生最大のイベントだ」
「はい。……結婚式、ですね」
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