皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴

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番外編

皇太子夫婦の日常9

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リーンは入れ替わりを正しい形に戻したいと願うオルのために準備を整えていた。
執務室に行き、オルが来る前にルオの侍従に執務の分別をさせ、皇太子と皇帝の執務をルオの机の上に急ぎのものとそれ以外に分けて置かせる。執務室が共同になってからはリーンはルオの執務を手伝っていた。
リーンがルオの名前で携わる執務もルオの机に積み上げる。手元に残った自分の名前の仕事の少なさにリーンの目標のお飾りの妃計画の成果に小さく笑う。国を豊かにするための施策は全て皇太子の名前である。リーンはルオからルオのサイン代りになる皇太子印を渡されていた。ルオの命令のもとならリーンが動いても越権行為とは取られないと言われたのでありがたく利用していた。

デジロはイナに今日はリーンに付けと言われ、執務室で書類を手に持つリーンの顔色の悪さを見て納得した。薬湯生活の継続は明らかで、すぐに休ませるべきだがリーンの顔を見て無理だと判断する。大国の王族、特にリーンは決めたら譲らない。事が終わるまで意地でも立っているだろうリーンの横顔は具合が悪いのに両親の前ではいつも無理をしていた子供の頃の姿にそっくりだった。
食事も普段の薬湯も今のリーンの体には受け付けず、口に入れれば血を吐くだろう主のためにデジロは胃に優しい薬湯を分割で渡す用意を始めた。

執務室に案内されたオルは机に積み上げられている書類に顔を顰める。
ルオの側近達は今日だけオルが執務をするため迷惑をかけると頭を下げたリーンに慌て、むしろ小国の皇子が迷惑をかけて謝るべきは側近達だったので恐縮して取りなした。ルオと同じように扱って欲しいと願うリーンの言葉に快く了承する。もともとは彼らはオルの側近だったが、今は5年も共に過ごしたリーンとルオの味方だった。

「2列目までは今日中に、残りの1列は急ぎの仕事ではありません。ただルー様なら今日中に終わらせます。失礼します」

リーンはオルをルオの側近に任せて自分の仕事をはじめる。ルオの侍従ではわからない執務もあったのでリーンの側近を一人だけ貸した。オルに見られたくない書類はリーンの机の上にあり、オルの前に積み上がっている書類は知られても困らない情報ばかりだった。オルはリーンの机の上には薄い束しかないことに不満そうに見た。

「リーン、この仕事の差はなんだ?」
「皇太子と皇太子妃の違いです」

オルの顔を見たくないリーンは書類から顔を上げずに冷たく答える。話すのも自分に注がれる視線さえも不愉快だった。

「私は皇太子妃ですので殿下の執務を手伝いません。」

オルは書類を見ると見覚えのないものばかりである。

「本当にルオがやってるのか?」
「はい。」

リーンはルオと一緒に過ごしたいから手伝っているだけである。オルとは過ごしたくないので手伝わない。出来上がった書類はほとんどやり直しなので、視察が終わればルオには休んでもらう予定である。リーンが一人で引き受けてもいいが、ルオが睡眠時間を削ってこなす姿が目に浮かんでいた。

30分ほどするとオルが立ち上がって出て行くのを護衛騎士が止める。

「休憩だ」
「休憩時間は1時間後です。しっかりなさってください」

声を荒げるオルの背中に侍従が冷たく答える。オルに仕えていた頃の侍従なら見送ったが今は違った。

「俺に逆らうのか?」

侍従は振り返った不機嫌なかつての主を冷たく見つめる。

「ルオ殿下と同じようにと皇太子妃殿下の命ですから。ルオ殿下がいない時は離宮と皇太子宮の全権は皇太子妃殿下の物です」

ルオは側近達に執務が早く終わるように予定管理と監視を頼んでいる。ぼんやりしている時間が勿体なく、手が動かないなら殴ってもいいから教えてほしいと。側近達は快くルオの願いを受け入れ、執務が滞りなく進み、ルオも家族との時間を過ごせて良いことだらけだった。

「皇太子は俺だろう?」

オルはいつもやる気のない顔で好きにさせてくれていた侍従の口答えに驚く。
ルオの側近もリーンに触発され、ルオの努力を知っていたので主に負けないように必死に学んでいた。またリーンに危害を加えたオルに怒りを覚えていた。ルオの家臣も聡明で一生懸命な年若い皇太子妃を大事に思っている。リーンはルオの留守の間に、凄まじい量の執務を終わらせた。リーンは第一王子のことが不安で眠れず執務で時間を潰していただけだが、ルオの家臣達には帰ってくるルオと過ごす時間をつくるために必死に執務をこなしているように見えていた。

「公式ではオル殿下ですが、俺はリーン様の夫のルオ殿下に忠誠を捧げました。俺は主とリーン様以外の命令に従いません」

オルは自分の元側近の言葉に目を見張る。
自分の側近に忠誠を誓うような人間はいなかった。そして忠誠なんて重荷を弟が受け取るとも思えない。ルオは忠誠はいらないと言ったがリーンに諫められ受け取った。リーンはルオよりも入れ替わって生きる危険をわかっていたので、ルオには絶対に裏切らない、国ではなくルオ個人に忠誠を捧げる家臣が必要だった。ルオの侍従がルオの入れ替わりを知っていると気づいたリーンから他言無用と言われ入れ替わったルオの危うい立場を聞いていた。国ではなく個人に忠誠を捧げる者が必要と呟いた言葉を拾い、躊躇わずに捧げた。
侍従はオルの入れ替わりを止められず、予兆も気づかなかった。ただ兄を恨まず必死に努力する姿に助けたいと思った。婚姻後のルオは手のかかる弟のようだった。リーンと仲直りした時に自分達に頭を下げて感謝を捧げたルオ。ルオが入れ替わり名前を捨てた事を悲しんでいるリーン。相談してくれれば婚約者を変更して、ルオを捨てさせなかったのにと呟いたリーンを見てオルを殴りたかった。そして、側近なのに気付かなかった後悔に襲われた。被害者の二人が散々苦しんだ。これ以上苦しまないように、生涯をかけて支えようと決めた。やっと掴んだ二人の幸せを壊そうとするかつての主が不愉快で堪らなかった。

「手を動かしてください。」

小国では皇子のオルに逆らう者も何かを強要する者もいなかった。オルは仕事を再開して眠気に襲われた頃、イナが笑顔でデジロ特性の薬湯を淹れたコップを差し出す。美味しそうな匂いに口をつけると舌を刺す苦さに顔を顰める。

「眠気醒ましです。体に良いのでお飲みください」

休憩時間にデジロから差し出された薬湯をリーンは口に含み荒んだ心が慰められていた。
苦い薬湯を飲まされたオルは休憩と気付き執務室を出ていく。リーンはオルが問題を起こすなら止めるようにと自身の騎士に後を追わせた。
オルがルオを探しに行き、連れ戻っても手伝わせるつもりはない。
休憩が終わっても戻らないオルにリーンは失笑しながら自分の仕事を進め島国の報告書に目を止める。
リーンはオルを斬ってもよかった。皇太子の地位を譲れなど不敬が過ぎ、内乱を招く行為でもある。でもオルの妻のルーラはリーンの友人であり、ルーラと産まれてくる子供のためにオルを斬るのはやめた。
留学中に出会った島国の姫である一見穏やかそうなのに実際は頑固な友人。ルーラは直感に優れ人の見極めが得意なため、リーンに猫を被っても無駄と気付いてからはすぐに本性を見せた。リーンにとっては愉快な友人。体術が得意で、民の諍いに申し開きを聞こうとした姫のルーラの言葉を無視して殴り合う男達を投げ飛ばしたのを初めて見た時はつい笑ってしまった。
冷たい雨の中、漁に夢中になり風邪を引くまではルーラがリーンを島国を案内していた。一緒に過ごしたのは1週間だけでも友人として好ましかった。
ルーラとルオの婚姻の話を聞きお似合いと祝福した。大事な友人であり未来の義弟と義妹の幸せを祈って大国から婚姻祝いを贈った時はこんな未来を想像しなかった。
リーンはルオに入れ替わった真相を聞いて、ルーラに探りを入れるとルーラとオルはうまくいっていた。ルーラは優しく穏やかな伴侶を歓迎し、ルーラが幸せなら友人として見守ろうと思い嫌がらせの手を緩めた。ラディルが生まれてからはオルの好物は島国では取引させないがそれ以上は手を回すのをやめた。
ルーラが小国の名産品を増やしているリーンに作物の相談をしたので、芋の手配をした。島国は天候に左右される作物が多く安定した生産量を誇るものがなく、作物は甘い物が多いので、甘くない物のほうが使いやすいと他にも色々紹介した。ルーラはリーンの知恵を借りて、芋の栽培に成功した。リーンは外交に悩むルーラに商人を一人紹介して、島国の発展を静かに見守ることにした。オルの存在は忘れるように頭から消して。オルは島国に帰れば勝手に国を飛び出したことに怒ったルーラに投げ飛ばされればいい。他力本願で悔しいが今のリーンには力がないため、いずれ殴れるように鍛える決意をした。


オルは頼りになる母の下に逃げていた。
母とお茶を飲み、美味しいお菓子に荒れた心を癒され、大量に仕事を抱えるルオ、全く仕事を手伝わないリーンにルオが可哀想と殊勝な顔でリーンの態度を訴えていた。オルは将来女王になるルーラの仕事を手伝っていたので夫婦で仕事を協力して行うものだと思っていた。
皇后には皇太子の仕事はわからなかった。皇后は任された仕事をするだけで、夫の仕事を手伝ったことはないが、必死にルオを心配して悩むオルを可哀想に思い、ルオにリーンは多忙のためお茶への呼び出しは控えてほしいと言われていたが悩む息子のために呼び出した。

***

ルオは視察から戻り、執務室に顔を出すとオルはいなかった。

「ルー様、お帰りなさい。それは手を出さないでください。ラディルは離宮にいます。今日はお休みください」

書類の山を見て執務をしようとするルオにリーンは冷たい笑顔を浮かべていると、宮殿の使者とやり取りをしていたイナが戻ってきた。

「姫様、皇后陛下よりお茶と晩餐の誘いが」

いつもなら了承するが、オルが執務をどうするか最後まで見極めなければいけないリーンは執務室から離れられない。

「晩餐だけ了承を。お詫びの品だけ用意して届けて」

ルオは自分の頼みを忘れている母にため息を飲み込んだ。手が空いているので母にリーンを休ませるように頼みに行くことにした。

「俺が行く。リーン、晩餐も」
「きっとオル様のことよ。ルー様の傍にいないなら皇后陛下の所でしょう。ルー様、お疲れ様でした」

ルオは冷たい顔をしているリーンに背中を流れる冷たい汗が止まらず、逆らうのはやめて頷いた。
母のもとに訪ねるとオルがお茶をしていた。

「母上、リーンは多忙のため晩餐のみでお願いします」
「リーンはルオが帰ると忙しくなるわね」

おっとりと笑う母の隣でオルがルオを睨む。

「ルオ、嘘をつくな。リーンはほとんど仕事をしてないだろうが」

この中でリーンの執務について知っているのはルオだけだった。
リーンの仕事量は多いが驚異の早さで片付けているため、少なく見えるだけである。
皇太子妃のリーンはどんな時も落ち着いて行動している。どんなに業務に追われても焦った顔は決して見せず、放っておくとルオよりも大量の仕事をこなしてしまう。

「兄上、来て」

ルオはオルを連れて皇帝の執務室に行き、人払いして宰相を呼び出しリーンの処理した仕事をまとめさせた。
ルオの執務机の書類とは比べられない書類の山だった。

「これは一部。俺は約三か月宮殿を離れていた。リーンは皇后と皇太子妃と皇太子の執務を全部一人で引き受けていた。」
「あの書類の束はリーンが片付けてくれるのか・・」

ニヤリと笑ったオルをルオが睨む。

「今回は非常時だったから。皇太子の仕事は皇太子がやるべきだ。越権行為だから自分からは手を出さない」
「命じればいいんだろう?」
「オル、いい加減にしろ。」

皇帝が初めて口を挟む。
皇太子妃が皇太子や皇帝の執務をするのは許されない。代行するのは非常時や命じられた場合のみである。ルオが不在中にリーンがこなした皇太子の執務はリーンの願いで皇帝と宰相が確認していた。リーンは越権行為とわかっていても、ルオの役に立ちたいので任せてくださいと皇帝と宰相に頼んでいた。平常時からリーンに全て任せようとするオルに皇太子の資格はない。
皇太子が決めて、皇太子の指示のもとに動く前提の上で許された皇太子妃の代行である。

「リーンを説得すればいいんでしょう?」

皇帝は入れ替わって良かったのかもしれないと初めて思った。変わらないと思い込んでいたオルとルオは違っていた。オルには覚悟も責任感もないことが初めてわかった。争いが起きれば妃に全て任せ民を置いて先に逃げる皇帝は認められない。

「俺は渡さない。」

リーンへの不満を言うオルに誰よりも民を想って仕事をしていることを教えたかった。母の心象をよくするために、無理して付き合っているリーンの努力も壊して欲しくなかった。
自分のためにリーンを利用するなんて許せず、オルに無理を強いられ倒れるリーンが脳裏に浮かんで拳を握る。

「もともと俺の婚約者だろう?いつまで嘘をつき通せない」
「勝手過ぎる。」
「陛下、公務は中断しましょう。皇族の皆様で話し合いを」

宰相はここで話し合っても時間の無駄と判断した。入れ替わりを周囲に知られるわけにはいかないため迅速に収める必要があった。
宰相に呼ばれリーンと皇后が執務室に足を運び礼をしたリーンに皇帝が口を開く。

「リーン、頭をあげなさい。オルはどうだ?」

リーンはゆっくりと頭を上げて、穏やかな顔を作った。

「恐れながら皇太子に相応しくないと存じます。公務を投げ出し、陛下を頼るとは。」

オルがリーンを睨んで声を荒げる。

「リーン、お前、ルオの仕事を手伝っていただろうが!?」

リーンはオルを穏やかな笑みを浮かべ冷たい瞳で見つめ返してゆっくり口を開けた。

「ルー殿下が私の願いのために留守にされましたので。非常時だけです。ルー殿下は自分の執務を投げ出したりしません」
「皇太子を支えるのが皇太子妃だろうが」

リーンにオルを支える義務はなく、自分を所有物のように語るオルが不愉快だった。リーンはオルに力で敵わなくても言葉では負けるつもりはない。斬首刑まで導くことは簡単だったがルーラのために穏便にすませようとしていた。
皇帝の前で不愉快な顔をしているオルから視線をそらさずゆっくりと口を開いた。

「一度国を捨てた人間に皇族を名乗る資格はありません。オル様のなさったことは戦争を招く恐れがありました。私利私欲のために国に争いを招く皇族は不要です」
「公式ではお前は俺の妃だ。お前は俺に逆らえない」

正論を言われて反論できずに、命令で支配しようとするのは無能な証である。義兄も父も首を斬っただろう。無能が権力を持つのは公害である。
リーンは静かに自分達を見つめる皇帝と宰相、不安そうな顔をする皇后の顔をゆっくりと見た。皇太子に命じられたら皇太子妃は従うしかない。オルの言葉を止めない皇帝に失望し、リーンは無能と思っていたがここまでとはと堪えきれずに失笑する。
皇帝さえも入れ替わりを認めようとしていることに呆れ果てた。ルオと一緒にいたくてもリーンは大国の姫である。オルには器はなく、無能に膝をつくなど大国の国王陛下の命がなければリーンの矜持が許さない。リーンは価値がないなら帰ってきなさいと国王に言われている。
何より自分を騙した人間に一生を捧げるなど嫌だった。
リーンの冷たい空気と笑みに、穏やかな義娘の豹変に皇帝は動揺と恐怖で動けない。

「皇帝陛下、私は皇太子妃位をラディルは皇子位と第二継承権を返上致します。私はラディルを連れて大国に帰ります。」

リーンは皇族証を皇帝の前に置き礼をして、顔を上げる。

「私は皇帝陛下にもオル様にも従う謂れはありません。大国の姫として民の命を助けるために尽力を約束しましょう。ですが皇族、貴族の皆様はお覚悟を。どこに逃げても無駄でしょうが。ルオ様、島国にお帰りを。島国は無関係です。連座はさせませんのでご安心を」

優雅に微笑みリーンは扉に向かって歩き出す。
リーンは決意が揺るぎそうでルオの顔は見れなかった。
ルオはルーラと幸せになればいい。これで筋書き通りで全てが元通りである。無能は滅んでしまえばいい。スサナ夫妻とルオの側近だけは引き抜いて連れていけばいい。前の離縁の時とは事情が違う。滅びる国に引き継ぎはいらない。大事なものだけまとめて帰国するだけなので簡単である。

「父上、俺も返上します。お世話になりました。リーン、待って、俺も行く。護衛で雇って」

皇帝の前では許しがなければ声を掛けられないが、気にしている場合ではなかった。
ルオはリーン達がいないなら皇太子位はいらない。
皇族証を父に投げ、退室しようとするリーンを追いかけて腕を掴む。

「ルオ様、それは」

リーンは穏やかな顔をしているルオに戸惑い、ルオは冷たい笑みではなく困惑した顔をしているリーンに笑う。

「ルオは旅の途中で事故に遭い行方不明。せっかくだからリーンは病死にして旅に出ようか」
「私はオル様の妃として死ぬなんて嫌」
「でも、そうすれば他の男に嫁がないですむだろう?ラディルと三人でサタに雇ってもらうか・・。」

リーンの冷たい雰囲気が払拭された。リーンには思いつかない考えだった。
ルオはリーンと一緒にいるために必死に考えていた。ルオに手を繋がれてリーンは夢のような生活に小さく笑う。

「待ってくれ。公式の名は変えられないが小国の皇太子はルオだ。入れ替わりは決して認めない」

手を繋いで出て行こうとした二人は足を止めた。皇帝はルオに皇帝の証の剣を投げ、ルオは反射で受け取った。

「譲位する。公式の儀は先だ。だが今よりルオに全ての権限を」

突然の皇帝の言葉にルオとリーンは驚く。皇帝にとって二人がいなくなれば小国の危機だった。もともとルオが望めばいつでも譲位するつもりだった。

「即位の時期は俺達に任せるのでは・・・」
「儂らより二人が担うのが国のためだ。」

これからのリーンとラディルとの幸せな生活を思い描いていたルオは嫌な顔をした。
皇帝になればリーンと一緒に執務ができずに、ラディルとも遊べなくなる。

「殿下、皇帝になれば全て意のままです。今まで通り皇太子宮で執務なさっても構いません。宮殿も好きなようにされればいいんです。リーン様もルオ殿下を支えていただけますか?」

宰相の言葉にリーンは静かに向き直った。

「私はルオ様にしか膝を折りません。ルー様が即位するなら一つだけお願いが。」
「それはルオ殿下次第でしょう」
「リーンの願いは叶えるよ。でもお願いは二人の時がいい」

ルオは繋いでいるリーンの手に口づけを落としリーンを見つめた。
雰囲気を甘くしはじめた二人の足元に宰相が跪いた。

「皇帝陛下、ご命令を」

ルオはリーンが傍にいるならなんでもいいかと思った。
ただオルにも母にも苛立っていた。一歩間違えればルオはリーンに捨てられるところだった。

「入れ替わりの事実はない。弟は疲れていたんだろう。過ちは誰にでもあるから、今回限りは見逃すが次があれば血縁とはいえ処罰する。」

オルは驚いてルオを見た。まさかルオが自分を処罰するとは思わなかった。
皇后も息子の冷たい雰囲気に怯えていた。
ルオは無表情で自分達を見ている父に剣を投げ返す。

「権限はいただきますが、今まで通りで構いません。即位の時期はリーンと相談してまた報告します」

ルオはリーンの手を引いて退室した。
扉を出るとオルにも母にも付き合いたくないルオはリーンを抱き上げる。

「リーン、少し出かけようか。」

お昼を過ぎたばかりでリーンの予定ではオルを見張っている時間だったので執務を抜けても支障はなかった。ルオは馬屋にローブを届けさせるように言い、頷いたリーンを抱いて馬屋に向かう。愛馬の青毛ではなく栗毛に鞍をつけさせた、ローブを着たリーンを前に乗せルオは栗毛を走らせる。民は誰も皇太子夫妻と気付かなかった。空気を呼んだリーンの護衛騎士は潜んで護衛する。
ルオはリーンを連れていきたい場所があった。リーンはルオの腕の中でほっと息をついていた。入れ替わりが片付き、これで同じ事は二度と起きないだろうと。

ルオが向かったのは廃墟の教会だった。中に入ると割れたステンドグラスの破片が飛び散り光に照らされてキラキラと輝く。ルオはリーンを抱き上げ祭壇の前で降ろしローブを脱がせリーンの乱れた髪を整え、不思議そうな顔をするリーンの前に跪く。

「俺は生涯リーンだけを愛し傍にいることを誓います。俺に手を取る」

リーンはルオを見て手を差し出す。先の言葉を聞く勇気がなかった。跪き、生涯の約束を口にするのは、かつてのオルと重なった。
ルオは言葉の途中だったがリーンの手を取り口づけを落とす。リーンはルオの優しい口づけにオルとの違いに安堵し笑みを浮かべる。

「私は生涯貴方だけを愛します。なにがあってもリーンの心はルオの物です。ただのリーンが傍にいることを望むのはルオだけです」

リーンは立ち上がらないルオの前にしゃがみこみ、顔を覗くと赤面していた。リーンは空いた手をルオの頬に添えてゆっくりと唇を重ねた。ルオはリーンの行動に目を丸くした。自分が恰好良くないことがわかった。
唇を離したリーンがルオに握られた手にそっと自分の手を重ねた。

「リーンは生涯ルオの傍にいられることを願います。」
「俺はリーンの傍を離れない」
「先のことはわからない。でも離れても最後にはルオの所に帰る。・・・先に、死んじゃったらルオをずっと待ってる」

泣き出したリーンをルオは手を解いて抱き寄せた。リーンはルオの言葉を信じられなかった。

「離さないからリーンは俺といるしかない。初勅はリーンに手を出すなとリーンに離れるなとどっちがいい?」

皇帝陛下の初勅は歴史に記される。ふざけているルオにリーンは小さく笑う。

「俺達が初めて夫婦になった日を覚えている?」

リーンは首を横に振る。

「いつ?」
「リーンが俺の妻になるって言ってくれた日。丁度今日から半年後」
「よく覚えているね」

ルオはリーンとの記念日を覚えており、リーンは気付かないが記念日は一緒に過ごせるように予定を組んでいた。リーンとラディルに関することだけはルオは記憶力が良かった。

「その日に即位しようと思う」

ルオの言葉にリーンは涙を拭いてじっと見つめた。

「決めたの?」
「ああ。支えてくれる?」
「私は旦那様に従います。貴方が望むならいくらでも」

微笑むリーンにルオは口づけを落とした。
唇が離れ、ルオに見つめらたリーンは大事なことを思い出した。

「ルオ、お願い。」
「なんでも叶えるよ」

相変わらず即答するルオにリーンは苦笑する。

「お願いは聞いてから了承して。即位するときは、改名が許されるわ」

リーンが名前に拘っているのはルオは知っていたが、叶えてあげられない願いだった。

「ルオは無理だよ」
「ルオルがいい。ずっと考えていたの。私はオル様の名前が歴史に残るのは嫌」

ルオはリーンのオル嫌いに苦笑しながら頭を撫でた。

「歴史に残らないよ。大げさだよ」

「ルオも時々バカね。私の夫は最高だもの。絶対に名を残すわ」

ルオはリーンのために力は欲しい。でも歴史に名を残す偉大な皇帝になれるとは思わなかった。
不思議そうな顔をするルオの腕から離れてリーンは手を握る。繋いだ手とルオを交互に見て、ギュっと握った手に力を入れて、頬を染めてルオを見上げる。

「私をルオル様の妃にしてください。」

リーンは羞恥に耐えきれずルオの胸に顔を埋め、ルオはリーンに見惚れていた。
ずっと無言で固まっているルオにリーンは不安に襲れた。

「だめ・・?」

ルオはリーンの声に我に返って抱きしめる。

「大歓迎。ルオルになるよ」

リーンはほっとしてルオの腕の中で笑う。拒まれないこともだが一番嬉しいことがあった。

「よかった。オル様の妃として名前を刻まれるのは不愉快で堪らない」

ルオはリーンが笑うならなんでもいいかと笑った。オルが嫌いなリーンは絶対にルオをオルと呼ばず、愛称の呼べない他国との会談では皇太子殿下と呼ぶ。

「手回し面倒じゃないか?」
「私がする。ルオが悪しき名前を捨てられるなら即位も悪くないわ。任せて。ルオの厄払いに頑張る」

興奮するリーンは先ほど泣いていたとは思えなかった。

「任せるよ」
「ルオル様」
「様はいらない」
「ルオルはきっとたくさんの民に呼ばれる。そのかわりルオは私が愛して大事にする。何があってもルオをリーンは忘れない。」
「前に言っただろう?ルオはリーンにあげるって」
「即位したら私がもらう。」
「リーンに愛されるのは俺でありたい。」
「私はずっとルオを愛する。ルオルの中にルオがいるのを知っているのは私だけ。」

微笑み合う二人の耳に足音と子供の声が聞こえた。

「姫様、足止め無理です」

廃墟の教会は子供達の遊び場だった。空気の読める護衛騎士は二人の邪魔をしないように子供を足止めしていた。

「綺麗だけど、子供が入るなら危ない?」
「危ないから、触らないで」

飛び散る紫のガラスの破片をリーンはそっと手に取る。

「ルオ、これもらったら泥棒?」
「いくらでも新しいものを」
「これが欲しい。ルオの瞳とそっくり」
「廃墟だし、いいだろう。怒られたら代金を払って謝ろうか。この国のものは全て俺のものなら平気か・・」

リーンはガラスの破片を丁寧にハンカチに包みポケットにしまう。

「リーン様がいる!!」
「何しにきたの!?」

駆け寄る子供達を見て、ルオがリーンを抱き寄せる。

「デート。美しいお妃様に愛を乞いに」
「あいを?」
「ルー様!?」
「これからもずっと一緒にいようって約束したんだ」
「ずっと一緒。それならわかる!!」

ルオと子供達にからかわれてリーンは赤面する。
リーン達が教会の外で子供達と遊んでいるとポツリと雨が降りはじめ、子供達は帰り、リーン達は教会に入った。

「良いお天気だったのに」

ローブを着てルオの腕の中でリーンは雨宿りしていた。教会の中でも割れたガラスの隙間から雨に襲われていた。

「ルオ、大丈夫?」
「ああ。リーンさえ濡れなければいい」
「雨、止まなそうだね」
「姫様、馬車を拾ってきますか?」

リーンは帰ってオルに会うのは嫌だった。せっかくの幸せな気持ちが台無しである。

「雨が止むまで待つのは二人は大変?」
「姫様さえ大丈夫なら問題ないですよ。殿下、離れるので姫様をお願いします」

護衛騎士はリーン達の前から消えていく。ルオは膝の上に座って自分の手を握ってぽんやりしているリーンを優しく見つめる。

「リーン、寝ていいよ」

ルオの腕の中で幸せを満喫していたリーンがルオを見つめ返す。

「大丈夫。オル様、帰ってくれるかな。なんで突然入れ替わりたかったのかな」

オルのことは興味はない。ただ夫の腕で幸せに浸るリーンは友人のルーラのことを思い浮かべた。ルオの腕の中なので、心にゆとりがあった。王族失格でも、リーンと一緒にいることを選んでくれたルオを思い出すと嬉しく、連日の荒んだ心が癒やされていた。
ルオはリーンのこぼした言葉に警戒しながら答える。オルの話題はリーンの地雷がたくさん隠れている気がした。

「芋の食事が嫌だったって」

リーンはきょとんとした。嘘をつきたくないと言っていた。違和感と嫌悪しかなかったが本当の理由も理解不能だ。政略結婚とはいえ、友人の趣味が全く理解できない。

「ルーラはオル様のどこがいいのかな。優秀で穏やかって」
「ルーラ?」

ルオの言葉にリーンは目を丸くした。
ルーラは公式ではルオの妻である島国の姫である。

「ルオ、婚約者の名前も覚えてなかったの?」
「ああ。突然決まったし、俺は興味なかったから」

ルオは婚約の話が出たときは、自分の中の葛藤と戦っていた。リーン以上の姫はいないのは知っていたので絵姿さえ見ず、文のやり取りもなかった。
ルオの酷い態度にリーンは苦笑する。

「酷い。私はルオとルーラはお似合いだと思ってたの。結婚祝いに剣と短剣を贈ったのが懐かしい」
「剣?」
「うん。ルオは剣の鍛錬ばかりしてたから。ルオに合う剣を選んでもらったの。ルーラは体術が得意だけど、狩りの時は短剣を使うの。」

リーンの留学中にもルオ達の授業は組まれていた。よく逃げ出す二人のせいで、教育すべきことが溜まっていた。ルオはリーンが見ていたと気づかなかった。鍛錬ではなくオルの代わりに剣の授業を受けていた自分を。リーンが見ていてくれたことは嬉しいが10歳で大国の教育を終えたリーンに成人するまで授業を受けていたことは知られたくないので、話をそらすことにした。
ルオはリーンからの手紙は読みたかったけど、他の女との婚姻祝いと思い出し聞くのはやめた。でも昔の自分は喜んだだろう。ルオのために贈り物を考えてくれたことを。リーンはルオのことは旅立てば忘れてしまうと思っていた。友人として大事に想ってくれていたことを知った時は嬉しかった。リーンが帰国してから小国の皇子と過ごした日々は大国の姫の心には残らないと自分に言い聞かせ、リーンに手紙を送る勇気さえなかった。
リーンはオルや小国と手紙のやり取りの際に贈り物をしていた。その中には双子の誕生日祝いや留学の感謝の贈り物も含まれていた。その行方をルオが知るのはしばらく先の話である。

「ルーラ様って体術使い?」

リーンはルオが婿入りする予定だった島国もルーラのことも全く知らないとは思っていなかった。
ルオは島国の場所と名産品と規則以外は知らなかった。昔のルオは勉強が嫌いであり、大国と小国の教育水準の差も激しかった。

「島国は教養として女性も武術を教えられるの。ルーラは大男も一瞬で投げ飛ばすけどまだ国で一番にはなれないって。でも道理を通せば決して手をあげない。曲がったことが嫌いだけど普段は可愛いく穏やかなお姫様。」

ルオは恐ろしい言葉を聞き、オルが逃げた理由がもう一つ思い当たった。曲がったことが嫌いな姫は腕の中にもいる。

「ルーラ様は入れ替わったのは」
「知らないと思うけど、ルーラは直感がすごいからなぁ・・。」
「兄上、恐ろしい嫁って・・」

リーンはオルが帰国したらルーラに怒られると思っている。ただ恐ろしいのは怒った時だけである。オルがルーラを怒らせたのならリーンとしては是非盛大に怒っていただきたい。手と頭さえ無事なら執務はできるので骨の2本くらい折れてもいい。ルーラに怒られるオルを想像して少しだけオルへの気持ちがすっきりした。

「ルーラは猫被るのやめたのかな。でもオル様だとルーラには敵わない。ルーラは女王になる人間だもの」
「リーンは俺が彼女と幸せになれると思ったのか?」
「うん。ルーラは可愛いし優しい。私よりよっぽどルオのために尽くしてくれる」

また捨てられないように大事なことを教えることにした。

「俺はどんな女でもリーンじゃないと幸せになれないって覚えておいて。」

真剣な顔のルオを見て楽しくなったリーンが笑い出す。

「ルオは大げさ」
「本当だから」
「オル様は帰国しないなら、私が島国に行ってきてもいいかな?」
「俺と一緒ならな。なんで?」
「ルーラに体術教わる。会いたくないけど、次はしっかり殴りたい」
「俺が殴るから。鍛錬するなら俺と過ごしてよ」
「デジロ様に頼めば、なんとかなるかな」
「危ない薬を飲むのは許さない。兄上のためにリーンが時間を使うの嫌なんだけど。リーンは俺とラディルのことだけ考えてほしい」

「姫様、どうぞ」

護衛騎士が毛布とお湯に解いた薬湯と食べ物をを持って帰ってきた。
リーンは薬湯を受け取り、ゆっくり口に含んだ。ルオは差し出された果物を手に取る。

「リーン、少し食べないか?」
「これだけでいい」

リーンに果物を勧めるルオに護衛騎士は苦笑した。

「殿下、やめてください。デジロから薬湯以外は口にさせるなと言われてます。」

リーンは朝食を全部食べていた。ルオは恐る恐るリーンを見つめる。

「リーン、まさか・・・」

リーンはにっこり笑って聞こえないフリをして薬湯を口に含む。デジロが来てから護衛騎士達は、リーンの体調をイナを通して報告を受けている。デジロは兄王子に似たリーンが突然外出してもいいようにリーンの薬湯と非常時の薬を配っている。人間関係を除けば、デジロは優秀な医務官である。

「姫様、雨が止みませんが泊まりますか?」

リーンとルオは見つめ合った。
体は雨で湿っていても暖かい季節だった。ルオは宮殿に帰って、また振り回されるのも嫌だった。執務は明日すればいい。ラディルはイナ達がいるから大丈夫だろう。即位すれば忙しくなり、二人で一晩のお忍びも難しいだろう。

「明日、晴れたら帰るか」

ルオの言葉にリーンは頷く。

「ラセル、忍ばなくていい。せっかくだから昔みたいに隣で眠って」

護衛騎士は主の言葉に誤解し、自分を睨むルオに苦笑した。

「殿下、誤解ですよ。姫様の留学中に室内で護衛することもあったんです。」
「ラセルの話は楽しいの。よくお話してもらった」

リーンは昔を思い出して笑う。

「俺のことは気にせず、殿下と二人の時間をお楽しみください」

ラセルは二人の邪魔をする気はなかった。
ルオはリーンの昔話は興味があったので忍ぼうとするラセルを引きとめる。腕の中のリーンが楽しそうに笑っている。ルオにとってリーンが楽しそうに昔を思い出すことは珍しかった。

「構わないよ。昔の話、聞かせてよ。リーンはあんまり教えてくれないから」
「非常識なお姫様の冒険と悪いお姫様の話と・・・」

リーンはラセルの話に嫌な予感がした。話を聞くのは好きでも自分の話をしてほしくない。

「ラセル、何を話すのよ!?」

慌てているリーンにラセルはニヤリと笑う。

「俺だけが知ってる寂しがり屋のお姫様の話はしませんよ」
「内緒にしてくれるって・・。」

ラセルはリーンの兄王子の乳兄弟だった。兄王子が旅立つまでは兄王子に騎士見習い件悪友として仕えていたが兄王子は旅立つ時にリーンに仕えるように命じた。いずれ旅立つことを決めていた兄王子は父に頼みラセルの入室許可を取り面会させていた。兄の友人にリーンは懐いた。
兄王子が旅立ってからも、笑顔を絶やさないリーンにラセルは外の話をした。窓から楽しそうに姉妹で遊ぶ姫達を羨ましそうに見るリーンに寂しいと口に出しても困らないと言ったのはラセル。リーンはラセルの言葉を聞いて初めて兄王子がいなくて寂しいとこぼした。兄のように頭を撫でて欲しいと言うと撫でてくれるラセルに驚きリーンにとってのもう一人の兄になった。
リーンが大事な兄弟と言われて思い浮かべるのは実の兄と弟の他にラセルとイナだった。
ラセルは誰にも忠誠は捧げていないからリーンはラセルの前だけは気を抜ける。立派な主でいるために凛として立ち続けなくていい。ラセルは兄王子より真面目な妹姫が力つきないように見守る。
護衛騎士の中で融通が効き、視野も広いラセルさえも目の前の二人が皇族証を皇帝に返上したことは知らなかった。皇族証を置いたまま出かけで戻らない二人に皇帝が不安に思っていることも母がいないことでラディルが誤解したこともわからなかった。
ラセルの話を聞きながらリーンは眠りについていた。

「リーンとは長いのか?」
「俺は第七王子、いえ姫様の兄王子殿下の乳兄弟ですから3歳の時ですかねぇ」

ルオは腕の中でぐっすり眠るリーンに気になっていても聞けないことがあった。

「リーンにとって大国は辛い記憶なのか?」

気まずそうに聞くルオの誤解がよくわかった。ラセルの主は人を誤解させることは得意だった。

「姫様に聞けば話してくださいますよ。昔は体に負担がかかるから、長くは話せませんでした。だからいつも聞き役でした。話を聞くのがお好きではありますが・・。」
「そうなのか・・。お前だけは好意的だったよな」

新婚当初の夫婦喧嘩を思い出し、ラセルは笑う。

「離縁して帰国して、小国が滅べば姫様は気にされますから。それに中々面白かったです」
「面白いって・・・」

ルオの悲劇を笑っている姿に複雑な顔をされても、ラセルにとっては喜劇だった。

「姫様の喧嘩する姿は初めて見ました。姫様は仲直りの方法は知らないのでどうなるかと思ってましたが・・。時々、気まずそうに窓から殿下のこと眺めてましたよ。姫様が元気になったと感心してました。姫様と喧嘩できるのはルオ殿下とオル殿下だけですね。」
「絶対に仲直りはしないだろうな。殴りたいって、どうすればいいのか」
「1回殴れば満足すると思いますが。まさか蹴られるとは・・。貴重な機会を見逃しました。大国の姫を蹴って生きてるのはオル殿下だけですね。大国なら斬首です」

ラセルは休みだったのでいなかった。蹴とばされたリーンを笑い飛ばせるのはリーンの家臣ではラセルだけである。夜な夜なオルの暗殺計画とリーンの護衛騎士の反省会が行われ聞き流し、暗殺計画はリーンが殴るまでは待った方がいいと止めていた。リーンが第一の家臣は全てがリーンのためで、リーンの願いは絶対だった。

「あんまり酷いと俺が止める前に、斬るやつが出るんでちゃんと言い聞かせてください。暗殺も死体の処理も得意なんで」

ラセル達は勝手に暗殺してもバレない自信がある。王族の護衛騎士に無能はいない。

「大国の騎士は万能だよな。うちのも鍛えて欲しいんだが」
「デジロに相談してください。体に関しては万能です。騎士の身体強化も。ただこの国の甘い騎士が耐えられる保障はありません」
「デジロの評価は別れるな」

デジロの評価は両極端である。

「主思いの家臣は受入れられないでしょう。でも職務には忠実です。有能なものをどう使うかは使い手の手腕です。」

ラセルとルオがデジロについて話している頃、姿を消した皇太子夫妻に殺気だっている雰囲気は気にせず、そろそろ倒れそうなリーンのために、変わった医務官は薬を調合していた。

***
宮殿では一部の者達が荒れていた。
皇帝に呼ばれたリーンが戻らない。イナが宮殿に行くとリーンの護衛騎士が留守で馬屋に行くと、ルオの愛馬がいた。

「妃殿下は殿下と馬で出かけました」

イナは雨の降りそうな空を見上げて、体調の悪い主を連れ出したルオを責めたくなった。デジロからリーンが血を吐いてると聞き吐き気を抑えて、胃に悪い朝食を食べる状況を作った皇族に次があれば大国に帰国しようかと本気で悩んでいた。
リーンの友人の夫という理由で許されているがオルを暗殺したくなっていた。オルの暗殺を止める護衛騎士のラセルもいない。ラセルが付いているならリーンは大丈夫なので教えてくれた馬屋番に礼を言い、今は母の不在を心配しているラディルの下に戻ることにした。イナはルオは信頼していなかったがラセルは信頼している。

***

ぼんやりと宮殿を歩いているオルをラディルが見つけた。
執務室で父と喧嘩をしているのを見たが、母が心配で父の喧嘩は気にしなかった。ラディルは一度見たら忘れない。ラディルはルオの願い通りに兄王子の才能を引き継いでいた。リーンの話した大国の歴史も覚えていた。言葉を口にすることは難しくても覚えることはラディルには息をするのと変わらない。ラディルの才能に気付いているのはデジロだけだった。
ラディルはルオから剣を与えられていた。使えなくても離宮を出る時はいつも持ち歩くように教えられていた。訓練の時以外は抜いていけないと言われたが、剣を抜かずに戦う方法をデジロに教わり知っていた。
夜になっても母がいなかった。ラディルはリーンの予定を把握しており、リーンに出かける予定がないことを知っていた。
翌日、ラディルの日課の騎士と訓練が終わったのでいつでも会いにきていいと言う皇帝に母の行方を尋ねるために会いに向かっていた。ラディルはスサナの手を引いて、オルから見えないように隠れ、剣に手を当てた。

「スサナ、隠れて。静かにね!!」

スサナはラディルの言葉に笑顔で頷く。ラディルは隠れんぼが好きで、隠れて突然姿を見せて人を驚かすことが気に入っていた。スサナはラディルと一緒に隠れて飛び出すのをいつも見守っていた。ラディルの遊びを両親が許しているので誰も止めず、驚かされた者も可愛い皇子の遊びに快く付き合うので、優しく見守るのは宮殿での常識である。この遊びを一番喜んでいるのはルオである。
スサナはオルに気付いていなかった。
ラディルはオルの動きをうかがいながら、勢いよく飛び出し、床を蹴り上げる、剣をオルの首に向かって叩きつけ、ラディルの鞘がオルの首に直撃した。ラディルは力がないが跳躍して振り落ろしたため、十分な効果があった。
オルは倒れ込み、スサナは仕返しされないようにラディルを慌てて抱いた。
様子を見ていた宮殿の使用人達はラディルの悪戯と倒れる皇子に茫然とする。

「何をする!!俺が誰だか」

オルは自分を襲撃した金髪を睨むと子供の姿に目を見張り、よく見るとリーンに似ており、甥の存在を初めて認識した。

「それが挨拶なのか?」

ゆっくり立ち上がってラディルに呆れた視線を向けると、ラディルは睨み返す。

「お母様を蹴ったからです。お母様はずっと眠ってました。昨日も頭が痛いって。蹴られたからご飯も食べられません。倒れたせいでお仕事が忙しくラディルとご飯を食べる時間もありません」

ラディルの言葉を聞いた使用人達が目を見張った。リーンが体が弱いのは周知されていた。蹴とばした?色白で華奢でお淑やかな皇太子妃は風で飛ばされそうだった。

「無防備な相手に手をあげる理由にはならない」
「ちゃんと正面から挑みました。後ろからではありません。」

ラディルは勝負を挑むときは正面からと教わっており、キチンと守っていた。

「どういう教育をしているんだよ」

オルにだけは言われたくないとラディルの護衛は思った。オルとラディルが揉めていると聞き皇帝が駆けつけた。皇帝は呆れた顔の息子と怒っている孫を見た。いつも笑顔のラディルが怒っているのは初めてだった。

「何をしているんだ?」
「父上、俺は教育をしているだけです」
「おじい様、ラディルはお母様を苦しめているオルが許せないので、叩きました。咎は受けます。でもお母様を蹴ったオルにも咎を求めます」
「蹴っただと?」

皇帝はリーンが蹴られたことは知らなかった。
オルが口を挟む前にラディルが口を開いた。

「お母様は蹴られて寝込みました。オルにたくさん意地悪されて困ってます」

ラディルはオルのためにリーンが迷惑していると話す家臣の言葉をこっそり聞いていた。ラディルは気配を消して隠れるのが得意でお気に入りの遊びだった。
ラディルの言葉に空気が冷たくなった。淑やかに家臣を労わる皇太子妃は宮殿内でも人気だった。ラディルは公式でルオがオルと言われているのを知らなかった。父の名前はルーだと思っていた。ラディルの前ではルオは皇太子殿下かルー殿下と呼ばれており、誰もオルという名前を教えなかった。
周囲は混乱していた。皇太子がリーンを溺愛しているのは有名で無体なことをするようには見えなかった。

「陛下、殿下達が戻られました」

伝令の言葉を聞いて、ラディルが駆け出す。
ルオ達は離宮に帰る前に皇族証を取りにいくため先に宮殿に向かっていた。

「お母様」

やっと見つけた大好きな母の姿にラディルが抱きついた。あまりの勢いに倒れるリーンをルオが肩を抱いて支える。

「ただいま。」
「お帰りなさい。もう大丈夫?」
「お母様はルー様とラディルがいれば大丈夫よ」

笑顔でラディルを抱きしめたリーンは皇帝に気付き、ラディルから離れようとした。
皇帝は帰ってきた息子夫婦に安堵した。このまま帰ってこなかったらどうしようかと心の中で怯えていた。

「リーン、そのままでいい。」

皇帝がラディルの面倒を見ていてくれたと思いリーンは頭をさげる。

「ラディルをありがとうございました」
「ラディル、おいで」
「お父様、お帰りなさい。ごめんなさい」

ラディルはリーンの腕から離れてルオの前に立ち、頭を下げる。ラディルが悪いことをすると両親の責任になり、特に父が困ると教えられていた。ルオはかがんで、ラディルを見つめた。真剣に頭を下げる姿は初めてで、甘やかそうとするルオをリーンが睨んでいたので、抱き上げようとする手を止めた。ルオはリーンの憧れる頼もしい父を目指していた。

「何をしたの?」
「ラディルはオルを叩きました」

ルオはよくわからなかったが事情を聞くことにした。ラディルはリーンにどんな時も必ず相手の話を聞くようにとルオの横で教えていた。

「どうして?」
「お母様に意地悪するから。お母様を蹴ったの許せません。咎は受けます」

リーンは静かに二人を見つめる顔を作れず、噴き出して肩を震わせて笑う。
ルオは全面的にオルが悪いと思った。力のないラディルに叩かれても痛くない。ラディルの全身を見て怪我がないことを確かめる。

「遊んでもらっただけだろう?母のためならよくやった」

ルオは真剣な顔の息子を抱き上げ笑顔で褒めた。

「父上、報告は明日伺います。忘れ物もその時で。リーンを休ませたいので今日は離宮に籠ります。急ぎの仕事は明日片付けます。では」

ルオはラディルを抱き、リーンの手を繋いで立ち去ろうとした。
事体に気付いてないリーンにラセルがラディルがルオをオルと呼んだと囁く。リーンは笑いを必死に抑えて穏やかな笑みを浮かべて、オルに向き直る。

「殿下、ラディルと遊んでいただきありがとうございます。どっちがルー様かわからないみたいです。二人で入れ替わって遊ぶからですよ。では失礼します」

様子をみていた使用人達は双子皇子にラディルが混乱していると納得した。ようやく収まったので皇帝は執務室に戻り頼りになる義娘に感謝した。
使用人達には皇太子が皇太子妃に無体なことをしているようには見えない。目の前で起こった事は忘れることにした。リーンに関することは噂だけでも危険だった。優しい皇太子妃に何かあると皇太子が豹変する。穏やかな皇太子は妃が関わると冷酷になることは有名だった。
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