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第六章 フラストレーション
思い出になんかしたくない
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少しの間、会話が途切れた。私は空になったオレンジジュースのグラスの中に残った氷のかけらを、ストローで回してみた。からん、と澄んだ音に勇気をもらった私は、何気ないふりをしながら再び口を開いた。
「ところでさ。司くんは今日、どうして私を食事に誘ってくれたのかな」
私、今どんな顔してる?
そんな私の心配は、どうやら杞憂だったようだ。司くんは変わらない表情で、ただ小さく肩をすくめた。
「それは、もうじき環季先輩は卒業してしまうわけですよね。せっかく縁があったのなら、お互いになるべくいい思い出にしたいじゃないですか。あんな嫌な奴いたよね、なんて印象をずっと持たれるのは面白くないですし」
何気なく語られたその言葉に、私は衝撃を受けた。白倉さんや司くんと過ごしている今のこの時間が、すでに思い出のために消費されている。そんなことを私は想像したこともなかったし、到底受け入れられるものではなかった。思い出なんて言葉は、人生を不連続に区切ったものだ。それを現在に当てはめるなどということは、どう考えたって矛盾している。
「思い出って。君は誰かと一緒にいる時に、いつも別れのことを考えているの?」
司くんは憂鬱そうな顔をすると、頬杖をついて窓の外を見た。
「どうですかね。でも永遠なんてこと、ありはしませんよ」
馬鹿。いつまで、あきらめ上手な振りをしているのよ。自分に嘘をつき続けることなんか誰にもできないのに。何が君をそうさせてるのよ、白状してよ。そうじゃないと、私。
「永遠、なんて贅沢は言わない。でも私は、司くんを思い出になんかしたくないよ。遠く離れても、たとえ別れてしまっても。私が君のことを想い続けている限り、君は過去になんてならない」
ナプキンを強く握りしめた私に気付いた司くんは、驚いた表情で顎から手を離した。私の言葉は、二人の関係についてかなり核心に触れていた。なにより、言葉にした自分自身が驚いていた。いつからこんなことになっていたのだろう、私は。
覚悟を決めて司くんを見た私は、自分の言葉が見当違い、かつ逆効果だったことに気付いて悲しくなった。彼が私の言葉を通して、誰か別の人を思い浮かべているのが分かったからだ。思い出にしたくない、ほかの誰かのことを。
司くんは宙を見つめたまま、私の言葉を反芻しているようだった。ややあって彼は目の前にいる私に気付くと、私が一番して欲しくないことをした。
「俺が悪かったんです、食事に誘ったりなんかして。環季先輩はいい人です、俺とこうして話すのがもったいないくらいに。相手にする価値もない遊び人に振り回されて、嫌な思いをする必要なんかありませんよ」
恐らく私を傷つけないようにと思ったのだろう、頭を下げた司くんのその仕草もまた、私にはまったくの逆効果だった。私は自分の無力さに心の中で舌打ちしながら、冷静さを装って答えた。
「価値なんかで人を判断するなって、会長がそう教えてくれた。つまらない気遣いなんていらないし、君はなにも悪くない」
でも、そうだね。私もいけなかったんだ。司くんに近づけば近づくほどに放っておけなくなってしまう。いい加減にわきまえるべきだ、私は白倉さんほど上手におせっかいは焼けない。
私は裏返しに置いてあった伝票を自分の方へと寄せると、ショルダーバッグをつかんで立ち上がった。
「仕事帰りに長居しちゃったね。そろそろ帰ろうか」
結局パスタを残すことになってしまった私は、冷たくなったお皿に小さく手を合わせて謝った。ごめんなさい、落ち着いたらまた来ますから。
結局その後、私と司くんは大した言葉も交わさないままに別れて、それぞれの家路についた。帰宅した私は、いつものように食事をし、入浴をすませ、「エルミタージュ」を聞きながら日課をこなす。
やがて番組も終わり、じきに日付が変わろうという頃になっても、私はなんだか眠れそうになかった。明かりを消した部屋のベッドに仰向けに倒れこんだ私は、額に手を当てたままで、白く浮かび上がった天井をぼんやりと見つめる。
言いたいことを言ってしまったな、いやな女だと思われているだろうな。いっそのこと、食事など断って何も話さずに、まっすぐ家に帰ればよかったのだろうか。正解なんてない、という白倉さんの言葉が胸をよぎる。それでも、これだけははっきりと言える。空欄のままでは、間違いなく零点なのだと。ならばせめて、部分点だけでも取りに行くべきではないか。
私は床に放り投げていたバッグに手を伸ばすと、中から携帯を取り出して目の前にかかげた。少しためらった後で、アドレス帳のアイコンをタッチする。金澤司。通信欄に入力したい言葉はそれこそ小説一冊分ほどもあったが、私はそのうちの一つだけを送信した。
いま、どこですか。
彼からの返信は、笑ってしまうくらいに、あっという間だった。
自分の部屋です。
私はその短いメッセージを読んで満足した。なんだかんだ言っても、お互いがいる場所も、ずっと寝付けないでいるのも、まるで一緒じゃないか。彼と同じ夜を過ごしている、そんな自分勝手な胸の高鳴りに、私は痛みすら感じる。
再び短い言葉を送信すると、私は携帯の電源をそっと落とした。
お休み、また明日。
返信不要です。
「ところでさ。司くんは今日、どうして私を食事に誘ってくれたのかな」
私、今どんな顔してる?
そんな私の心配は、どうやら杞憂だったようだ。司くんは変わらない表情で、ただ小さく肩をすくめた。
「それは、もうじき環季先輩は卒業してしまうわけですよね。せっかく縁があったのなら、お互いになるべくいい思い出にしたいじゃないですか。あんな嫌な奴いたよね、なんて印象をずっと持たれるのは面白くないですし」
何気なく語られたその言葉に、私は衝撃を受けた。白倉さんや司くんと過ごしている今のこの時間が、すでに思い出のために消費されている。そんなことを私は想像したこともなかったし、到底受け入れられるものではなかった。思い出なんて言葉は、人生を不連続に区切ったものだ。それを現在に当てはめるなどということは、どう考えたって矛盾している。
「思い出って。君は誰かと一緒にいる時に、いつも別れのことを考えているの?」
司くんは憂鬱そうな顔をすると、頬杖をついて窓の外を見た。
「どうですかね。でも永遠なんてこと、ありはしませんよ」
馬鹿。いつまで、あきらめ上手な振りをしているのよ。自分に嘘をつき続けることなんか誰にもできないのに。何が君をそうさせてるのよ、白状してよ。そうじゃないと、私。
「永遠、なんて贅沢は言わない。でも私は、司くんを思い出になんかしたくないよ。遠く離れても、たとえ別れてしまっても。私が君のことを想い続けている限り、君は過去になんてならない」
ナプキンを強く握りしめた私に気付いた司くんは、驚いた表情で顎から手を離した。私の言葉は、二人の関係についてかなり核心に触れていた。なにより、言葉にした自分自身が驚いていた。いつからこんなことになっていたのだろう、私は。
覚悟を決めて司くんを見た私は、自分の言葉が見当違い、かつ逆効果だったことに気付いて悲しくなった。彼が私の言葉を通して、誰か別の人を思い浮かべているのが分かったからだ。思い出にしたくない、ほかの誰かのことを。
司くんは宙を見つめたまま、私の言葉を反芻しているようだった。ややあって彼は目の前にいる私に気付くと、私が一番して欲しくないことをした。
「俺が悪かったんです、食事に誘ったりなんかして。環季先輩はいい人です、俺とこうして話すのがもったいないくらいに。相手にする価値もない遊び人に振り回されて、嫌な思いをする必要なんかありませんよ」
恐らく私を傷つけないようにと思ったのだろう、頭を下げた司くんのその仕草もまた、私にはまったくの逆効果だった。私は自分の無力さに心の中で舌打ちしながら、冷静さを装って答えた。
「価値なんかで人を判断するなって、会長がそう教えてくれた。つまらない気遣いなんていらないし、君はなにも悪くない」
でも、そうだね。私もいけなかったんだ。司くんに近づけば近づくほどに放っておけなくなってしまう。いい加減にわきまえるべきだ、私は白倉さんほど上手におせっかいは焼けない。
私は裏返しに置いてあった伝票を自分の方へと寄せると、ショルダーバッグをつかんで立ち上がった。
「仕事帰りに長居しちゃったね。そろそろ帰ろうか」
結局パスタを残すことになってしまった私は、冷たくなったお皿に小さく手を合わせて謝った。ごめんなさい、落ち着いたらまた来ますから。
結局その後、私と司くんは大した言葉も交わさないままに別れて、それぞれの家路についた。帰宅した私は、いつものように食事をし、入浴をすませ、「エルミタージュ」を聞きながら日課をこなす。
やがて番組も終わり、じきに日付が変わろうという頃になっても、私はなんだか眠れそうになかった。明かりを消した部屋のベッドに仰向けに倒れこんだ私は、額に手を当てたままで、白く浮かび上がった天井をぼんやりと見つめる。
言いたいことを言ってしまったな、いやな女だと思われているだろうな。いっそのこと、食事など断って何も話さずに、まっすぐ家に帰ればよかったのだろうか。正解なんてない、という白倉さんの言葉が胸をよぎる。それでも、これだけははっきりと言える。空欄のままでは、間違いなく零点なのだと。ならばせめて、部分点だけでも取りに行くべきではないか。
私は床に放り投げていたバッグに手を伸ばすと、中から携帯を取り出して目の前にかかげた。少しためらった後で、アドレス帳のアイコンをタッチする。金澤司。通信欄に入力したい言葉はそれこそ小説一冊分ほどもあったが、私はそのうちの一つだけを送信した。
いま、どこですか。
彼からの返信は、笑ってしまうくらいに、あっという間だった。
自分の部屋です。
私はその短いメッセージを読んで満足した。なんだかんだ言っても、お互いがいる場所も、ずっと寝付けないでいるのも、まるで一緒じゃないか。彼と同じ夜を過ごしている、そんな自分勝手な胸の高鳴りに、私は痛みすら感じる。
再び短い言葉を送信すると、私は携帯の電源をそっと落とした。
お休み、また明日。
返信不要です。
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