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1章 プレアデスは遥か彼方
プレアデスは遥か彼方#1
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『最後の一曲です。シューベルトのアヴェ・マリアを僕が編曲したもの。それじゃあ、聴いてください』
九月の半ば。理月はタクシーの後部座席でイヤホンを付け、スマートフォンを横向けて動画を見ていた。四日前の生配信のアーカイブだ。小さな液晶画面の中ではゆるく天パがかった暗めの栗毛をした男が愛おしむようにピアノを弾いている。静かな夜にぴったりの美しい音色に耳を澄ませて目を細めた。
会いたいな、なんて恋しく思っているうち、タクシーが低層マンションの前で停車する。理月はダークグレーのスーツのポケットにスマートフォンをしまい、ビジネスバッグを手に持ち降車した。空を見上げると満月が輝いていて、そう言えば今日は中秋の名月だったなと思い出す。
エントランスでオートロックを解除して、黒い革靴の底をコツコツと鳴らし中へと歩き進めていく。カードキーをセンサーに翳してエレベーターに乗り込むとボタンを押さずとも自動で動き出し、最上階の三階へと到着した。
くたくたに疲れているから、今夜はさっさと風呂に入って眠りたい。そう思いながら玄関ドアを開ける。
ドアを開ければ人感センサーで明かりが点くから、玄関が明るいのはいつものことだ。しかし玄関に自分のものとは違うライトブラウンの革靴が置かれていることが目に留まり、理月は目を丸くした。
「……あれ? 昴、帰ってるのか」
そう思ったけれど、人気は感じられない。部屋の中は何の音もせずシンと静かだ。会いたいな、と心の中で思いはしたけれど、今日帰ってくるとは聞いてない。毎日のように電話をしたがるくせに、珍しく『明日は電話出来ない』だとか一昨日言っていたな、と思い返す。どうせ防音室に篭っているのだろうと思い、靴を脱いで廊下に上がって、短い廊下の途中にある重たいドアをがちゃりと開けた。
防音ドアを開けた途端、ぶわっ、と音が溢れてくる。白黒の鍵盤の上で楽しげに弾むメロディー。きらきら星を好き勝手に即興アレンジしたものだ。つい先ほど画面の中で観ていたばかりの昴がそこに居た。
ドアを開けても閉めても、鍵盤に意識を集中させている昴は理月に気付かず、白い長袖カットソーの袖先の骨張った大きな手からきらきらした音を紡ぎ続けている。防音室の入口から見やる横顔は楽しげで、くっきりした二重の目を少し細めた笑顔で鍵盤を見やっていた。
明るい曲だから、というだけじゃない。昴が奏でる音は明るく楽しげで、音が流れ星となって降り注いでいるように見えてくるほど色鮮やかだ。
昴は一曲弾き終えて「ふう」と息を吐いたところでようやく理月の気配に気付いたらしく、ふっと理月に顔を向けた。
「あれ? りっちゃん、おかえり。いつの間に?」
「昴、帰ってくるなら先に言いなよ。僕が友達とか連れて帰ってきて出くわしたら気まずいだろ」
こてん、と首を傾げて目を丸くする昴に向かって、理月は少し口を尖らせる。昴は傾けた首を余計に捻り、怪訝な表情を浮かべた。
「りっちゃん、僕がヨーロッパ周ってる間に、家に呼べるような友達なんて出来たの?」
「……まあ、家に呼ぶような友達は出来てないけど」
訝しむように聞かれ、理月はもごもごと返事をしながら視線をそらす。仕事は会社の誰より出来るし、幅広い知識を深く持ち機知に富んだ切れ者で、表面上の愛想も良い。けれど他人を心から信頼出来ないタイプの理月には、三十になった現在も相変わらず心を許せる深い付き合いの身近な友達は昴程度のものだ。友達が居ないと言うか、作らないと言うか。
「ごめんごめん、意地悪言ったね。りっちゃん、ただいま。驚かせたくて、連絡しないで帰ってきちゃった」
「普通に驚いたよ。まあ、靴で先に気付いたけどね。驚かせたいなら靴まで隠しておきなよ。詰めが甘いな」
昴は幅広のピアノ椅子に腰掛けたまま笑みを浮かべると、理月に向けてちょいちょいと手を動かして『おいで』のジェスチャーをする。
「りっちゃん、一緒に弾こうよ。僕が合わせるし、何でも良いから」
「じゃあ、ベートーヴェンの『月光』」
「連弾しにくい曲選んだね。十五夜だから?」
「うん。さっき、月が綺麗だなと思ったから」
理月はジャケットを脱いで白いワイシャツにベストと揃いのスラックスという出で立ちにすると、紺地のネクタイを軽く引っ張り襟もとを寛げる。ハンガーラックにジャケットをきちんと引っかけ、グランドピアノの傍に近寄った。正面の鍵盤に対して昴が座る位置を左側に詰め、理月は右側に腰掛ける。
「月が綺麗だって、りっちゃんが素直に言えるようになって嬉しいな。りっちゃん、会ったばっかの頃は月のこと好きじゃなかったし」
嬉しげに目を細めて昴に言われ、理月も今より互いにずっと幼かった頃を想起して柔らかい笑みを浮かべた。
「確かにあの頃はよく思ってなかったけど……今は好きだって、素直に言えるよ。昴のおかげだ」
二人の出会いは、昴が十五歳、理月が十七歳の春。小中高一貫教育の、男子校の音楽室でのことだった。それから約十二年半が経った現在、次の春を迎えれば十三年の月日が経つ。見た目も性格も正反対の二人だが、なんだかんだもうお互い人生の半分近くの長い付き合いだ。
「最初はりっちゃんのソロが良いな。りっちゃんのピアノ好きだから、久々に生でゆっくり聴きたい」
「良いよ。じゃあ、途中から入ってきて」
理月はそう言うと鍵盤に指を置き、最初の音をポンと鳴らした。ピアノの道はとっくの昔に諦めている。けれど昴が好きだと言ってくれるから、理月自身ピアノを弾くことが大好きだから、日々忙しくとも練習を欠かしたことはない。静かで穏やかで寂しげな、月夜にぴったりの第一楽章の音を指先から紡いでいった。
先ほどの昴のように、目の前の鍵盤だけに集中して自分の世界に入ってしまった理月に昴の視線は届かない。今の理月の世界に介入出来るのは昴の音だけだ。
しばらく独奏した後、理月が奏でる音に昴が参加して、二人で音を重ねて紡ぎ始める。昴の音が介入すると、理月のピアノの調子が変わる。昴と一緒に弾くのは楽しいから、釣られて理月の音もうきうきと弾んだ。お互いアレンジを加えた即興連弾だ。
最後の音を理月の指が弾き、演奏を終えて鍵盤から指を離す。理月は「ふう」と息を吐くと両手を組んで天井に向かい伸びをして、隣に座る昴へと顔を向けた。
「やっぱり昴と弾くのは楽しい。くたくたに疲れてたはずなのに、疲れが飛んだ」
「僕も。久々にりっちゃんと一緒に弾けて嬉しいし、すっごく楽しい。りっちゃんと弾くピアノは、やっぱり特別」
理月が目を細めて笑うと、昴はふにゃっとした笑顔を理月に向ける。
「――ああ、そうだ。昴、ちゃんと夕飯食べた? 何時に帰ってきたの?」
「んー、ここに着いたのは十六時くらいだったかな? それから特に何も食べてないや。食べてないって気付いたらお腹空いてきたー」
「もう二十一時過ぎてるぞ……すぐ寝食忘れるのどうにかしなよ。身体壊すぞ。有り物で適当に何か作ってあげるから、リビングに移動しよう」
「やった。久々のりっちゃんの手料理だ」
昴がニコニコと笑顔を向けてくるものだからそれ以上叱る気も失せ、理月は口角を少し下げただけで口を閉じた。それから、噤んだ口唇を小さく開く。
「――あと、言い忘れてた。おかえり、昴」
「うん。ただいま、りっちゃん」
理月の『おかえり』に、昴は目を細めて『ただいま』を返し頬を緩める。鍵盤に蓋をして互いにドアへと足を向け、防音室の電気をぱちりと消した。
九月の半ば。理月はタクシーの後部座席でイヤホンを付け、スマートフォンを横向けて動画を見ていた。四日前の生配信のアーカイブだ。小さな液晶画面の中ではゆるく天パがかった暗めの栗毛をした男が愛おしむようにピアノを弾いている。静かな夜にぴったりの美しい音色に耳を澄ませて目を細めた。
会いたいな、なんて恋しく思っているうち、タクシーが低層マンションの前で停車する。理月はダークグレーのスーツのポケットにスマートフォンをしまい、ビジネスバッグを手に持ち降車した。空を見上げると満月が輝いていて、そう言えば今日は中秋の名月だったなと思い出す。
エントランスでオートロックを解除して、黒い革靴の底をコツコツと鳴らし中へと歩き進めていく。カードキーをセンサーに翳してエレベーターに乗り込むとボタンを押さずとも自動で動き出し、最上階の三階へと到着した。
くたくたに疲れているから、今夜はさっさと風呂に入って眠りたい。そう思いながら玄関ドアを開ける。
ドアを開ければ人感センサーで明かりが点くから、玄関が明るいのはいつものことだ。しかし玄関に自分のものとは違うライトブラウンの革靴が置かれていることが目に留まり、理月は目を丸くした。
「……あれ? 昴、帰ってるのか」
そう思ったけれど、人気は感じられない。部屋の中は何の音もせずシンと静かだ。会いたいな、と心の中で思いはしたけれど、今日帰ってくるとは聞いてない。毎日のように電話をしたがるくせに、珍しく『明日は電話出来ない』だとか一昨日言っていたな、と思い返す。どうせ防音室に篭っているのだろうと思い、靴を脱いで廊下に上がって、短い廊下の途中にある重たいドアをがちゃりと開けた。
防音ドアを開けた途端、ぶわっ、と音が溢れてくる。白黒の鍵盤の上で楽しげに弾むメロディー。きらきら星を好き勝手に即興アレンジしたものだ。つい先ほど画面の中で観ていたばかりの昴がそこに居た。
ドアを開けても閉めても、鍵盤に意識を集中させている昴は理月に気付かず、白い長袖カットソーの袖先の骨張った大きな手からきらきらした音を紡ぎ続けている。防音室の入口から見やる横顔は楽しげで、くっきりした二重の目を少し細めた笑顔で鍵盤を見やっていた。
明るい曲だから、というだけじゃない。昴が奏でる音は明るく楽しげで、音が流れ星となって降り注いでいるように見えてくるほど色鮮やかだ。
昴は一曲弾き終えて「ふう」と息を吐いたところでようやく理月の気配に気付いたらしく、ふっと理月に顔を向けた。
「あれ? りっちゃん、おかえり。いつの間に?」
「昴、帰ってくるなら先に言いなよ。僕が友達とか連れて帰ってきて出くわしたら気まずいだろ」
こてん、と首を傾げて目を丸くする昴に向かって、理月は少し口を尖らせる。昴は傾けた首を余計に捻り、怪訝な表情を浮かべた。
「りっちゃん、僕がヨーロッパ周ってる間に、家に呼べるような友達なんて出来たの?」
「……まあ、家に呼ぶような友達は出来てないけど」
訝しむように聞かれ、理月はもごもごと返事をしながら視線をそらす。仕事は会社の誰より出来るし、幅広い知識を深く持ち機知に富んだ切れ者で、表面上の愛想も良い。けれど他人を心から信頼出来ないタイプの理月には、三十になった現在も相変わらず心を許せる深い付き合いの身近な友達は昴程度のものだ。友達が居ないと言うか、作らないと言うか。
「ごめんごめん、意地悪言ったね。りっちゃん、ただいま。驚かせたくて、連絡しないで帰ってきちゃった」
「普通に驚いたよ。まあ、靴で先に気付いたけどね。驚かせたいなら靴まで隠しておきなよ。詰めが甘いな」
昴は幅広のピアノ椅子に腰掛けたまま笑みを浮かべると、理月に向けてちょいちょいと手を動かして『おいで』のジェスチャーをする。
「りっちゃん、一緒に弾こうよ。僕が合わせるし、何でも良いから」
「じゃあ、ベートーヴェンの『月光』」
「連弾しにくい曲選んだね。十五夜だから?」
「うん。さっき、月が綺麗だなと思ったから」
理月はジャケットを脱いで白いワイシャツにベストと揃いのスラックスという出で立ちにすると、紺地のネクタイを軽く引っ張り襟もとを寛げる。ハンガーラックにジャケットをきちんと引っかけ、グランドピアノの傍に近寄った。正面の鍵盤に対して昴が座る位置を左側に詰め、理月は右側に腰掛ける。
「月が綺麗だって、りっちゃんが素直に言えるようになって嬉しいな。りっちゃん、会ったばっかの頃は月のこと好きじゃなかったし」
嬉しげに目を細めて昴に言われ、理月も今より互いにずっと幼かった頃を想起して柔らかい笑みを浮かべた。
「確かにあの頃はよく思ってなかったけど……今は好きだって、素直に言えるよ。昴のおかげだ」
二人の出会いは、昴が十五歳、理月が十七歳の春。小中高一貫教育の、男子校の音楽室でのことだった。それから約十二年半が経った現在、次の春を迎えれば十三年の月日が経つ。見た目も性格も正反対の二人だが、なんだかんだもうお互い人生の半分近くの長い付き合いだ。
「最初はりっちゃんのソロが良いな。りっちゃんのピアノ好きだから、久々に生でゆっくり聴きたい」
「良いよ。じゃあ、途中から入ってきて」
理月はそう言うと鍵盤に指を置き、最初の音をポンと鳴らした。ピアノの道はとっくの昔に諦めている。けれど昴が好きだと言ってくれるから、理月自身ピアノを弾くことが大好きだから、日々忙しくとも練習を欠かしたことはない。静かで穏やかで寂しげな、月夜にぴったりの第一楽章の音を指先から紡いでいった。
先ほどの昴のように、目の前の鍵盤だけに集中して自分の世界に入ってしまった理月に昴の視線は届かない。今の理月の世界に介入出来るのは昴の音だけだ。
しばらく独奏した後、理月が奏でる音に昴が参加して、二人で音を重ねて紡ぎ始める。昴の音が介入すると、理月のピアノの調子が変わる。昴と一緒に弾くのは楽しいから、釣られて理月の音もうきうきと弾んだ。お互いアレンジを加えた即興連弾だ。
最後の音を理月の指が弾き、演奏を終えて鍵盤から指を離す。理月は「ふう」と息を吐くと両手を組んで天井に向かい伸びをして、隣に座る昴へと顔を向けた。
「やっぱり昴と弾くのは楽しい。くたくたに疲れてたはずなのに、疲れが飛んだ」
「僕も。久々にりっちゃんと一緒に弾けて嬉しいし、すっごく楽しい。りっちゃんと弾くピアノは、やっぱり特別」
理月が目を細めて笑うと、昴はふにゃっとした笑顔を理月に向ける。
「――ああ、そうだ。昴、ちゃんと夕飯食べた? 何時に帰ってきたの?」
「んー、ここに着いたのは十六時くらいだったかな? それから特に何も食べてないや。食べてないって気付いたらお腹空いてきたー」
「もう二十一時過ぎてるぞ……すぐ寝食忘れるのどうにかしなよ。身体壊すぞ。有り物で適当に何か作ってあげるから、リビングに移動しよう」
「やった。久々のりっちゃんの手料理だ」
昴がニコニコと笑顔を向けてくるものだからそれ以上叱る気も失せ、理月は口角を少し下げただけで口を閉じた。それから、噤んだ口唇を小さく開く。
「――あと、言い忘れてた。おかえり、昴」
「うん。ただいま、りっちゃん」
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