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5章 甘いもの、苦いもの、唯一自分で選べるもの
甘いもの、苦いもの、唯一自分で選べるもの#1
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「――駐在、ですか」
思わず繰り返した言葉は、自分でも少し硬い響きに聞こえた。
「ああ。藤原さんにお願いしたいと思っているんだ」
穏やかな顔立ちをした立花部長は眼鏡の奥の視線を上げ、見た目と同じ穏やかな声で淡々と続ける。
「クロージングも済んで、これからは現地法人の立ち上げと建設管理が本格化する。向こうのパートナーや行政との折衝も増えていくし、日本からの指示だけでは回らない。現場で判断ができて、現地の信頼を得られる人間が必要だ。着工から軌道に乗せるところまで、任期は三年を想定している」
出張から帰国して数日経った、週初めの月曜日。山積みの報告書を片づけていた最中、部長に呼び出されて一旦手を止め会議室へと向かい――何の話かと思えば、長期駐在の打診だった。
理月は沈黙し、目の前の資料に視線を落とす。資料に羅列された文字や数字を見てみても、目が滑ってしまい頭に上手く入ってこない。任期は三年、というシンプルな言葉が鼓膜にこびりついて煩わしかった。
「承知しました。前向きに検討します」
短く答えると、部長は満足げに頷いた。
「正式な辞令は追って出る。準備を進めておいてくれ」
――まあ、この案件に携わった時点で、遅かれ早かれ駐在の話は出るだろうと思っていた。想定内だ。けれど、意識的にあまり考えないようにしていたのだろうと思う。いつもいつも、考えたくないことは後回しだ。未来のことなんて考えたくない。いざ現実となると、心がざわつく。
そんな心地はおくびにも出さず、いつも通り背筋をピンと伸ばし、軽く一礼して会議室から退室した。自分のデスクに戻り、考えることを放棄して、ただ書類を捌いていく。
退勤時間まで無心でやり切ってタクシーに乗り込んだ。後部座席に座り、ヘッドレストにぽすんと頭を凭れる。
まだ内示だから断る余地はある――わけがない。自分の立場を考えれば、断れるはずもなかった。それに、仕事は嫌いじゃない。良い経験になるだろう。受けたくないわけじゃない。
思い浮かぶのは結局、昴のことだ。昴も不在にしている期間が多い。だから三年も家を空けるとなれば、もう同居は解消したほうが良いだろう。
良い機会だと思った。これをきっかけに、応えてやる勇気がないくせに縛り付けるのは終わりにするべきだ。
駐在は春頃からの予定だからまだ時間はあるけれど、転居の支度は大変だろうし、出来るだけ早く伝えた方がいい。
頭ではそう思っても、本音では終わらせたくなんかない。ずっとこの時間が続けばいいのに、と自分勝手に思ってしまう。
『りっちゃん、仕事終わった? 今夜はパスタとお肉だよー』
ピロン、とスマートフォンの通知音が鳴り画面を見ると、そんなチャットが表示されていた。チャットアプリを開くと続けて届いていた写真が表示される。今日の夕飯はトマトソースのパスタ、鶏肉と野菜の煮込み、ルッコラとレタスのグリーンサラダらしい。
『美味しそう。あと五分くらいで着くよ。ありがとう』と打ちながら、ふっと自然に口角が上がる。送信ボタンを押せばすぐに既読が付いて『待ってます』という台詞付きのチワワのスタンプが返ってきた。もうチワワなんて柄じゃないのに。
くくっとつい笑っていると今度は電話が鳴った。あと五分で着くって書いたのに、と思いながら画面を覗き――表示された名前を見て、頬が強張る。一瞬の間の後、応答ボタンをタップした。
「はい、理月です」
要件のみ二、三言会話して、ほんの短い通話を終える。小さく息を吐いたところでタクシーが自宅マンションの前に辿り着いた。
思わず繰り返した言葉は、自分でも少し硬い響きに聞こえた。
「ああ。藤原さんにお願いしたいと思っているんだ」
穏やかな顔立ちをした立花部長は眼鏡の奥の視線を上げ、見た目と同じ穏やかな声で淡々と続ける。
「クロージングも済んで、これからは現地法人の立ち上げと建設管理が本格化する。向こうのパートナーや行政との折衝も増えていくし、日本からの指示だけでは回らない。現場で判断ができて、現地の信頼を得られる人間が必要だ。着工から軌道に乗せるところまで、任期は三年を想定している」
出張から帰国して数日経った、週初めの月曜日。山積みの報告書を片づけていた最中、部長に呼び出されて一旦手を止め会議室へと向かい――何の話かと思えば、長期駐在の打診だった。
理月は沈黙し、目の前の資料に視線を落とす。資料に羅列された文字や数字を見てみても、目が滑ってしまい頭に上手く入ってこない。任期は三年、というシンプルな言葉が鼓膜にこびりついて煩わしかった。
「承知しました。前向きに検討します」
短く答えると、部長は満足げに頷いた。
「正式な辞令は追って出る。準備を進めておいてくれ」
――まあ、この案件に携わった時点で、遅かれ早かれ駐在の話は出るだろうと思っていた。想定内だ。けれど、意識的にあまり考えないようにしていたのだろうと思う。いつもいつも、考えたくないことは後回しだ。未来のことなんて考えたくない。いざ現実となると、心がざわつく。
そんな心地はおくびにも出さず、いつも通り背筋をピンと伸ばし、軽く一礼して会議室から退室した。自分のデスクに戻り、考えることを放棄して、ただ書類を捌いていく。
退勤時間まで無心でやり切ってタクシーに乗り込んだ。後部座席に座り、ヘッドレストにぽすんと頭を凭れる。
まだ内示だから断る余地はある――わけがない。自分の立場を考えれば、断れるはずもなかった。それに、仕事は嫌いじゃない。良い経験になるだろう。受けたくないわけじゃない。
思い浮かぶのは結局、昴のことだ。昴も不在にしている期間が多い。だから三年も家を空けるとなれば、もう同居は解消したほうが良いだろう。
良い機会だと思った。これをきっかけに、応えてやる勇気がないくせに縛り付けるのは終わりにするべきだ。
駐在は春頃からの予定だからまだ時間はあるけれど、転居の支度は大変だろうし、出来るだけ早く伝えた方がいい。
頭ではそう思っても、本音では終わらせたくなんかない。ずっとこの時間が続けばいいのに、と自分勝手に思ってしまう。
『りっちゃん、仕事終わった? 今夜はパスタとお肉だよー』
ピロン、とスマートフォンの通知音が鳴り画面を見ると、そんなチャットが表示されていた。チャットアプリを開くと続けて届いていた写真が表示される。今日の夕飯はトマトソースのパスタ、鶏肉と野菜の煮込み、ルッコラとレタスのグリーンサラダらしい。
『美味しそう。あと五分くらいで着くよ。ありがとう』と打ちながら、ふっと自然に口角が上がる。送信ボタンを押せばすぐに既読が付いて『待ってます』という台詞付きのチワワのスタンプが返ってきた。もうチワワなんて柄じゃないのに。
くくっとつい笑っていると今度は電話が鳴った。あと五分で着くって書いたのに、と思いながら画面を覗き――表示された名前を見て、頬が強張る。一瞬の間の後、応答ボタンをタップした。
「はい、理月です」
要件のみ二、三言会話して、ほんの短い通話を終える。小さく息を吐いたところでタクシーが自宅マンションの前に辿り着いた。
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