Kの因縁とゼロの衝動─珊瑚の繋がる物語─

不来方しい

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第一章

016 未来永劫─②

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 女性ははっと顔を上げた。目には涙が溜まり、少しでも動いたら流れてきそうだ。
「本当に、本当に、ごめんなさい。彼方君さえよければ、弁護士を立てて……」
「示談もしたくないんです。ある意味、払ってしまえばそちらはすべてを解決したと新しい人生を歩めますが、俺はそうじゃない。一生あなたたちには苦しんでほしいと願います」
「…………責任を持って、学生寮を出ることになったの。大学はこれからも通うけれど、彼方君がいる学科へは近づかないようにと約束させる」
「同じ大学なんで、会ってしまう可能性があります。でも他人のふりを貫いて下さい」
「絶対に、絶対に約束させます」
 母親が謝ってばかりで、海人はこちらを見向きもしない。
「彼方君、あのね。なんの慰めにもならない言葉だけど……。うちの海人はね、彼方君のことを羨ましいって話したの。中学校を卒業したときの話。勉強もできてスポーツ万能で、黙っていても女の子たちが集まるようなあなたが。どうやって敵わないって」
「確かに、何の慰めにもならない言葉です。俺は自分のことをそんな風に思ったことは一度もありません」
 最後に、海人の母親は深々と頭を下げ、息子の後を追った。
 結局、海人とは一言も話さないままの別れとなった。
「待たせたな」
「待ってないよ。あれで良かったんだね」
「いきなりのことで頭が真っ白になったけど、思いつく方法で自分が後悔しない道を進んだ気がする」
「人を羨ましいと思う気持ちって、ときには攻撃的になる場合もある。とても怖い。最初から最後まで九条君のことはさっぱり理解できなかった」
「ああいう人種もいるってことだな。零もあいつに壁ドンしたり、俺には理解できない行動をとったりしてるよ」
「あはは。あれはちょっとこう、さまざまな話を冷静かつ温厚に話していただけだよ」
 零の笑顔が怖かった。



 海によって潮風の香りは違い、懐かしさと痛みを胸に秘めながら船に揺られている。
 大学四年の卒業前──母から一本のメールが入った。
──一度、戻っておいで。
 会いたいでもなく、戻っておいで。どんな意図が込められているのか考えても考えても答えは出なかった。
「懐かしいねえ」
 零の呑気さを見ているといくらか心が和み、手を握り返した。
 零には「ふたりで母に会ってほしい」と告げると、零は笑って頷いた。
 彼もまた覚悟を受け持ってくれたのだ。罵倒される可能性が高いのに、ふたりで人生を歩むことを望み、それを証明しようとしている。砂糖をまぶした甘ったるさはないが、苦くても一緒に噛みしめてくれる。
 スーツケースを下ろして島に降り立った。出迎えはない。遠くで子供の笑い声がする。そんな時代も、彼方自身にもあった。
 零が率先して歩いていくので、彼方は後ろをついていく。
「家の場所、判るのか?」
「来るの三回目だよ? さすがにね」
「そっか。高校生のときも来てくれたんだったな」
「彼方がいなくてがっかりした。彼方のお母さんの料理も楽しみ」
「ああ。季節外れだけど、素麺を用意しておくってさ」
「あはは、僕大好きだよ」
 進むたびに足が重くなっていく。対照的に、零は軽い。
 懐かしい実家だ。庭は何かの芽が出ている。
 零に背中を押され、インターホンを押した。
『はい』
『えーと……、俺です』
『どうぞ』
 懐かしい母の声だ。勇気を振り絞り、ドアを開けた。
「………………どうも」
「おかえりなさい。零君も久しぶりね。さあ、どうぞ上がって」
「お邪魔します。お世話になります」
 数年前と比べると、母は痩せこけているように見えた。笑顔を作っているが、痛々しい。後ろめたいものがあるから、そう見えているのかもしれない。
「部屋に零君の布団も一緒にあるから」
「ああ……ありがとう」
 父の靴もある。弟の靴はない。
「お父さん、待ってるわよ。部屋へ行く前に顔を出して」
「行こ?」
 立ち止まっていると、零に腕を引っ張られた。
 リビングには、父らしき後ろ姿がある。白髪は増え、背中が少し丸くなった。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
「お邪魔します。よろしくお願いします」
 零は丁寧に頭を下げる。母に対する穏やかさとは異なり、ほんの少しだけ顔が強張ったように見えた。
「零君も、ゆっくりしていってくれ」
「ありがとうございます」
 自室は何も変わっていなかった。直前まで空気を入れ替えてくれたのだろう。潮の香りがする。
「とりあえず、第一歩だね。弟君は?」
「さあ? 出かけてるんじゃないのか?」
 下から母にご飯の時間だと呼ばれた。
 彼方は鞄から小さな箱を取り出す。懐かしい、零と繋がり続けた珊瑚だ。
「これ、つけてもいいか?」
「持ってきたの? というか、持ってたんだ……」
 中学生のときに交換した珊瑚の指輪。
「捨てるような男に見えるか? 命よりも大切なものだ」
「僕も持ってくればよかった」
「零…………」
 あの頃より大きくなった身体を抱き寄せた。彼もまた成長し、変わっていく。けれど変わらないものも確かにあった。
「行こう」
 テーブルには煮麺と寿司が用意されていた。
「たくさん食べてね。ビールは飲める?」
「いえ、お酒は……」
「それじゃあお茶にしましょうか。彼方も飲まない?」
「俺もお茶がいい」
 席に座ると、父の視線は左手の薬指へ向いた。居心地が悪そうに目を泳がせる。
 質問は母が主にして、それを彼方と零が答えた。
 大学生活、寮、アルバイト。極限まで言わないのは、将来のことだ。彼方はあえてパンドラの箱を開けた。
「母さん、父さん。聞いてほしいことがある」
 彼方はひと呼吸おいた。
「卒業したら、長崎で就職することになった」
「長崎? どうして?」
「去年の夏休みに、零の家へ行ったんだ。場所は長崎なんだけど、そこでイルカ島へ行って、いろんな刺激を受けた。もしかしたらこれからやりたいこともたくさんあるかもしれない。道が変わるかもしれない。でも今は長崎でやっていく気持ちが強い。零と一緒に」
「零君の仕事は?」
「僕はIT関係の仕事です。パソコンがあればどこでも仕事ができます。僕は僕の意思で、彼方君と長崎で暮らします」
「……就職が決まったのね。おめでとう」
 しばらく沈黙が続いた。
 先に口を開いたのは父だった。
「人と違う道を歩む覚悟はできているのか?」
「今までも犠牲は多かった。俺をひとりだけ酸素のない世界へ放り出して、周りはごく一般的な道を進む。でも神奈川へ行って判ったんだ。俺は思っているほど独りじゃなかった。味方になってくれる友人の方が、むしろ多かった。島での世界はちっぽけで、俺にはむしろここが歪な世界に見える」
「そうね。こんなに小さな島だもの。母さんは外の世界を知らない」
「俺はもっと知りたいし、零と歩む覚悟はとっくにできてる。正直言うと、勘当覚悟でここへ帰ってきた」
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