囚人の見る夢

皆中透

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別れ、そして

修羅を超えて

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 綾人がボソリとそう呟くと、轟音を響かせていた鉄扉が、ドーンという重苦しい爆発音と共に吹き飛んできた。それは弾き飛ばされて石畳の床にぶつかり、さらに激しい音を立てて周りを砕き、壊していく。

 それなのに、埃の舞う中のどこにもそのドアは見当たらない。それどころか、ドアを壊してまで綾人を捕らえようとしていた、あの牢名主が突撃してくる気配もない。

「ど、どこだ!?」

 綾人が慌てて周囲を窺っていると、ふと背後に人の気配がした。

——しまった。間合い……。

 音もなく現れたその気配は、気がつくともう反撃もできない位置にいた。躊躇っている間にも、後ろから羽交い締めにされて引き倒されてしまう。この状態では、反撃が難しい。一瞬、血の気が引いた。

「くそ! 離せ! ……って、アレ?」

 でも、すぐに気がついた。その腕の中にあるものは命の危機ではなく、心からの安寧だと教えてくれる、あの雅な香りがしていた。毎日綾人を抱きしめてくれていた、あの香りだ。

「た、貴人様!? 貴人様ですか?」

 白煙の中から現れたのは、牢名主ではなく、本物の貴人様だった。何も言わずに強く抱きしめているため、綾人はあの男が締め殺しに来たのだと思っていた。

「綾人……良かった。本当に、良かった」

 貴人様は、綾人を抱きしめたまま、さらにその存在を確認するようにして、何度も頬を擦り付けた。窮地に追い込まれた綾人が、逃げずに向き合ったことで辿り着いた答え。それに呼応するように、突然の解放が待っていた。

——もう大丈夫なのか?

 気がつくと緊迫していた空気は一変していた。景色の先に、処刑台があることには変わりない。それでも、今や命の危機は通り過ぎたのだと、なぜかそれが語っているようにさえ見えた。

「あの、パラレルワールド、で、正解ですか?」

 綾人は貴人様に訊ねた。すると貴人様は腕の力を緩め、綾人の顎を引いて自分の方へと顔を向ける。そして、久しぶりの、あの雅な笑顔を見せてくれた。その笑顔は、これまで綾人に見せてきたものよりも、ずっと幼くて無邪気なものだった。

「そうだな、正解だ。そして、そこまで行ったなら、もう一つ隠されていたことがわかっただろう?」

 その顔を見た綾人は、自分が緊迫した状況から完全に解放されたのだと理解した。そして、得意気にふっと笑みを浮かべると、貴人様の頬に手を添えて、答えた。

「ヤトとしての人生と、桂綾人としての人生では、生きている世界が違うんですね。ヤトの人生がAだとすると、桂綾人の人生はB。だから、Aの世界の神である貴人様の力が、俺がいるBの世界に来ると、その力が半減する……ずっと前に、瀬川ウルやさくら様がそんなことを言っていたのを、思い出しました」

 綾人は、いつの間にか寒さが和らぎ、過ごしやすくなっていた独房の石畳を撫でた。

「ここが記憶と少し違うと気がつけたのも大きかったです」

 二度目の人生で捕えられていた独房は、夢の中で見た限りではもっと砂だらけで埃っぽかった。そして今、引き戻されたと思っていた独房は、灰色の石畳だった。

 同じように、二度目の人生で捕えられていた時にいた役人は、いかにも日本の江戸時代の役人という感じで、現代人に比べるとひょろっとして青白かった。

 でも、ここでの役人は貴人様にそっくりだった。貴人様は顔は雅な優男ではあるけれど、背が高くてがっしりと筋肉質だ。そして、ここを彷徨いている牢名主たちは、みんな栄養状態が良さそうな人ばかり。江戸時代にそんな恵まれた体格の人はそうそういない。その時点で色々と疑問があった。

 それ以外のことも、よく見ると綾人が知る世界とは少しずつ違っていて、全く違うわけではない点を見ると、これが異世界というものなのだろうと思い至った。

「記憶はうっすらあるのに、俺の体の中でヤトさんの人格がしっかりとは現れない理由って、多分それですよね」

 貴人様は「ふう」とため息をついて、両手でこめかみを抑えた。辛そうに見えるのに、どこか楽しそうに笑っている。何か心を決めたように、視線を定めるとスクッと立ち上がり、大きな声で呼ばわった。

「イータ様、もうこれでよろしいですかね」

「イータ様?」

——貴人様が敬語を使ってる。

 つまりは、貴人様よりも位が上の方に対して話しかけていることになる。綾人は学校で習ったことを一生懸命思い出そうとしていた。
 
——時空を超える、異世界をも行き来できる方……イータ様……。

「も、もしかして、阿弥陀様ですか?」

 綾人が驚きの声を上げると、貴人様がそれを見て口の端を上げた。それと同時に、心の奥へと響き渡るような、不思議な声が聞こえ始めた。

『綾人。今世のお前は過去世と違って、命の危機に追い込まれても責任を転嫁せずにいた。それが出来たのは、お前がこれまでに培ってきた心の強さの賜物だ。その根底には、貴人への信心深さがあると言えよう。それに免じて、過去世における神との約束を反故にした罪を清算してやる。お前は、追い込まれても本質を見失わない強さを持った。天人になるには足りぬが、修羅は抜け出したとみなしてやろう』

「えっ!? ど、ど、どこから声が聞こえてるんですか!?」

 綾人は驚いて、狼狽えながら周囲を見渡した。さっきタカトの声が聞こえた時とは訳が違う。畏れ多い響きは、小さな人間から落ち着きを奪い、忙しなくその正体を見たい衝動に駆られた。

 しかし、どれだけ目を凝らしても、そこには誰も見当たらない。深く響いて、細胞の全てが震えるような声だけが、そこにあった。

『ヤトはお前の連れ合いとしてこちらへ、桂綾人は元の世界に戻してやろう。それが望みだったな? 貴人』

「はい。ありがとうございます」

『二人を切り離し、綾人を元の世界に送るまでは私がやる。あとは任せるぞ』

 声がそう言い終わると、ふうっと暖かい風が吹き抜けていった。

「あ」

 全く目には見えないけれど、今誰かが目の前を通っていかれたのだと、綾人はそれを肌で感じることができた。

「あ、ありがとうございます!」

 綾人は目に見えない存在の寛大な処置に対して、頭での理解は追い付いてはいないものの、反射的な行動としての感謝を述べた。

『新しい生を楽しめ』

 そう言い残して、その気配は消えていった。

「綾人」

 貴人様は、改めて綾人を抱きしめると、深い口付けを交わしてきた。とても深く、ゆっくりとした、甘い口付けだった。

——あ。これ、最後なんだ。

 その口が何も言わなくても、これが別れのキスだということが伝わるような、それを惜しんでくれていることが強く伝わるようなキスだった。長く優しい口付けから綾人の胸の中へと、じわじわと物悲しさが流れ込んでくる。自然と頬を涙が伝っていった。

「お前の魂が重い罪を背負ったのも、他の者の罪もみんな、私がしっかりしていれば起きなかったことだった。だから、私とイータ様でお前たちに最後のチャンスを与えることにしたんだ。条件は、サポートはしても助けないこと。だから、俺のいる世界ではなく、もう一つの世界へとお前は飛ばされた。そうすることで、俺の力は半減する。大変な思いをしただろうに、お前は最後まで心根を腐らせず、それを最後までやり抜いた。これで悪鬼としての過去は消える。もうこれからは、ただの桂綾人として生きていいんだ」

 そういうと、強く綾人を抱き竦めた。そして、「本当によくやった」と震える声で言った。

「今からヤトをお前から切り離す。ヤトが離れたら、そのままお前は向こうに戻る」

 貴人様は、微笑みながら静かに涙を流していた。今まで見てきた中で、一番幸せそうな泣き顔だった。全てが良い方へと解決していく、そのことを心から喜んでいる、とても人間らしい表情をしていた。

 その顔のまま、すっと綾人の頭頂部に手のひらを当てた。

——もしかして、菜摘ちゃんの頭から翔子さんが出てきた時のやつ?

 怯えるように身を硬くしていると、貴人様は、「心配ない」と囁いた。そして、もう一度だけ軽く唇を合わせた。

「綾人、ヤトの罪を清算してくれてありがとう。タカトたちと幸せに暮らせよ。……いずれこちらで会うことになる。その時まで、さようならだ」

 そう言って、雅な微笑みを浮かべながら、その手をすうっと振り上げた。

 その動きに合わせて、綾人の体からヤトが抜けていく。その半透明の物体はだんだんと人の様相を呈していった。それは、綾人の夢に出てきたのと同じ、鶯色の着物を着たヤトへと変わる。

『旦那様』

 完全に人の形へとなったのちに、ヤトは貴人様へと抱きついた。それを貴人様はふわりと優しく受け止める。

「……待たせたな、ヤト」

 その言葉を聞いて、ヤトはくすりと笑った。

『いえ、ずっとお側にいましたから』

 そう答えると、嬉しそうに貴人様の胸に頬を埋めた。

 これで二人は、数百年の時を超えて、ようやく抱き合えるようになった。綾人は、ヤトを抱きしめてたまらずに泣き出した貴人様の顔を見て、胸が潰れそうな思いがした。

——俺、この光景を見ることが出来て良かった。本当に、よかった。

 そして、二人がこちらへ振り向いた時を見計らって、手を振った。

「貴人様、ヤトさん、またいつか!」

 貴人様とヤトは揃って穏やかに微笑むと、そのまま手を繋いで空高く昇って行った。綾人は二人の幸せそうな姿を見送って、不思議な充足感を得ていた。

「俺もタカトに会いたい」

 自然とその言葉が口から零れた。
 
 しばらく、そのまま上を見ていた。すると、二人の姿と入れ違いに、空からふわふわと花びらが降ってくるのが見えた。地面に落ちたそれを見てみると、それは桜の花びらだった。

「……さくら様は元気かなあ」

 そう呟きながら、何となく懐かしくなって、その花びらを拾っていった。花びらは、全部で五枚あった。それを手のひらに広げて、桜を模った。
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