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高見沢東吾の場合
9、好きと言う言葉では足りない
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「うっそぉ、帰っちゃったよ。あ~あ、声を掛けようと思ったのになあ」
「……追いかけて行ったのかしらね」
ぽそっと香苗が呟いた。
「え、じゃあ追いかけないと! 私行ってきますね」
そう言うといそいそと立ち上がろうとした優香をがしっと麗奈は捕まえた。
「払ってから行け」
「そんなぁ、行っちゃうじゃないですか」
「ごめん麗奈、後で払うね」
すっと美咲はパンプスを履くと麗奈に声を掛ける。
「いいよ、奢りだって言ったでしょ」
「ありがとう」
美咲は、急ぎ足でアシュリンを追いかけた。
「アシュリンさん、送りますよ」
追いかけてきた颯田を驚いた顔で見た。
「いえ、すぐそこでタクシーを拾いますから大丈夫です」
「心配ですから、リスクのある妊婦さんをほっとけませんよ」
にこりと笑いながら、強引にアシュリンの手を取る。その行動にアシュリンは鼻白んだ。
「手を放してください」
「転んだりしたら大変ですよ。妊婦さんがヒールのある靴を履くのは止めたほうがいい」
颯田の言うことも正論なので、アシュリンは黙り込んだ。
ついいつもの癖で、東吾が用意した服と靴を身につけてきた。
最近、東吾は一人暮らしのアシュリンの家にほぼ入り浸っている。
少しずつ、自分の荷物を運びこんでいて、そのうち一部屋東吾の為に空けないとと思っていた。
東吾が休みの日は一日中寝室で過ごすような状態だ。
アシュリンのスケジュールは完全に把握されているので、授業が有る時は解放してくれるが、そうでない時はベッドから出してもらえない。
「一人で帰れます。手を放してください」
キッと見上げる。
こんなことを東吾に知られたら、颯田も無事では済まないだろう。
他の異性とのちょっとした接触すら、東吾は嫌がるのだから。
颯田は軽薄な笑みを消して、すっと真顔になる。
「そんなに東吾さんのことが好きですか?」
「好き? そんな言葉では足りないな、愛しているんだ。たぶん、ずっと昔から」
初めて会ったのはエルギン。
第一印象は傲慢な男だと思った。ただ、それだけの人間で記憶の片隅に追いやった。
執拗な暴言も辛かったがその場限りの痛みだ。
自分はその手のことになれていた。痛みはすぐ忘れることが出来た、それを言った人間と共に。
その次は、意外と知識が豊富だと思った。
少し興味があったので、聞くと存外親切に教えてくれた。
月日を重ねるごとに有用な助言をくれる上官から有能な部下に、そして股肱の臣下へと変化していった。
それで終わると思っていた。
時々、熱を帯びた視線を向けてくることがあったが自分が視線を向けると必ず視線を逸らした。
あの事件でその胸の内を知ることになった。
戸惑いが大半だった。
同じ性を持つ相手に応えることは出来ない。
ただほんの少し暖かい気持ちになった。
妻たちに拒否され、酷い記憶に苛まれ、崩壊しそうになる心を支えたのは彼があの夜に語った自分への思いだった。
だから、縋ってしまった。
彼も自分には本当は知られたくはなかっただろうが、それでもその時はそうすることしかできなかった。
男である自分が、同性である彼を心底受け入れられるとは思わなかった。
卑怯だと思ったが、それでも彼の愛情が必要だった。
彼は包み込むように愛してくれた。
だけど、愛の言葉は決して言ってくれなかった。
有能な臣下であった彼とただ愛情に溺れることは立場が許さないことを知っていた。
彼の拒絶は当然なのに、酷く辛かった。
妻たちに拒絶されたことの比ではなかった。
だから、その気持ちを心の底に沈めた。
そして、誰も心の内に入れることは出来なくなってしまった。
愛していた妻たちも大切な家族でさえも。
表面上は穏やかな生活だった。
妻たちを抱くこともあった。だが、愛することはもう無理だった。
リンカが子を身籠った時、何気なく御前会議の場で話をした。
皆喜んでくれた。彼を除いて。
肩を震わせ、俯いたまま顔を上げない彼に仄暗い喜びを感じた。
その日、帰宅した自分の顔を見てリンカもアナイリンも泣いていた。
それでも、貴方が誰を愛していても、自分たちの愛情は変わらないと言われた。
多分、その時からだろう。
心が壊れて行ったのは。
それは体調にも表れていた。
徐々に幻臭が酷くなり、眠れなくなるのに時間はかからなかった。
飲めない酒に手をつけるようになり、酒量が増えていった。
泣いて止める妻たちを悲しげに見つめるしかなかった。
軍総司令官だった矜持と主君への忠誠心だけが晩年の自分を支えていた。
大量に吐血した時、もう長くないことを悟った。
彼を呼ぶように密かに彼の息子に頼んだ。
自分を慕っていた義理の息子が飛び出していくのを祈るような気持で見ていた。
どうか、最後に彼に会えることを。
必死に馬を飛ばしてきたのであろう彼に唯々嬉しかった。
だが、それでも彼は言ってくれなかった。
もう自分が助からないことは彼にも分かりきっていただろうに彼の口から飛び出した言葉は励ましだった。
乾いた笑いしか出なかった。
どうにもならない悲哀で心が闇に染まっていった。
同時にゆっくりと視界も暗くなっていった。
愛してくれた妻たちをこれ以上ないくらい傷つけてまで聞きたかった言葉を彼は言ってくれなかった。
自分が呟いた言葉に彼がどう反応したのか、見ることは出来なかった。
次に生まれ変わったら、彼の傍にいられるような者になりたい。
そう願いながら、覚めることのない眠りについた。
その次の生も、結局は彼の傍にいられなかった。
もし、彼が愛の言葉を言ってくれたら、自分は彼を選んでいただろう。
やはり言ってくれぬ彼に不信感が募った。
傍らに置きたいと言われても、物のようで嫌だった。
だから、愛していると素直に言ってくれた男の元に行った。
彼のことは忘れようと思った。レーネルと穏やかに過ごせたらと願った。
それなのに彼はまた現れた。
隠れているつもりなのだろうが、すぐにわかった。
どういうつもりなのだろう。もう放っておいて欲しかった。
だから、確信が持てない妊娠を口にした。
現れた彼は見る影もないほどやつれていた。
貴族的な美丈夫だった彼のやつれた姿に心が痛んだが、単なる執着だと思った。
彼の能力があれば、いくらでも人生をやり直すことが出来る。
だから言ったのだ、幸せになってと。
その時始めて言われたのだ、愛していると。
なんでもっと早く言ってくれないのか!
子が出来る前だったら、レーネルと結婚する前だったら、あの薔薇に囲まれた四阿で言ってくれたら!
何故今頃になって心を掻き乱すようなことを言ってくるのか!
泣き叫んだ自分を悲しげに狂おしそうに見る彼に別れを告げて立ち去った。
「だったらなぜ泣いているんですか!」
颯田の強い言葉に動揺した。頬に手をやると涙が流れていた。
「これは……」
「……アシュリン」
愛おしげに呼ばれ、茫然と颯田の顔を見上げた。
端正な顔だ。奥二重の切れ長の瞳は涼しげで細い鼻梁も薄い唇も形が良い。
少し茶色がかった髪は今時の若者らしい無造作に整えられているのも似あっている。
長身だが肩幅もあり何かスポーツをやっているのだろう筋肉質な体つきだ。
アシュリンの腕をとった手は決して武器を取る手ではない、それなのに……。
「レーネ…」
「アシュリンさん!」
後ろから呼びかけられて、びくりと振り向く。
「良かった、送って行きますよ! では、失礼します」
美咲がするっと颯田の掴んだアシュリンの手を取ると颯田に一礼してさっさと歩き去っていく。
「……追いかけて行ったのかしらね」
ぽそっと香苗が呟いた。
「え、じゃあ追いかけないと! 私行ってきますね」
そう言うといそいそと立ち上がろうとした優香をがしっと麗奈は捕まえた。
「払ってから行け」
「そんなぁ、行っちゃうじゃないですか」
「ごめん麗奈、後で払うね」
すっと美咲はパンプスを履くと麗奈に声を掛ける。
「いいよ、奢りだって言ったでしょ」
「ありがとう」
美咲は、急ぎ足でアシュリンを追いかけた。
「アシュリンさん、送りますよ」
追いかけてきた颯田を驚いた顔で見た。
「いえ、すぐそこでタクシーを拾いますから大丈夫です」
「心配ですから、リスクのある妊婦さんをほっとけませんよ」
にこりと笑いながら、強引にアシュリンの手を取る。その行動にアシュリンは鼻白んだ。
「手を放してください」
「転んだりしたら大変ですよ。妊婦さんがヒールのある靴を履くのは止めたほうがいい」
颯田の言うことも正論なので、アシュリンは黙り込んだ。
ついいつもの癖で、東吾が用意した服と靴を身につけてきた。
最近、東吾は一人暮らしのアシュリンの家にほぼ入り浸っている。
少しずつ、自分の荷物を運びこんでいて、そのうち一部屋東吾の為に空けないとと思っていた。
東吾が休みの日は一日中寝室で過ごすような状態だ。
アシュリンのスケジュールは完全に把握されているので、授業が有る時は解放してくれるが、そうでない時はベッドから出してもらえない。
「一人で帰れます。手を放してください」
キッと見上げる。
こんなことを東吾に知られたら、颯田も無事では済まないだろう。
他の異性とのちょっとした接触すら、東吾は嫌がるのだから。
颯田は軽薄な笑みを消して、すっと真顔になる。
「そんなに東吾さんのことが好きですか?」
「好き? そんな言葉では足りないな、愛しているんだ。たぶん、ずっと昔から」
初めて会ったのはエルギン。
第一印象は傲慢な男だと思った。ただ、それだけの人間で記憶の片隅に追いやった。
執拗な暴言も辛かったがその場限りの痛みだ。
自分はその手のことになれていた。痛みはすぐ忘れることが出来た、それを言った人間と共に。
その次は、意外と知識が豊富だと思った。
少し興味があったので、聞くと存外親切に教えてくれた。
月日を重ねるごとに有用な助言をくれる上官から有能な部下に、そして股肱の臣下へと変化していった。
それで終わると思っていた。
時々、熱を帯びた視線を向けてくることがあったが自分が視線を向けると必ず視線を逸らした。
あの事件でその胸の内を知ることになった。
戸惑いが大半だった。
同じ性を持つ相手に応えることは出来ない。
ただほんの少し暖かい気持ちになった。
妻たちに拒否され、酷い記憶に苛まれ、崩壊しそうになる心を支えたのは彼があの夜に語った自分への思いだった。
だから、縋ってしまった。
彼も自分には本当は知られたくはなかっただろうが、それでもその時はそうすることしかできなかった。
男である自分が、同性である彼を心底受け入れられるとは思わなかった。
卑怯だと思ったが、それでも彼の愛情が必要だった。
彼は包み込むように愛してくれた。
だけど、愛の言葉は決して言ってくれなかった。
有能な臣下であった彼とただ愛情に溺れることは立場が許さないことを知っていた。
彼の拒絶は当然なのに、酷く辛かった。
妻たちに拒絶されたことの比ではなかった。
だから、その気持ちを心の底に沈めた。
そして、誰も心の内に入れることは出来なくなってしまった。
愛していた妻たちも大切な家族でさえも。
表面上は穏やかな生活だった。
妻たちを抱くこともあった。だが、愛することはもう無理だった。
リンカが子を身籠った時、何気なく御前会議の場で話をした。
皆喜んでくれた。彼を除いて。
肩を震わせ、俯いたまま顔を上げない彼に仄暗い喜びを感じた。
その日、帰宅した自分の顔を見てリンカもアナイリンも泣いていた。
それでも、貴方が誰を愛していても、自分たちの愛情は変わらないと言われた。
多分、その時からだろう。
心が壊れて行ったのは。
それは体調にも表れていた。
徐々に幻臭が酷くなり、眠れなくなるのに時間はかからなかった。
飲めない酒に手をつけるようになり、酒量が増えていった。
泣いて止める妻たちを悲しげに見つめるしかなかった。
軍総司令官だった矜持と主君への忠誠心だけが晩年の自分を支えていた。
大量に吐血した時、もう長くないことを悟った。
彼を呼ぶように密かに彼の息子に頼んだ。
自分を慕っていた義理の息子が飛び出していくのを祈るような気持で見ていた。
どうか、最後に彼に会えることを。
必死に馬を飛ばしてきたのであろう彼に唯々嬉しかった。
だが、それでも彼は言ってくれなかった。
もう自分が助からないことは彼にも分かりきっていただろうに彼の口から飛び出した言葉は励ましだった。
乾いた笑いしか出なかった。
どうにもならない悲哀で心が闇に染まっていった。
同時にゆっくりと視界も暗くなっていった。
愛してくれた妻たちをこれ以上ないくらい傷つけてまで聞きたかった言葉を彼は言ってくれなかった。
自分が呟いた言葉に彼がどう反応したのか、見ることは出来なかった。
次に生まれ変わったら、彼の傍にいられるような者になりたい。
そう願いながら、覚めることのない眠りについた。
その次の生も、結局は彼の傍にいられなかった。
もし、彼が愛の言葉を言ってくれたら、自分は彼を選んでいただろう。
やはり言ってくれぬ彼に不信感が募った。
傍らに置きたいと言われても、物のようで嫌だった。
だから、愛していると素直に言ってくれた男の元に行った。
彼のことは忘れようと思った。レーネルと穏やかに過ごせたらと願った。
それなのに彼はまた現れた。
隠れているつもりなのだろうが、すぐにわかった。
どういうつもりなのだろう。もう放っておいて欲しかった。
だから、確信が持てない妊娠を口にした。
現れた彼は見る影もないほどやつれていた。
貴族的な美丈夫だった彼のやつれた姿に心が痛んだが、単なる執着だと思った。
彼の能力があれば、いくらでも人生をやり直すことが出来る。
だから言ったのだ、幸せになってと。
その時始めて言われたのだ、愛していると。
なんでもっと早く言ってくれないのか!
子が出来る前だったら、レーネルと結婚する前だったら、あの薔薇に囲まれた四阿で言ってくれたら!
何故今頃になって心を掻き乱すようなことを言ってくるのか!
泣き叫んだ自分を悲しげに狂おしそうに見る彼に別れを告げて立ち去った。
「だったらなぜ泣いているんですか!」
颯田の強い言葉に動揺した。頬に手をやると涙が流れていた。
「これは……」
「……アシュリン」
愛おしげに呼ばれ、茫然と颯田の顔を見上げた。
端正な顔だ。奥二重の切れ長の瞳は涼しげで細い鼻梁も薄い唇も形が良い。
少し茶色がかった髪は今時の若者らしい無造作に整えられているのも似あっている。
長身だが肩幅もあり何かスポーツをやっているのだろう筋肉質な体つきだ。
アシュリンの腕をとった手は決して武器を取る手ではない、それなのに……。
「レーネ…」
「アシュリンさん!」
後ろから呼びかけられて、びくりと振り向く。
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