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二章

従妹の事情

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「久美って…お前の従妹のあの?」
「そう、あの久美だ。年末に家にも押しかけてきたんだ」
「ええ?わざわざあっちまで?」
「夜に手料理をふるまうと言って、母親と突撃してきた」

 誠司は奥野と久美を結婚させようとしている母親の計画を知らなかった。その反応から、久美と奥野の結婚は周囲にかなりの驚きをもたらすものだという事が伺えた。

「久美って…確か会社の先輩と不倫して会社辞めたって聞いたけど…」
「そうなのか?」
「ああ。姉貴が久美と同じ会社だったろう?だから間違いねぇよ。先月だったか、不倫が相手の嫁さんにばれたとかで離婚するしないで大騒ぎになったらしいぞ。久美も慰謝料請求されるって。さすがに会社にはいられなくなって辞めたらしいが、急で大変だったって姉貴がぼやいていたからな」

 奥野の家への突撃や無断での結婚パーティーなど、やっていることが非常識だとは思っていたが、不倫までしていたとは…花耶は奔放過ぎる久美に呆れると同時に、常識が通じなかった事に納得した。奥野も無言だったが、静かに怒りを募らせているのを感じた。まさか厄介払いのような結婚を押し付けられていたとは思わなかったのだろう。

「そういう事か…」
「なんかあった?」
「いや、今まで連絡もなかったから…変だと思ってたんだ…」
「会社は事実上首だし、田舎じゃ噂が広がるのは早いからな。お前はここを離れてずいぶん経つし、滅多に帰ってこないからバレないと思ったんだろう。結婚さえしてしまえば簡単に離婚出来ないし」
「なるほどな…」

 奥野の口調は静かだったが、明らかに怒っていた。彼が本気で怒る時は声を荒げず、静かに淡々と怒るのだ。それは伊東に対峙した時も同じだった。

「やっぱり先手を打ってよかった」
「どうする気だ?」
「じいちゃんのとこで今日、花耶と結婚するとはっきり言ってしまう。今日は他の親戚や取引先も来るからな」
「あ~それがいいだろうな。お前んとこのじいちゃんもばあちゃんも顔広いし」
「お前も知っている奴に会ったらそう言っといてくれ」
「りょーかい。あ、それなら今日の晩来るか?久々にみんなで集まるんだ」
「晩?誰が来るんだ?」
「え~っと、今日は中学のがメインだな。そこで婚約者だって紹介すれば?」
「中学の…」

 誠司の提案に奥野が考え込んでしまい、花耶はどうなるのかと心配になった。これから祖父母の家に行くだけでも気が重いのに、奥野の友達の集まりと聞いてちょっと腰が引けたからだ。誠司とのやり取りを見ていると、随分遠慮のない間柄なのだろう。そんな時の奥野の様子は見てみたいが、知らない人の中に入って婚約者として紹介されるのも気が重かった。

「花耶…」

 奥野に声をかけられた花耶が奥野を見上げると、彼はまたしても申し訳なさそうな表情を花耶に向けていた。その表情から、奥野が行きたがっている事、でも花耶の負担を考えて躊躇している事を花耶は感じ取った。勝手な事はしないと言う約束もあって、奥野は花耶の同意がなければ行く気がないのは明白だった。

「いいですよ」

 花耶が笑みを浮かべてそう答えると、奥野は表情に少しだけ笑みを加えながら、すまない…と告げた。花耶が人見知りする事も、昨日から今回の訪問に緊張している事もわかってくれているのだ。その心遣いが嬉しく、また花耶としても事情を知ってしまえば益々奥野を久美に渡す事など出来そうもなく、行かない選択肢はなかった。そんな二人の様子を、誠司は呆れと驚きの目で見ているのが視界の端に見えたが、彼は何も言わなかった。

「じゃ、夜にまた来る」
「わかった。俺としてもお前が久美と結婚なんて勘弁して欲しいからな」
「俺もだ。本当に…救いようがないな…」

 奥野は自嘲気味にそう言ったが、そこには呆れや嫌悪感が多大に含まれていた。いくら親戚とは言え、不倫して居場所がなくなった相手と結婚させようとは…花耶は母親にも久美にもこれまで感じた事のない嫌悪感を覚えたが、身内の奥野はそれ以上だったかもしれない。

 それから程なくして夜に来る約束をした二人は、店を辞して奥野の祖父母の家に向かった。奥野の話では、ここからは車で五分ほどの距離だと言う。いよいよ祖父母や親戚との対面が近づき、花耶の緊張が自ずと増していくのを感じながら、花耶は車窓からの街並みを眺めた。



「着いたよ、花耶」
「ええ?」

 奥野から父親の実家だと示された家を目にした花耶は、思いがけず声を上げてしまった。何故ならその家は非常に立派で、花耶が想像していたものと大きくかけ離れていたからだった。立派な門構えや綺麗に整えられた庭があり、車が何台も停められる駐車スペースには既に数台の車が止まっていた。一般的なサラリーマンの家を思い描いていた花耶は、その大きさと規模に戸惑いを隠せなかった。

「課長のご実家って…もしかして…お金持ち…なんですか?」
「ん?そんな事はないぞ。まぁ、親父の実家は商売をしているからそれなりに見栄えよくはしているけど」
「それなりって…」

 それなりなレベルじゃないだろう…これだけ広い敷地と大きな家だ。花耶の想定を超えたそれに、身一つしかない自分が酷く釣り合わない気がして、花耶はこれまでの決意が揺らぐのを感じた。何とか奥野の結婚を阻止しようと来たのはいいが、差があり過ぎて周りは久美との結婚を勧めそうな気がするし、自分とだなんて反対されそうな気がする。いや、反対される未来しか想像できない…

「花耶は心配性だな。でも大丈夫だ。見栄えがいいと言っても、田舎だから土地も安いし、家だって伝があるから相場よりも安くして貰えている。それに、じいちゃんもばあちゃんも派手なのが好きじゃないから、見た目ほど金はかかってないんだ」
「でも…」

確かに田舎なら土地は安いだろうし、伝があれば安くしてもらえるかもしれないが、それも相手にそうさせるだけのコネや人脈がなければ無理だろうに…奥野が安心させるように言った言葉だったが、それは花耶の不安をほぐす役目は果たせていなかった。

「それよりも、花耶…」
「はい?何です?」

 奥野が急に改まった口調になったため、花耶も居住まいを正して奥野に向き合った。

「ここにきて課長はないだろう?」
「は…?」

 思いがけない言葉に、花耶は一瞬、何を言われているのかわからなかった。正式に付き合うようになってからは名前呼びをしていたが、どうしても課長と呼ぶ期間が長くてすっかり板についてしまっているため、咄嗟の時にはどうしても出てしまうのだ。もしかして今もそう呼んでしまったのだろうか…

「えっと…と、透夜…さん?」
「正解」

 無言の圧を感じて改めて呼び直したが、それがかえって恥ずかしさを倍増させた。最初は二人きりの時は名前で呼ばないとお仕置きが待っていて、事実上強制だった。その後、一旦役職か苗字呼びに戻り、正式に付き合うようになって名前呼びが復活したのだが、まだ呼び慣れない上にまだ恥ずかしさが残っていてどうしても意識してしまうのだ。恋愛初心者の花耶にとっては、未だにこんな事すらもハードルが高いのだが、奥野はそれを分かっている上で名前で呼ばれる事を喜んでいた。

「今度課長って呼んだら…ペナルティを科そうか?」
「へ?」

 突然出てきた物騒な言葉に、花耶は何だか嫌な予感がした。

「そうでもしないと、花耶は中々名前で呼んでくれないだろう?俺としては、呼び捨てにして欲しいんだが…」
「さ、さすがにそれは無理です」

 いくら恋人同士が対等な関係とわかっていても、さすがに九も年が上では、呼び捨てなど花耶の中ではとんでもない事だった。名前で呼ぶことだって未だに一瞬とは言え戸惑いながら呼んでいるのに…

「残念…そっちは慣れてくれてからにするか。今は照れながら名前呼んでくれる花耶が可愛いし、それで我慢しよう」
「な…」
「でも、会社以外では課長は禁止な。今度やったらお仕置きにしよう」
「っ…」

 それは楽しそうにお仕置きと言われて、花耶はその意味に顔に熱が集まるのを感じた。そう、奥野の言うお仕置きとは、いわゆる性的な意味合いをもつものなのだ。これまでに何度かお仕置きをされたが、どれも思い出すだけでも恥ずかしくて悶絶する類のものだった。確かにあれはお仕置きと言っていいだろう。奥野にとってはお楽しみでしかないが…

「ま、それはまた今度という事にして…さぁ、行こうか」

 そう言われて花耶は、今の自分が置かれている状況を思い出した。恥ずかしくて淫らなお仕置きに気を取られてしまったが、確かに今はそれどころではない。顔が赤くなっていそうで、こんな時に変な事を言わないで欲しいのに…と花耶は隣で意気揚々としている男の横顔を恨みがましく睨んだが、相手はそれに気付くと益々気をよくしたらしい。

「帰ったらちゃんとお仕置きしてやるから」
「な…!」

 耳元で艶を含んだ声色でそう囁かれて、花耶は益々顔に熱が集まるのを感じた。こんな時に何て事を言ってくれるのだ。その言い方では自分がお仕置きを望んでいるみたいではないか…とっさに遠慮しておきます!と口を尖らせたが、花耶の初心な反応は奥野を喜ばせただけだった。

「可愛いなぁ、花耶は。その調子で頼むな」

 そう言われた花耶は、もしかして奥野が緊張している花耶の気をほぐす為にこんな事を言ったのだろうかとも思ったが、それだけではないなとその考えを改めた。半分…いや、7割くらいはお仕置きの事が言いたかったのだろう。奥野の事だ、そっちの方でも抜かりがないのはこれまでの経験でわかっていただけに、花耶は複雑な気分で差し出された奥野の手に自分の手を重ねた。それでも、奥野への憤りから先ほどまでの緊張や劣等感は薄れていた。こういうところが奥野は本当に巧いのだ。
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