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魔女、騎士に出会う
招かれざる騎士
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じり、と肌が焼ける感覚に目が覚めた。妙に頭がすっきりとしている。起き上がり、蔦の隙間から窓の外を見る。眩しい光と真っ青な空。いつも見る朝焼けの空とは違う、曇りなき青だ。
私はベッドから抜け出し、台所で手と顔を洗う。濡れた肌を布で拭った。硬い布地に額を押し当て、息を長く吐く。
「……寝坊だわ」
薬草を摘むのに適した時刻は早朝だ。私の家は、様々な匂いを打ち消してくれる薬草で満たされている。嫌な顔をする人もいるが、私の趣味は薬草を生活に取り入れることだ。それで毎朝、太陽と共に起き、森に薬草を摘みに行くことにしている。
最近は、朝から森に行くべき理由がもうひとつある。黒衣の騎士、エルートだ。魔獣を倒して人々を守る彼は、近頃私の鼻を頼りに魔獣を探している。
エルートと会うのはいつも同じ時間だ。いつも同じ、例の白い花が群生する広場。摘みたい薬草がなくても、時間になると顔を出すようにしていた。求められるときには、そこにいたいと思うから。
しかし、今日は間に合いそうにない。昨夜は夕暮れにルカルデが依頼に来て、彼の探し物を見つけた後、食事をして帰ってきた。エマに勧められるがままにお酒も飲んでしまったら、夜、なかなか寝付けなかったのだ。そのせいで寝過ごしてしまった。
まあ、大丈夫だろう。広場に顔を出して続けはいたが、鳥の魔獣を討伐してから今日まで、エルートには会っていない。
ん頭はすっきりしているが、寝過ぎたのか体がだるい。
台所に立ち、バゲットを4枚薄切りにする。干し肉に合わせる薬草は酸味が強く、さっぱりしたものを選んだ。もう1組のパンには、森で採った身を煮詰めたジャムを塗る。甘い酸味が、寝ぼけた体を起こしてくれるだろう。
パンを載せた皿を手に、店へ続く扉を開ける。
「おはよう、ニーナ」
閉めた。
輝く金糸の髪と焦げ茶の瞳を持った、黒衣の騎士が見えた気がした。幻覚だろうか。
扉に手をかけたまま、匂いに意識を向ける。私はまだ寝ぼけていたらしい。なぜ気付かなかったのかわからないくらい、強い花の匂いがした。
この匂いが誰のものかはわかる。けれど、そんなはずはなかった。
ギィ、と音がして、体が前に傾ぐ。扉がいきなり引かれ、私はそのまま重心を崩した。手のひらから、パンを載せた皿が滑り落ちる。
「おっと」
その皿を、向かいから伸びてきた手がさっと支えた。
「危なかった」
「……エルートさん」
寝起きのせいで、私の声は低く掠れている。
エルートは、傾いた私の肩を軽く押して正しい位置に戻してくれる。見上げるとそこにいるのは、やはり整った歯を見せて笑う美丈夫。フードを被らないその頭は、日の光によく似た金髪だ。
「正解」
軽い調子で言いながら、エルートはカウンターに皿を置く。そして、向かいの丸太に腰掛けた。
「え? どうして?」
ありえない光景に頭が混乱する。エルートは組んだ両手に顎を載せ、ふっ、と口元を緩めた。
「今日は顔を隠さなくていいの? 素顔もいいね」
すぐに食事をするつもりでいたから、ベールはまだ付けていない。あのベールは、外に出る時、混ざり合った香りから自分を守るためのものだ。いや、そんなことは問題ではない。素顔を褒めて、何のご機嫌取りだ。口先だけの褒め言葉より先に、彼に確認すべきことがある。
「それよりも……」
「可愛い顔してるんだから、ずっとそのままで居ればいいのに」
一瞬頬が緩みかけ、私は顔を引き締めた。
この端正な顔から放たれる甘い台詞は、破壊力抜群だ。こんな風に褒められたら、良い気になって全てを許してしまいそうだ。それが彼の狙いに違いない。流されてはいけない。こんなふざけた台詞を聞く前に、聞くべきことがある。
この状況は、どう考えたっておかしい。家主である私の許可を得ていないし、そもそも鍵はかけたはずだ。なぜ店の中に彼がいるのか、それがさっぱりわからない。
「どうしてここにいらっしゃるんですか?」
改めて問うと、エルートの口角が片側だけ上がる。組んだ手を解き、人差し指を立てた。
「町の人に聞いた。ニーナと言っても通じなかったけど、やたらと勘の良い女性を知りませんかと聞いたらすぐ教えてくれたよ。『魔女』って呼ばれているんだな、君は」
手品の種明かしをするような、自慢げな仕草である。
「鍵はどうやって開けたんですか」
「俺がこの格好で店のそばにいたら目立つから、君に迷惑をかけると思って入らせてもらった。というか、ここの鍵、型が古すぎる。外から簡単に開けられるから、替えた方が良い」
エルートは、ポケットから平たい金属片を出してカウンターに置いた。この他愛ない金属片で鍵を外から開けたというのか。恐ろしい人だ。
私は、ネックレスの石をそっと手のひらで覆う。石が震えていてくれた方が良かったかもしれない。悪意もないのに、外から鍵を開けて入ってくるなんて。
確かに店の外で黒衣の騎士にずっと待たれても困るが、無断で入ってこられても困る。思わず、彼に向ける視線が厳しくなった。
「これは、君のせいでもある。今朝は、あの広場にいなかっただろう?」
僅かに身を乗り出したエルートは、やや上目遣いで私を見る。声の温度が急に下がり、言葉が冷たく胸に入ってくる。私の背筋がすっと伸びた。責められているのだ。彼の求めに応じられなかったことを。
彼が求めているのは、私の鼻を使って魔獣を探しだすことだ。なのに私は、今朝に限って広場にいなかった。いなかった私にも非があるのだから、彼の非も許してほしい、と。強引な理屈ではあるが、そんなところだろうか。
「それは……ごめんなさい」
求められたら、応えなさい。
母の教えを守れなかった私は、咎められても仕方がない。
「俺も悪かったよ。こうなるなら、家の場所くらい聞いておけば良かった。今朝は何かあったのか」
「単なる寝坊です。昨日は久しぶりに、夜遅かったので」
私は、胃のあたりに手のひらを置いた。気が重いからか、胃の奥にまだ昨夜の豪勢な食事が残っている気がする。
「へえ。どうして?」
「……知人と会食をしていて」
私は適当に言葉を濁す。エルートだって、そこまで詳しく知ることを求めているわけではあるまい。彼はやはり興味なさげに「へえ」と淡白な相槌を打った。
「そういうこともあるのなら、俺がニーナに会いに来たときは、どうしたらいいのかな」
蕩けるような焦茶の瞳が、本当に焦がれているように甘い光を帯びる。流されてはいけない、と心で唱える。
騎士とは、こんなに恐ろしいものなのだろうか。求めるもののためには、一般人に媚びることも辞さないなんて。私への好意なんて、これっぽっちもないはずだ。エルートの求めることは、魔獣への案内だけ。
「事前に教えていただければ……」
「そうはいかないんだ、さすがに。騎士が、事前に外部の人に休みを教えるっていうのはまずい」
言われてみれば、それもそうだ。身分の高い人の事情に対して、意見を述べることはできない。
私は腕を組んでうなった。私だって、彼の休みを事前に察知することはできない。いつもの広場に居続けるのも難しい。今は求める薬草があそこにあるが、違う場所にいることだってある。
「会いたいときは、この店に来ても良いかな。外で待つと目立つから、またこうして中にいることになるけど」
無邪気な笑顔で放たれる、わがままなおねだり。何も考えていなければ、私もその表情に多少のときめきを覚えていたかもしれない。流されてはいけない、と再度自分に言い聞かせる。
言葉通りに受け取れば甘やかな言い口の、その裏には要求が隠されている。身分違いのおねだりは、オブラートに包んだ単なる命令である。ときめくどころか緊張が走る。
正直言って、やりにくい。余計に飾らず、率直に、求める内容を伝えてくれればいいのに。要するに、広場で会えなかったら家に無断で入るが、許せということだ。
彼は騎士であり、やましい欲望など何もないのはわかっている。ならば私に、彼の要求を断る選択肢はないのだ。
「わかりました」
求められたら、応えなさい。そこに悪意がない限り、私は求めに応じる。いささかの投げやりな気持ちとともに、そう返答した。
ぐう。
「あっ」
同時に鳴ったのは、私のお腹だった。耳たぶが一気に熱くなる。カウンターの上には、まだ手をつけていないパンが置かれている。
「ああ、ごめん。食べなよ、気にしないから」
その気遣いで、腹の虫の存在がエルートにも伝わっていたとわかる。ますます耳が熱くなった。
来客の目の前でひとりだけ食事をするのは、気が引ける。私はマッチをすり、水を火にかける。カウンターを見回した。端にひっくり返っているカップは、ルカルデ用のもの。あれとは別で、どこかに来客用のカップがあったはずだ。
「何を探しているの? 魔女は探し物を何でも見つけると、町の人が言っていたけど」
「自分の探し物はわからないんです」
「それは不便だなあ」
自分の匂いは、自分ではわからない。だから、人の探し物は必ず見つけられるのに、自分の探し物は見つけられない。便利な鼻は、自分の役にはあまり立たない。
「……あ、あった」
探し回った末に、カウンターの下の棚から来客用のカップを見つけ出す。布でそれを拭ってから、私とエルート、2人分の薬草茶を注いだ。
カップから、薬草の爽やかな香りをまとった湯気が上がる。エルートの放つ濃厚な花の匂いと、薬草茶の温かで華やかな香りが混ざる。ふんわりと、優しい香りが辺りに漂った。
「お口に合うかわかりませんが」
「ありがとう。珍しい色だね」
今日淹れた薬草茶には、花の蕾が入っている。花の色味が湯に溶けて、桃色に近い黄緑色をしている。
エルートはカップを揺らしながら、薬草茶の水面を確かめる。カップに唇を寄せた。薄い唇に、熱い薬草茶が吸い込まれる。唇を離すと目を閉じ、味わっている様子だ。金色の睫毛が長い。ごくん。喉が鳴った。
「……うん、おいしい。初めて飲んだ味だ」
「ありがとうございます」
薬草茶は、好き嫌いが分かれる。上々な評価を得て、私は肩を緩めた。
そうこうしているうちに生の薬草から水分が移って、パンはしっとりとふやけてしまった。両手で持ち、湿ったパンと中の具材を一緒に食べる。パンのほんのりした甘みと、薬草の酸味。薬草茶の淡い香りが相まって、さっぱりとした食べ心地になっている。
「それは?」
私が食べているパンにエルートが興味を示す。私は、挟み込んだ具材の側面を彼に向かって見せた。
緑、くすんだピンク、緑。薬草と干し肉を、交互に挟んでいる。
「薄切りのバゲットに、干し肉と薬草を挟んで食べているんです」
「薬草を……? ああ、このお茶も薬草なのか。変わってるね、食用にするなんて」
「そうでしょうか」
薬草を食べることは、この辺りでは一般的ではないようだ。母はよく、生の薬草や乾燥させたものを料理に取り入れていたのだけれど。
「いいなあ。美味しそうだ」
「粗食ですよ」
「その粗食がいいんだよ。知らないと思うけど、騎士団の食事は肉ばっかりなんだ。体を作るには肉が1番、ってね。俺は、たまには草を食べたい」
「そうですか」
何気なく騎士団での生活を垣間見せられると、この人は騎士なのだ、と改めて思う。確かに騎士なのだ。上質な黒の上着も厚手の黒のフード付きマントも、よく似合っている。
ただ、その回りくどい言動が、私のイメージする騎士と合わない。
「……何? そんなに見て」
必要以上に観察してしまっていたらしい。目を細めて作る笑顔は、やはり作り物のように綺麗だ。
「いえ……今度いらしたときに、お作りしますね。これはもう湿気ているので」
食事を終え、カップと皿を台所の流しに置く。洗うのは後で良い。客が優先だ。
「さあ、行こうか」
エルートの言葉に促され、私は顔の下半分にベールをつける。
「お待たせしました」
「待ちくたびれたよ。早く行こう、ニーナ」
エスコートするように、紳士的な仕草で手が差し伸べられる。誘うような言葉も、ご機嫌取りのひとつだ。
顔を合わせた瞬間から、彼の放つ花の匂いはずっと森へ向かって流れている。森の中の魔獣へ向かって。
彼が求めているのは、魔獣を倒すことだけだ。初めて会った時から、ずっと。私に魔獣を見つけさせるために、こうして機嫌を取ろうとしてくれている。
この手に乗ってはいけない。流されてはいけない。そう自分に言い聞かせないと、変に浮かれてしまいそうだ。
「取り繕わなくていいですよ。魔獣は怖いですが、あなたが望むのなら、協力しますから」
自分のためにも、そう伝えた。ご機嫌取りはいらない。思っていたことを口にすると、胸を渦巻いていたもやもやが少し晴れる。私は、差し出された彼の手を取らずに、店の外へ向かった。
私はベッドから抜け出し、台所で手と顔を洗う。濡れた肌を布で拭った。硬い布地に額を押し当て、息を長く吐く。
「……寝坊だわ」
薬草を摘むのに適した時刻は早朝だ。私の家は、様々な匂いを打ち消してくれる薬草で満たされている。嫌な顔をする人もいるが、私の趣味は薬草を生活に取り入れることだ。それで毎朝、太陽と共に起き、森に薬草を摘みに行くことにしている。
最近は、朝から森に行くべき理由がもうひとつある。黒衣の騎士、エルートだ。魔獣を倒して人々を守る彼は、近頃私の鼻を頼りに魔獣を探している。
エルートと会うのはいつも同じ時間だ。いつも同じ、例の白い花が群生する広場。摘みたい薬草がなくても、時間になると顔を出すようにしていた。求められるときには、そこにいたいと思うから。
しかし、今日は間に合いそうにない。昨夜は夕暮れにルカルデが依頼に来て、彼の探し物を見つけた後、食事をして帰ってきた。エマに勧められるがままにお酒も飲んでしまったら、夜、なかなか寝付けなかったのだ。そのせいで寝過ごしてしまった。
まあ、大丈夫だろう。広場に顔を出して続けはいたが、鳥の魔獣を討伐してから今日まで、エルートには会っていない。
ん頭はすっきりしているが、寝過ぎたのか体がだるい。
台所に立ち、バゲットを4枚薄切りにする。干し肉に合わせる薬草は酸味が強く、さっぱりしたものを選んだ。もう1組のパンには、森で採った身を煮詰めたジャムを塗る。甘い酸味が、寝ぼけた体を起こしてくれるだろう。
パンを載せた皿を手に、店へ続く扉を開ける。
「おはよう、ニーナ」
閉めた。
輝く金糸の髪と焦げ茶の瞳を持った、黒衣の騎士が見えた気がした。幻覚だろうか。
扉に手をかけたまま、匂いに意識を向ける。私はまだ寝ぼけていたらしい。なぜ気付かなかったのかわからないくらい、強い花の匂いがした。
この匂いが誰のものかはわかる。けれど、そんなはずはなかった。
ギィ、と音がして、体が前に傾ぐ。扉がいきなり引かれ、私はそのまま重心を崩した。手のひらから、パンを載せた皿が滑り落ちる。
「おっと」
その皿を、向かいから伸びてきた手がさっと支えた。
「危なかった」
「……エルートさん」
寝起きのせいで、私の声は低く掠れている。
エルートは、傾いた私の肩を軽く押して正しい位置に戻してくれる。見上げるとそこにいるのは、やはり整った歯を見せて笑う美丈夫。フードを被らないその頭は、日の光によく似た金髪だ。
「正解」
軽い調子で言いながら、エルートはカウンターに皿を置く。そして、向かいの丸太に腰掛けた。
「え? どうして?」
ありえない光景に頭が混乱する。エルートは組んだ両手に顎を載せ、ふっ、と口元を緩めた。
「今日は顔を隠さなくていいの? 素顔もいいね」
すぐに食事をするつもりでいたから、ベールはまだ付けていない。あのベールは、外に出る時、混ざり合った香りから自分を守るためのものだ。いや、そんなことは問題ではない。素顔を褒めて、何のご機嫌取りだ。口先だけの褒め言葉より先に、彼に確認すべきことがある。
「それよりも……」
「可愛い顔してるんだから、ずっとそのままで居ればいいのに」
一瞬頬が緩みかけ、私は顔を引き締めた。
この端正な顔から放たれる甘い台詞は、破壊力抜群だ。こんな風に褒められたら、良い気になって全てを許してしまいそうだ。それが彼の狙いに違いない。流されてはいけない。こんなふざけた台詞を聞く前に、聞くべきことがある。
この状況は、どう考えたっておかしい。家主である私の許可を得ていないし、そもそも鍵はかけたはずだ。なぜ店の中に彼がいるのか、それがさっぱりわからない。
「どうしてここにいらっしゃるんですか?」
改めて問うと、エルートの口角が片側だけ上がる。組んだ手を解き、人差し指を立てた。
「町の人に聞いた。ニーナと言っても通じなかったけど、やたらと勘の良い女性を知りませんかと聞いたらすぐ教えてくれたよ。『魔女』って呼ばれているんだな、君は」
手品の種明かしをするような、自慢げな仕草である。
「鍵はどうやって開けたんですか」
「俺がこの格好で店のそばにいたら目立つから、君に迷惑をかけると思って入らせてもらった。というか、ここの鍵、型が古すぎる。外から簡単に開けられるから、替えた方が良い」
エルートは、ポケットから平たい金属片を出してカウンターに置いた。この他愛ない金属片で鍵を外から開けたというのか。恐ろしい人だ。
私は、ネックレスの石をそっと手のひらで覆う。石が震えていてくれた方が良かったかもしれない。悪意もないのに、外から鍵を開けて入ってくるなんて。
確かに店の外で黒衣の騎士にずっと待たれても困るが、無断で入ってこられても困る。思わず、彼に向ける視線が厳しくなった。
「これは、君のせいでもある。今朝は、あの広場にいなかっただろう?」
僅かに身を乗り出したエルートは、やや上目遣いで私を見る。声の温度が急に下がり、言葉が冷たく胸に入ってくる。私の背筋がすっと伸びた。責められているのだ。彼の求めに応じられなかったことを。
彼が求めているのは、私の鼻を使って魔獣を探しだすことだ。なのに私は、今朝に限って広場にいなかった。いなかった私にも非があるのだから、彼の非も許してほしい、と。強引な理屈ではあるが、そんなところだろうか。
「それは……ごめんなさい」
求められたら、応えなさい。
母の教えを守れなかった私は、咎められても仕方がない。
「俺も悪かったよ。こうなるなら、家の場所くらい聞いておけば良かった。今朝は何かあったのか」
「単なる寝坊です。昨日は久しぶりに、夜遅かったので」
私は、胃のあたりに手のひらを置いた。気が重いからか、胃の奥にまだ昨夜の豪勢な食事が残っている気がする。
「へえ。どうして?」
「……知人と会食をしていて」
私は適当に言葉を濁す。エルートだって、そこまで詳しく知ることを求めているわけではあるまい。彼はやはり興味なさげに「へえ」と淡白な相槌を打った。
「そういうこともあるのなら、俺がニーナに会いに来たときは、どうしたらいいのかな」
蕩けるような焦茶の瞳が、本当に焦がれているように甘い光を帯びる。流されてはいけない、と心で唱える。
騎士とは、こんなに恐ろしいものなのだろうか。求めるもののためには、一般人に媚びることも辞さないなんて。私への好意なんて、これっぽっちもないはずだ。エルートの求めることは、魔獣への案内だけ。
「事前に教えていただければ……」
「そうはいかないんだ、さすがに。騎士が、事前に外部の人に休みを教えるっていうのはまずい」
言われてみれば、それもそうだ。身分の高い人の事情に対して、意見を述べることはできない。
私は腕を組んでうなった。私だって、彼の休みを事前に察知することはできない。いつもの広場に居続けるのも難しい。今は求める薬草があそこにあるが、違う場所にいることだってある。
「会いたいときは、この店に来ても良いかな。外で待つと目立つから、またこうして中にいることになるけど」
無邪気な笑顔で放たれる、わがままなおねだり。何も考えていなければ、私もその表情に多少のときめきを覚えていたかもしれない。流されてはいけない、と再度自分に言い聞かせる。
言葉通りに受け取れば甘やかな言い口の、その裏には要求が隠されている。身分違いのおねだりは、オブラートに包んだ単なる命令である。ときめくどころか緊張が走る。
正直言って、やりにくい。余計に飾らず、率直に、求める内容を伝えてくれればいいのに。要するに、広場で会えなかったら家に無断で入るが、許せということだ。
彼は騎士であり、やましい欲望など何もないのはわかっている。ならば私に、彼の要求を断る選択肢はないのだ。
「わかりました」
求められたら、応えなさい。そこに悪意がない限り、私は求めに応じる。いささかの投げやりな気持ちとともに、そう返答した。
ぐう。
「あっ」
同時に鳴ったのは、私のお腹だった。耳たぶが一気に熱くなる。カウンターの上には、まだ手をつけていないパンが置かれている。
「ああ、ごめん。食べなよ、気にしないから」
その気遣いで、腹の虫の存在がエルートにも伝わっていたとわかる。ますます耳が熱くなった。
来客の目の前でひとりだけ食事をするのは、気が引ける。私はマッチをすり、水を火にかける。カウンターを見回した。端にひっくり返っているカップは、ルカルデ用のもの。あれとは別で、どこかに来客用のカップがあったはずだ。
「何を探しているの? 魔女は探し物を何でも見つけると、町の人が言っていたけど」
「自分の探し物はわからないんです」
「それは不便だなあ」
自分の匂いは、自分ではわからない。だから、人の探し物は必ず見つけられるのに、自分の探し物は見つけられない。便利な鼻は、自分の役にはあまり立たない。
「……あ、あった」
探し回った末に、カウンターの下の棚から来客用のカップを見つけ出す。布でそれを拭ってから、私とエルート、2人分の薬草茶を注いだ。
カップから、薬草の爽やかな香りをまとった湯気が上がる。エルートの放つ濃厚な花の匂いと、薬草茶の温かで華やかな香りが混ざる。ふんわりと、優しい香りが辺りに漂った。
「お口に合うかわかりませんが」
「ありがとう。珍しい色だね」
今日淹れた薬草茶には、花の蕾が入っている。花の色味が湯に溶けて、桃色に近い黄緑色をしている。
エルートはカップを揺らしながら、薬草茶の水面を確かめる。カップに唇を寄せた。薄い唇に、熱い薬草茶が吸い込まれる。唇を離すと目を閉じ、味わっている様子だ。金色の睫毛が長い。ごくん。喉が鳴った。
「……うん、おいしい。初めて飲んだ味だ」
「ありがとうございます」
薬草茶は、好き嫌いが分かれる。上々な評価を得て、私は肩を緩めた。
そうこうしているうちに生の薬草から水分が移って、パンはしっとりとふやけてしまった。両手で持ち、湿ったパンと中の具材を一緒に食べる。パンのほんのりした甘みと、薬草の酸味。薬草茶の淡い香りが相まって、さっぱりとした食べ心地になっている。
「それは?」
私が食べているパンにエルートが興味を示す。私は、挟み込んだ具材の側面を彼に向かって見せた。
緑、くすんだピンク、緑。薬草と干し肉を、交互に挟んでいる。
「薄切りのバゲットに、干し肉と薬草を挟んで食べているんです」
「薬草を……? ああ、このお茶も薬草なのか。変わってるね、食用にするなんて」
「そうでしょうか」
薬草を食べることは、この辺りでは一般的ではないようだ。母はよく、生の薬草や乾燥させたものを料理に取り入れていたのだけれど。
「いいなあ。美味しそうだ」
「粗食ですよ」
「その粗食がいいんだよ。知らないと思うけど、騎士団の食事は肉ばっかりなんだ。体を作るには肉が1番、ってね。俺は、たまには草を食べたい」
「そうですか」
何気なく騎士団での生活を垣間見せられると、この人は騎士なのだ、と改めて思う。確かに騎士なのだ。上質な黒の上着も厚手の黒のフード付きマントも、よく似合っている。
ただ、その回りくどい言動が、私のイメージする騎士と合わない。
「……何? そんなに見て」
必要以上に観察してしまっていたらしい。目を細めて作る笑顔は、やはり作り物のように綺麗だ。
「いえ……今度いらしたときに、お作りしますね。これはもう湿気ているので」
食事を終え、カップと皿を台所の流しに置く。洗うのは後で良い。客が優先だ。
「さあ、行こうか」
エルートの言葉に促され、私は顔の下半分にベールをつける。
「お待たせしました」
「待ちくたびれたよ。早く行こう、ニーナ」
エスコートするように、紳士的な仕草で手が差し伸べられる。誘うような言葉も、ご機嫌取りのひとつだ。
顔を合わせた瞬間から、彼の放つ花の匂いはずっと森へ向かって流れている。森の中の魔獣へ向かって。
彼が求めているのは、魔獣を倒すことだけだ。初めて会った時から、ずっと。私に魔獣を見つけさせるために、こうして機嫌を取ろうとしてくれている。
この手に乗ってはいけない。流されてはいけない。そう自分に言い聞かせないと、変に浮かれてしまいそうだ。
「取り繕わなくていいですよ。魔獣は怖いですが、あなたが望むのなら、協力しますから」
自分のためにも、そう伝えた。ご機嫌取りはいらない。思っていたことを口にすると、胸を渦巻いていたもやもやが少し晴れる。私は、差し出された彼の手を取らずに、店の外へ向かった。
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