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騎士団は魔女を放さない
雨の中の討伐
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今思えば、思い人に袖にされたレガットが動揺していたのは、きっかけのひとつだった。
黒い馬車は街の外に止まり、私たちは順番に外へ出た。雨具に当たる雨粒が、ばらばらと激しく音を立てる。
「……酷い雨だな。足元には気をつけてくれ」
馬車から降りたエルートが、顔を顰める。慎重に地面に足を下ろすと、体重をかけた先から、濡れた地面が嫌な感じでぐじゃりと凹んだ。体勢を崩した私の腕を、エルートが掴んで支えてくれる。力強い彼の腕に、どきりと胸が躍る。真面目に取り組まなくてはならないのに、少し触れるだけで喜んでしまう。私は浮かれた気分を忘れるため、彼の手をそっと振り払った。
エルートが危険だと言った通り、雨のせいで足元が悪いこと。それも、きっかけのひとつだっただろう。
「魔獣は街中に潜んでいるというから、今日はニーナも、俺達と一緒に来るしかない。面倒な目に遭うことになるが」
「そうですよね」
エルートの忠告に、私は頷く。
今までの魔獣討伐において、私は、街には入ったことがなかった。騎士は誰もが憧れる、身近で遠い存在だ。騎士と庶民の女が一緒にいる姿を人々に見られることは、百害あって一利なし。わかっているから、街の外で待つよう求められる度に応じてきた。
報告のあった蛇の魔獣は、街中にいるという。だからこそ危険で、緊急性が高いわけだ。そして街中の魔獣を探すのであれば、私が騎士と共にいる姿を、人々に見られるのは避けられない。
「覚悟しておきます」
私の宣言に、今度はエルートが頷いた。
一般人の私と王宮騎士は、不釣り合いな取り合わせだ。まだ経験はしていないが、街の人々にどのように謗られるか、想像はつく。私だけではなく、エルート達も批判の対象になるだろう。騎士なのに女連れなんて幻滅する、とか。あんなぱっとしない女を連れていてがっかりする、とか。口さがない街の人々なら、何を言ってもおかしくない。
批判に晒されるのは嫌だし、できれば街の外で待っていたい。けれど、求められたら応じよという母の言葉に従えば、今はエルート達に付いていくべきだった。
だから私は批判を覚悟し、深呼吸をひとつしてから、街の中へ足を踏み入れた。
「ようこそ、おいでくださいました」
こんな雨なのに、出迎えは盛大な人だかりだった。雨に濡れながら、あるいは雨具を身につけて、騎士の来訪を歓迎する町の人々。集団の真ん中に立つ紳士的な装いの男性が、どうやら町長らしい。町長のすらりとした長い脚には、赤い雨具を着た幼女が両手でしがみつき、くりくりした丸い目をこちらに向けている。
邪心のかけらもない、澄んだ黒い瞳。こちらを見ているので見つめ返すと、瞬きを何度かした後で、突然大きな声を上げた。
「おんなのこでも騎士さまになれるんだ!」
ぷっくりと丸く膨らんだ頬を染め、心底嬉しそうな表情。騎士に憧れているのだろうか。髪は短く、活発そうな女児だ。
私は騎士ではないし、女は騎士にはなれない。そんなことは、私が言うまでもなく、大人なら誰でもわかること。少女の無邪気な喜びを、町長が目尻を垂れて微笑ましげに眺めているので、私は何も言わずにおいた。
現実なんて、成長すればすぐにわかる。あんなに目をきらきら輝かせているのに、今から夢を否定するのは野暮なことだ。
エルートと町長が簡単な挨拶を交わし、私たちは街中へ入り込んでいく。背中を向けたとき、人々の囁きが、風に乗って届いた。
「女は騎士になんてなれないわよね? 何かしら、あの方」
「あんな冴えない感じの女性を、お供にするなんて。ちょっと幻滅」
ほら。
手厳しい品評は、予想通りだ。覚悟をしていても、風に乗って聞こえてきた囁きが、ぐさりと耳に刺さる。
「騎士様なら、もっと素敵な方をお連れしてほしいわ」
「そうそう、お姫様が似つかわしいわね」
物語に登場する、凛とした勇ましい騎士。あるいは、紳士的で真摯な騎士。人々が憧れるのは物語の中にいる、理想の騎士である。だからこそ、エルートをはじめとする騎士たちは、自らを取り繕うのだ。騎士に憧れをもつ人々の期待に応え、温かく受け入れてもらうために。
そして騎士の隣に立つべきなのは、目を見張るほど美しいお姫様。そう相場が決まっている。私はいくら取り繕ったって、釣り合うほど素敵な女性にはなれない。
見合わないのは、わかっている。それでも、口に出して言われると、胸がちくちくと痛む。落ち込んだ気持ちのせいで、足取りが重くなる。
落ち込んでいても、何の解決にもならない。私にできることは、魔獣を見つけ出し、少しでも彼らの力になることだけだ。私が少し思い詰めていたのも、きっかけのひとつであったと思う。
どれが何のきっかけとなったのかは、事が起きてからの答え合わせに過ぎない。「ああしていれば」という後悔は、失敗の前には気づけない。
ただこの日、私達は着実に、失敗の芽を積み重ねていた。
「森の中じゃなくてもわかるの?」
「はい。集中すれば、特に困りません」
街の中は少し匂いがごちゃついているが、エルートの匂いは強い。雨の香りの中でもさほど苦労せず、私は彼の放つ花の匂いを、確かに追うことができた。
私にわかるのは、探し物のある方向だけ。分かれ道があれば、その方向に近い道を選びながら、雨の中を進む。
「……滑りやすいな」
エルートが呟いた。
街中は道が舗装されており、激しい雨によって水が膜のように張っていた。普通に歩いていれば特に困らないが、足を取られるような感覚がある。
命を大事にするエルートは、身の危険には敏感だ。私は気を引き締め、足元をよく見て歩く。
下を見ていると、道の間や家の側に生えた草が目に入る。ただの雑草もあるが、街中にも薬草は生えている。良い効果のあるものを薬草と呼び、体に害のある草は毒草と呼ばれる。他の草を駆逐し、蔓延るだけの生命力を備えた毒草が、激しい雨の中で何食わぬ風に生えている。
草なんて誰も食べないから、毒草が生えていても何ら問題ないのだろう。あれは確か、血の巡りが悪くなるから、口にするなと言われていたもの。向こうに生えているのは、お腹を下すから避けろと言われていたもの。私は雨に濡れた葉を見つめながら、母に教わった薬草の知識を思い出していた。
「ずいぶん入り組んだ住宅街に入ってきたな。襲われたのは果物屋の店員だと聞いたが」
「人家の近くに潜んでいるのなら、尚更、急ぐべきだ」
エルートの呟きに、アイネンが反応する。確かに辺りはいつの間にか、左右に店の並んだ広い通りから、家と家の間の細い道に変わっていた。人が3人並んで、いっぱいになりそうな狭さだ。森の中の道なき道よりは動きやすいかもしれないが、左右は人家なので、派手な動きはできない。
「この通りを真っ直ぐに行けば、いるはずです」
エルートの花の匂いは、道の向こうに向かって、真っ直ぐに流れている。私が報告すると、カチャ、と軽い音がした。いつでも抜けるよう、剣の柄に誰かが手をかけた音だ。
左右に家々の広がる住宅街にもかかわらず、あたりはひっそりと静まり返っていた。自分の足音や息遣いが、いやに大きく聞こえる。心臓の音まで聞こえてくる気がして、嫌でも緊張が高まる。
地面に薄く張った水の膜を踏む、ばしゃりという音。ばしゃ、ばしゃと足音が立つのは私だけで、騎士の3人はこんな雨の中でも静かに歩いていた。
胸元の青い石に、僅かに震えが走る。瞬間、エルート達の雰囲気も張り詰めたものになった。
この青い石は、魔獣の接近を知らせるもの。私だけでなく、騎士達も同じ石を持っている。石が震えるのは、魔獣が近くにいるからだ。
「ニーナ。近くに」
エルートに近寄ると、私の左右を固めるようにレガットとアイネンが寄り添った。森の中みたいに隠れるところがないから、私を守るような陣形だ。安心感を得ると同時に、申し訳ない気持ちになった。私が最低限、自らの身を守れたら、彼らの集中力をこちらに割く必要はない。
私にできるのは、魔獣の居場所を見つけることだけ。それ以外の部分では足手纏いである。だからせめて、自分に求められている役割は完遂しよう。私は、エルートの匂いに集中する。
花の匂いは、魔獣に向かって真っ直ぐに流れている。近寄ると、青い石の振動はどんどん大きくなる。びりびりとした震えが胸元を打ち、そうして、花の匂いがふっと逸れた。
「……右?」
視線を右に向けたけれど、そこには魔獣の姿はない。私の右に立つレガットは、緑の瞳でこちらを見下ろしてから、視線を住宅の方へ戻した。
進むのを止めた私たちは、それぞれに辺りを見渡す。足音の代わりに、ただ雨の音だけが周囲を包んでいる。物音ひとつしない。聞こえるのは、緊張して浅くなった自分の呼吸音だけだ。
「……どこだ」
アイネンが目を細めて呟く。彼もゆっくりと、視線を左右に揺らす。
空気だけが、息が詰まるほど張り詰めている。周囲の風景には変化がないにもかかわらず、緊張が解けないのは、青い石が絶えず振動しているからだ。
魔獣は間違いなく近くにいる。姿だけが見えない。
相手は蛇の魔獣だというから、どこか、家々の間に潜んでいるのだろう。経験のない私にもそのくらいなら想像がついて、匂いの向かう右方向に意識を向ける。
その匂いが、さっと上方に傾いだ。
「あっ」
見上げた先に黒いものが見えて、私は思わず声を上げる。
そこからの数瞬は、私には妙に長く感じられた。
「何?」
私の声に反応したレガットが、こちらに顔を向ける。
「馬鹿! 上だ!」
アイネンの声が飛び、レガットは振り向くと同時に剣を抜く。無理な剣の振り方をしたレガットは、その勢いで体勢を崩す。真っ黒な蛇は側面を弾かれ、地面に落ちて頭をもたげる。ぎらりと光る赤い瞳が、体勢を崩したレガットを見据える。長い蛇の体躯がたわむ。
「やべえ」
レガットが焦ったように呟く。私が無事でいるより、レガットが無傷な方が戦力的にまし。そんな計算が、頭の中で一瞬でなされた。同時に、体が動いていた。
次の瞬間、腕に熱が走っていた。レガットの前へ咄嗟に差し出した腕が、ちょうど飛んでくる蛇の動線上にあった。蛇の鋭い牙が、服を貫通し、私の腕に食い込んでいる。痛みにも似た、強烈な熱さ。
そして、蛇の胴体が両断された。黒い霧に視界が覆われる。回り込んだエルートが、蛇を斬り落としたのだ。しかし私は、魔獣を倒したエルートの顔をはっきりと認識することはできなかった。
どくん、と心臓が変に鼓動する。痛いほどに激しい鼓動に、私は無事な片手で胸元を押さえた。息ができない。傷口から熱が回り、全身がぼうっとする。目の前が揺らぐ。心臓が、痛い。乾いた吐息が、喉の奥から漏れる。目の奥が裏返るような感覚。
「ニーナ?」
名を呼ばれた気がしたが、それも定かではなかった。目の前が、ぼんやりと赤く翳る。その向こうに、雨に濡れた地面が見える。
「毒か!」
毒、という言葉が鈍く頭に響く。あれは毒蛇だったのか。妙にどくどくするのも、目の裏が赤いのも、毒のせいか。
死の瀬戸際に立つ私は、不自然に引き延ばされた時間の中にいた。苦しいのに、妙に冷静な思考が瞬時に巡る。
真っ赤な視界の端に、特徴的な葉が見えた。あの葉は覚えている。この独特な香りも。血の巡りが悪くなるから、決して採るなと言われていた毒草だ。肉厚で、紫色の葉が、降り頻る雨の中で揺れている。
私の指先は、葉に触れていた。手の届く近さらしいが、変に遠く感じられる。雨に濡れているはずなのに、指先がいやに熱い。痛いほどの熱さと同時に、毒は全身に広がろうとしている。
毒草を食べれば、血の巡りが治まるんじゃないか。そう思った時には、もう口に含んでいた。独特な香りが鼻を突き抜け、苦味と、えぐみと、渋みと、酸味と、僅かな甘味が口内に広がる。
ぼんやりと真っ赤に染まった視界が、明かりが消えるように、ふっと暗くなった。
黒い馬車は街の外に止まり、私たちは順番に外へ出た。雨具に当たる雨粒が、ばらばらと激しく音を立てる。
「……酷い雨だな。足元には気をつけてくれ」
馬車から降りたエルートが、顔を顰める。慎重に地面に足を下ろすと、体重をかけた先から、濡れた地面が嫌な感じでぐじゃりと凹んだ。体勢を崩した私の腕を、エルートが掴んで支えてくれる。力強い彼の腕に、どきりと胸が躍る。真面目に取り組まなくてはならないのに、少し触れるだけで喜んでしまう。私は浮かれた気分を忘れるため、彼の手をそっと振り払った。
エルートが危険だと言った通り、雨のせいで足元が悪いこと。それも、きっかけのひとつだっただろう。
「魔獣は街中に潜んでいるというから、今日はニーナも、俺達と一緒に来るしかない。面倒な目に遭うことになるが」
「そうですよね」
エルートの忠告に、私は頷く。
今までの魔獣討伐において、私は、街には入ったことがなかった。騎士は誰もが憧れる、身近で遠い存在だ。騎士と庶民の女が一緒にいる姿を人々に見られることは、百害あって一利なし。わかっているから、街の外で待つよう求められる度に応じてきた。
報告のあった蛇の魔獣は、街中にいるという。だからこそ危険で、緊急性が高いわけだ。そして街中の魔獣を探すのであれば、私が騎士と共にいる姿を、人々に見られるのは避けられない。
「覚悟しておきます」
私の宣言に、今度はエルートが頷いた。
一般人の私と王宮騎士は、不釣り合いな取り合わせだ。まだ経験はしていないが、街の人々にどのように謗られるか、想像はつく。私だけではなく、エルート達も批判の対象になるだろう。騎士なのに女連れなんて幻滅する、とか。あんなぱっとしない女を連れていてがっかりする、とか。口さがない街の人々なら、何を言ってもおかしくない。
批判に晒されるのは嫌だし、できれば街の外で待っていたい。けれど、求められたら応じよという母の言葉に従えば、今はエルート達に付いていくべきだった。
だから私は批判を覚悟し、深呼吸をひとつしてから、街の中へ足を踏み入れた。
「ようこそ、おいでくださいました」
こんな雨なのに、出迎えは盛大な人だかりだった。雨に濡れながら、あるいは雨具を身につけて、騎士の来訪を歓迎する町の人々。集団の真ん中に立つ紳士的な装いの男性が、どうやら町長らしい。町長のすらりとした長い脚には、赤い雨具を着た幼女が両手でしがみつき、くりくりした丸い目をこちらに向けている。
邪心のかけらもない、澄んだ黒い瞳。こちらを見ているので見つめ返すと、瞬きを何度かした後で、突然大きな声を上げた。
「おんなのこでも騎士さまになれるんだ!」
ぷっくりと丸く膨らんだ頬を染め、心底嬉しそうな表情。騎士に憧れているのだろうか。髪は短く、活発そうな女児だ。
私は騎士ではないし、女は騎士にはなれない。そんなことは、私が言うまでもなく、大人なら誰でもわかること。少女の無邪気な喜びを、町長が目尻を垂れて微笑ましげに眺めているので、私は何も言わずにおいた。
現実なんて、成長すればすぐにわかる。あんなに目をきらきら輝かせているのに、今から夢を否定するのは野暮なことだ。
エルートと町長が簡単な挨拶を交わし、私たちは街中へ入り込んでいく。背中を向けたとき、人々の囁きが、風に乗って届いた。
「女は騎士になんてなれないわよね? 何かしら、あの方」
「あんな冴えない感じの女性を、お供にするなんて。ちょっと幻滅」
ほら。
手厳しい品評は、予想通りだ。覚悟をしていても、風に乗って聞こえてきた囁きが、ぐさりと耳に刺さる。
「騎士様なら、もっと素敵な方をお連れしてほしいわ」
「そうそう、お姫様が似つかわしいわね」
物語に登場する、凛とした勇ましい騎士。あるいは、紳士的で真摯な騎士。人々が憧れるのは物語の中にいる、理想の騎士である。だからこそ、エルートをはじめとする騎士たちは、自らを取り繕うのだ。騎士に憧れをもつ人々の期待に応え、温かく受け入れてもらうために。
そして騎士の隣に立つべきなのは、目を見張るほど美しいお姫様。そう相場が決まっている。私はいくら取り繕ったって、釣り合うほど素敵な女性にはなれない。
見合わないのは、わかっている。それでも、口に出して言われると、胸がちくちくと痛む。落ち込んだ気持ちのせいで、足取りが重くなる。
落ち込んでいても、何の解決にもならない。私にできることは、魔獣を見つけ出し、少しでも彼らの力になることだけだ。私が少し思い詰めていたのも、きっかけのひとつであったと思う。
どれが何のきっかけとなったのかは、事が起きてからの答え合わせに過ぎない。「ああしていれば」という後悔は、失敗の前には気づけない。
ただこの日、私達は着実に、失敗の芽を積み重ねていた。
「森の中じゃなくてもわかるの?」
「はい。集中すれば、特に困りません」
街の中は少し匂いがごちゃついているが、エルートの匂いは強い。雨の香りの中でもさほど苦労せず、私は彼の放つ花の匂いを、確かに追うことができた。
私にわかるのは、探し物のある方向だけ。分かれ道があれば、その方向に近い道を選びながら、雨の中を進む。
「……滑りやすいな」
エルートが呟いた。
街中は道が舗装されており、激しい雨によって水が膜のように張っていた。普通に歩いていれば特に困らないが、足を取られるような感覚がある。
命を大事にするエルートは、身の危険には敏感だ。私は気を引き締め、足元をよく見て歩く。
下を見ていると、道の間や家の側に生えた草が目に入る。ただの雑草もあるが、街中にも薬草は生えている。良い効果のあるものを薬草と呼び、体に害のある草は毒草と呼ばれる。他の草を駆逐し、蔓延るだけの生命力を備えた毒草が、激しい雨の中で何食わぬ風に生えている。
草なんて誰も食べないから、毒草が生えていても何ら問題ないのだろう。あれは確か、血の巡りが悪くなるから、口にするなと言われていたもの。向こうに生えているのは、お腹を下すから避けろと言われていたもの。私は雨に濡れた葉を見つめながら、母に教わった薬草の知識を思い出していた。
「ずいぶん入り組んだ住宅街に入ってきたな。襲われたのは果物屋の店員だと聞いたが」
「人家の近くに潜んでいるのなら、尚更、急ぐべきだ」
エルートの呟きに、アイネンが反応する。確かに辺りはいつの間にか、左右に店の並んだ広い通りから、家と家の間の細い道に変わっていた。人が3人並んで、いっぱいになりそうな狭さだ。森の中の道なき道よりは動きやすいかもしれないが、左右は人家なので、派手な動きはできない。
「この通りを真っ直ぐに行けば、いるはずです」
エルートの花の匂いは、道の向こうに向かって、真っ直ぐに流れている。私が報告すると、カチャ、と軽い音がした。いつでも抜けるよう、剣の柄に誰かが手をかけた音だ。
左右に家々の広がる住宅街にもかかわらず、あたりはひっそりと静まり返っていた。自分の足音や息遣いが、いやに大きく聞こえる。心臓の音まで聞こえてくる気がして、嫌でも緊張が高まる。
地面に薄く張った水の膜を踏む、ばしゃりという音。ばしゃ、ばしゃと足音が立つのは私だけで、騎士の3人はこんな雨の中でも静かに歩いていた。
胸元の青い石に、僅かに震えが走る。瞬間、エルート達の雰囲気も張り詰めたものになった。
この青い石は、魔獣の接近を知らせるもの。私だけでなく、騎士達も同じ石を持っている。石が震えるのは、魔獣が近くにいるからだ。
「ニーナ。近くに」
エルートに近寄ると、私の左右を固めるようにレガットとアイネンが寄り添った。森の中みたいに隠れるところがないから、私を守るような陣形だ。安心感を得ると同時に、申し訳ない気持ちになった。私が最低限、自らの身を守れたら、彼らの集中力をこちらに割く必要はない。
私にできるのは、魔獣の居場所を見つけることだけ。それ以外の部分では足手纏いである。だからせめて、自分に求められている役割は完遂しよう。私は、エルートの匂いに集中する。
花の匂いは、魔獣に向かって真っ直ぐに流れている。近寄ると、青い石の振動はどんどん大きくなる。びりびりとした震えが胸元を打ち、そうして、花の匂いがふっと逸れた。
「……右?」
視線を右に向けたけれど、そこには魔獣の姿はない。私の右に立つレガットは、緑の瞳でこちらを見下ろしてから、視線を住宅の方へ戻した。
進むのを止めた私たちは、それぞれに辺りを見渡す。足音の代わりに、ただ雨の音だけが周囲を包んでいる。物音ひとつしない。聞こえるのは、緊張して浅くなった自分の呼吸音だけだ。
「……どこだ」
アイネンが目を細めて呟く。彼もゆっくりと、視線を左右に揺らす。
空気だけが、息が詰まるほど張り詰めている。周囲の風景には変化がないにもかかわらず、緊張が解けないのは、青い石が絶えず振動しているからだ。
魔獣は間違いなく近くにいる。姿だけが見えない。
相手は蛇の魔獣だというから、どこか、家々の間に潜んでいるのだろう。経験のない私にもそのくらいなら想像がついて、匂いの向かう右方向に意識を向ける。
その匂いが、さっと上方に傾いだ。
「あっ」
見上げた先に黒いものが見えて、私は思わず声を上げる。
そこからの数瞬は、私には妙に長く感じられた。
「何?」
私の声に反応したレガットが、こちらに顔を向ける。
「馬鹿! 上だ!」
アイネンの声が飛び、レガットは振り向くと同時に剣を抜く。無理な剣の振り方をしたレガットは、その勢いで体勢を崩す。真っ黒な蛇は側面を弾かれ、地面に落ちて頭をもたげる。ぎらりと光る赤い瞳が、体勢を崩したレガットを見据える。長い蛇の体躯がたわむ。
「やべえ」
レガットが焦ったように呟く。私が無事でいるより、レガットが無傷な方が戦力的にまし。そんな計算が、頭の中で一瞬でなされた。同時に、体が動いていた。
次の瞬間、腕に熱が走っていた。レガットの前へ咄嗟に差し出した腕が、ちょうど飛んでくる蛇の動線上にあった。蛇の鋭い牙が、服を貫通し、私の腕に食い込んでいる。痛みにも似た、強烈な熱さ。
そして、蛇の胴体が両断された。黒い霧に視界が覆われる。回り込んだエルートが、蛇を斬り落としたのだ。しかし私は、魔獣を倒したエルートの顔をはっきりと認識することはできなかった。
どくん、と心臓が変に鼓動する。痛いほどに激しい鼓動に、私は無事な片手で胸元を押さえた。息ができない。傷口から熱が回り、全身がぼうっとする。目の前が揺らぐ。心臓が、痛い。乾いた吐息が、喉の奥から漏れる。目の奥が裏返るような感覚。
「ニーナ?」
名を呼ばれた気がしたが、それも定かではなかった。目の前が、ぼんやりと赤く翳る。その向こうに、雨に濡れた地面が見える。
「毒か!」
毒、という言葉が鈍く頭に響く。あれは毒蛇だったのか。妙にどくどくするのも、目の裏が赤いのも、毒のせいか。
死の瀬戸際に立つ私は、不自然に引き延ばされた時間の中にいた。苦しいのに、妙に冷静な思考が瞬時に巡る。
真っ赤な視界の端に、特徴的な葉が見えた。あの葉は覚えている。この独特な香りも。血の巡りが悪くなるから、決して採るなと言われていた毒草だ。肉厚で、紫色の葉が、降り頻る雨の中で揺れている。
私の指先は、葉に触れていた。手の届く近さらしいが、変に遠く感じられる。雨に濡れているはずなのに、指先がいやに熱い。痛いほどの熱さと同時に、毒は全身に広がろうとしている。
毒草を食べれば、血の巡りが治まるんじゃないか。そう思った時には、もう口に含んでいた。独特な香りが鼻を突き抜け、苦味と、えぐみと、渋みと、酸味と、僅かな甘味が口内に広がる。
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