忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛

文字の大きさ
上 下
3 / 39
第一章「火付盗賊」

第三話「蝮の善衛門」

しおりを挟む
 服部文蔵が北町奉行所の同心に引き立てられてから十日程経った頃である。文蔵は同心見習として定町廻りの先輩である粟口に連れられて、市中見回りに出ていた。定町廻りの見習いとして町に出るのは初めての事だ。

 では奉行所に入ってからこれまで何をしていたのかというと、他の役職の職務を体験し、そして失敗していたのだ。

 町奉行所の同心と言えば、定町廻りの様に江戸市中の治安を守る者達が知られている。彼らの職務は犯罪者の取り締まりなど派手であるし、常日頃から町人と接するので目立つのだ。だが、同心の職務はそればかりではない。事務仕事など地味な裏方の職務もあるのだ。

 定町廻りの様な職務は特殊な技術が要求される。そのため同心の子弟は幼少から将来同心として働くのに役立つ様々な技術を稽古しているのだ。それは暴れる犯罪者を捕縛する技術や聞き込みのこつなど多岐に渡る。当然文蔵はその様な技術は習得していない。

 そのため文蔵は当初事務方の見習いとして配置された。だが、これは全く上手く行かなかった。何故なら、文蔵は読み書きに疎い。武士の子としてあるまじき程未熟である。数日もしない内に先輩達が音を上げ、内与力の諏訪に文蔵を他の職務に配置換えするように訴え出たのだ。

 まあこれは仕方のないことだったと文蔵も理解している。同心には定数がある。役立たずの文蔵がいると言う事は他の者に負担がかかるのだ。この先見習いから昇格して、自分達の部署に配置されてはたまったものではない。しかも文蔵の面倒を見ればその分負担は更に重くなる。そして成人の武士として最低限の読み書きが覚束ない文蔵に対して、どの様に指導をすれば良いのか先輩同心達にも分からないのである。

 ここまで使えない新入りは、北町奉行所が設置されて以来、前代未聞の事だったに違いない。出来るなら空前絶後であってほしいものである。それならば、文蔵以上に使えない同心が配属される事は無い。

 次に配置されたのが小石川養生所見廻りである。時の将軍吉宗は、広く天下の声を聞くために目安箱を設置したのだが、それによってなされた政策の一つに、小石川養生所の創設がある。小石川養生所は金の無い庶民の診療を目的として創設されたのだが、これは町奉行所の管轄であり与力や同心が見廻っている。細かい運営自体に同心が関わる事が無いので、読み書き疎い文蔵でも何とかなるだろうとの諏訪の考えであったが、これは小石川養生所からの反対により半日で終わった。

 小石川養生所は無料で診療を受けられるのだが、以前にはこれが逆に裏目となってある悪評が広まってしまった事がある。

 小石川養生所は身寄りのない貧乏人を集めて、薬の実験をしているというのである。

 勿論その様な事実は無く、地道な医療を積み重ねる事によってその悪評は今では沈静化している。だが、一部では根強く噂は残っている。

 その様な場所に文蔵が顔を出せばどの様な事になるのか。

 文蔵は以前の火事場泥棒成敗の一件が瓦版に書かれているため、町民たちにその人相などが知られている。そして瓦版では文蔵の事を服部半蔵の系譜に連なる忍者であると事実無根の事を書いている。

 忍者の実態など知る者は少ないのだが、様々な噂は講釈師などによって流されている。超人的な身体能力もそうであるし、不可思議な忍術を使うとも言われている。そして、その術の中には毒薬を使う事も含まれている。

 という事で、文蔵を小石川養生所で見かけた町民の反応は微妙なものになる。

「なんと、あれは忍者の服部文蔵じゃねえか。なんでまたこんな所に?」

「忍者……養生所……薬……毒……ははあ、なるほど」

 こんな風である。

 文蔵としては、何がははあなるほどと思うだけであるのだが、小石川養生所としてはたまったものではない。せっかく悪評が無くなるように地道に努力してきたのが、同心だか忍者だか良く分からない胡乱な奴によって台無しにされようとしているのだ。

 そんな訳で担当の与力に養生所の医師一同が土下座せんばかりの勢いで訴え出て、やむなくお役御免となったのである。

 その後もあれこれ奉行所内の役目を試してみたのだがどれも長続きせず、最終的に定町廻りの役目に就くことになったのだ。

「おめえよう。ここまで連れ出しておいてなんだが、なんだよそのなりは」

 江戸市中を歩いている途中、定町廻りの先輩の粟口が言った。機嫌が悪いのが見て取れる。

「なり、でございますか? 何か問題でも?」

 文蔵は自分の黒い羽織を摘まみながら答えた。黒の巻羽織や着流しは、町方同心を象徴とも言える装束だ。まだ慣れていないので着かたがこなれていないかもしれないが、怒られる様なものとは思えず文蔵の顔には疑問の色が見える。

「羽織とかじゃねえよ。その腕につけている手甲、何なんだよそれ。舐めてんのか?」

 文蔵の左腕には手の甲から肘まで覆う鋼鉄製の手甲が装着されている。羽織で隠れて殆ど見えないが、ちらりと覗かせるそれは中々に物々しい。

「これには事情がありまして、お奉行様には許可を貰っておりますよ」

「聞いてるよ。ただ、あまりに妙なんで一応言っておいたんだよ」

 粟口が吐き捨てる様に言った。粟口は定町廻りの中でも筆頭格だ。そのため文蔵の教育係としてこうして連れまわしているのだが、こんな訳の分からない奴を世話しなくてはならない事が気に食わないのだ。

「それによう。もうちょっと喋り方、何とかなんねえのか? そんな喋り方じゃ舐められるぞ」

「はあ、そうですか?」

 文蔵は商売人の様な丁寧な喋り口だ。あまり武家らしくなく、これでは無頼の輩と接する同心としては、治安を守るのに支障があるだろう。

 同心は、舐められてはならぬのだ。

「それじゃあよ、粟さん。ま、よろしくたのまあ」

「てめえ……舐めてんのか? ……まあいいか」

 今度は打って変わってがらっぱちな口調に変化した。とても先輩に対して相応しい言葉遣いではない。この文蔵という男、武士として丁度良い加減というものを知らないようだ。

「でよう。これからいってえ何処に向かうってんだ?」

「お前、詰め所で事件の事を何も聞いてなかったのか?」

「昨日は勘定役の見習いをやって、首になったんでな」

「じゃあしょうがねえか。よく聞きな」

 粟口の言う事には次の様である。

 先日両国橋のたもとで、一人の男の死体が流れ着いた。男は流れ者らしき風体で、身元を示す物は何も所持しておらず、何者なのか全く不明である。辺りは火除地で見世物小屋などが多く、流れ者の芸人も多い。死体もその類いの人間であろうと予想されていた。

「じゃあ両国の辺りで芸人達に聞いて回ればいいんじゃねえか?」

「そうとはいかねえんだ」

 見世物小屋の芸人たちには、半ば無頼の輩も多い。彼らにお上の権威を振りかざして聞き込みをしても、中々上手く行くものではない。しかも、死体には異常な点があった。

「どうも、殺し臭いんだ」

「へえ」

 一見溺死に見えた死体であるが、色々と調べてみるとそうとは言えない点が浮かび上がって来た。

 胸元を押してみたところ、全く水を吐かない。これは水の中に没した時に意識が無かった証拠である。不審に思って着物を剥いで調べてみると、脇の下に何かを刺した跡が見つかった。

 となれば、殺した後に川の中に死体を捨てたと見るのが適当であろう。

 単なる身元の死体の調査ならまだしも、殺しの捜査である。辺りの見世物小屋の者達に聞いたとしても、より警戒されるのが当然だ。

「じゃあどうすんだよ」

「辺りの顔役に仁義を切るんだ。そうすれば、みんな安心して話をしてくれるって寸法だ。……あと、話し方を元に戻せ。むかつくからよ」

「そうですか。ならば戻しましょう」

 先ほどまでのがらっぱちな話し方は、特に悪意が無かったのだろう。文蔵は自然な様子で話し方を変えた。

 粟口は呆れる思いだったが、断片的に聞いている文蔵の身の上を思い出した。文蔵は御家人服部家の嫡男でありながら、家督を継いだのは弟だという。しかも、優秀だと名高い弟に比べて文蔵は読み書き算盤に疎い。これは実に妙な事である。

 一応文蔵は弟と同腹だと言う事になっているが、実はどこぞの妾か何かの子であり碌な教育を受けず、嫡男扱いもされないで過ごして来たに違いない。服部家の近所に住んでいる者が親類にいるのだが、服部家に二人も男子がいるなど記憶に無かったという。最近どこぞから湧いて出てきたと言う事だ。

 文蔵は同心の仕事には足手まといな存在であるが、少々気の毒身の上であると粟口は思っている。

「全く妙な野郎だな。おめえさんはよ。ところで知ってるか? お奉行様は人気取りのためにお前を同心にしたってよ」

「はあ、そうなのですか?」

 諏訪からは火事場泥棒を制圧した実力を見込まれてとの事だったので、真相は違う様だ。

「稲生様はまだ北町奉行に就任されてから日が浅く、長年勤められている南町奉行の大岡越前様と町人からの人気がダンチでな。それで『享保の忍者』と人気が出たおめえを配下にして、人気にあやかろうって事らしいぜ」

「私は忍者ではないのですがね」

「それでもいいんだよ。町人からの評判が重要なんだから、皆が忍者だと思っているならそれでいいのさ。さあ、着いたぜ。ここがこの辺りを取り仕切る香具師の大親分『蝮の善衛門』の屋敷だ。言っておくがおめえは何もしゃべるなよ? ここの親分はかなりの大物で、町方同心なんか屁とも思ってねえ。機嫌を損ねたら拙い事になる。今までだって交渉に失敗した同心は多いんだ。俺だって半々ってところだ」

「そうですか。なら、私は黙っておくことにしましょう」

 元よりこうした交渉事に、文蔵は慣れていない。元々今日は粟口のやり様を見るだけのつもりであった。

「本当に頼むぜ。そこらの岡っ引きじゃまともに話すらさせてもらえねえし、前に強請ろうとした奴が次の日には冷たくなって小名木川に浮かんでいたそうだ。弱気を助け強気を挫く侠客なんで、放っておいても害は無いんだが、こういう厄介事があった時には話を聞かなきゃならんのだ」

 蝮の善衛門の屋敷は裏通りにあり、外から見る限りそれ程立派な外観ではない。だが、門番をしている強面の男に案内されて中に入ると、敷地の中は意外と広い。

 香具師の大親分だというのでもっと豪勢な暮らしをしているのだろうと文蔵は思っていたのだが、善衛門はそうではないらしい。先程粟口が言っていた弱きを助け強気を挫くというのは本当の事なのだろう。

 客間に通された文蔵と粟口は、しばらく待たされた。商家を同心が見回りで訪れたなら、主人なり番頭なりがすぐに対応するはずなのでこの扱いは無礼と言っても過言ではないのだろうが、香具師の大親分にとっては同心など単なる小役人に過ぎないという表れなのだ。

 緊張した面持ちで文蔵と粟口が待っていると、襖が開いて男が一人部屋に入って来た。

 部屋に入ってきたのは、四十絡みの固太りの男であった。色男とは程遠く苦み走った顔つきだが見る者を惹き付ける何かがある。この男が親分の蝮の善衛門に違いない。

「待たせましたねえ、粟口様、私が善衛門でごぜえます。一体何のよう……文ちゃんどうしたんよ、そんな格好して」

「あれ? おやっさんじゃないっすか。何が蝮の善衛門っすか。誰かと思いましたよ」

 部屋に入って来るなり善衛門は丁寧ながらに威厳のある口調で粟口に挨拶をしたが、その隣に文蔵の顔を認めて急に馴れ馴れしい口調に変わった。表情も、どこか拒絶するようなものであったのが、満面の笑みになった。文蔵の方も、これまでは借りて来た猫のようであったのが、打って変わった様である。

「江戸で興行をして、すぐ文ちゃんと分かれただろ。その後俺は親父と会って、こうして後を継いだんだよ」

「あ、そういえばおやっさんのお父さん、江戸の香具師だって言ってましたね」

「そうそう、それで親父ももう年だから、隠居したいっていうからさ。今じゃ亀戸の辺りで悠々自適の隠居生活さ。そういや、最近瓦版で文ちゃんの活躍呼んだぜ。忍者ってえのは笑えるよな。軽業が出来りゃあ皆忍者なら、俺だって忍者になっちまわあ。なんてったって俺が文ちゃんの……ああ、すみませんね、粟口様。申し遅れましたが、あっしは蝮の善衛門の二代目でござんす。いちいち奉行所に届け出をするのも筋違いなので伝えてやせんでしたが、今後ともよろしくお願いいたしやす」

 ついでの様に挨拶をされた粟口は、目の前の光景が信じられなかった。蝮の善衛門のと言えば、江戸の大侠客としてその名を轟かしている。北は松前、西は大坂や博多にまでその名を轟かせている存在だ。代替わりしたようだが、その威光はまだまだ健在だろう。そこら辺のヤクザ者ならその機嫌を損ねる事を恐れて縄張り内での非道な行いをはばかるし、町奉行所だとて迂闊な対応はしてこなかった。

 だというのに新米の見習い同心が、旧知の友人の様に大親分と話をしているのだ。

「あー、ごほん。先ずは二代目善衛門の襲名、お祝いを申し上げる。先代の善衛門は、男気のある侠客で町奉行所でも一目置いている人物であった。町民や流れ者に味方する性質故に我等と反目する事もあったが非道な行いはしないので、江戸の安寧を守るという点では協力する事も多々あった。出来ればこれからもその関係を維持していきたい」

 善衛門は粟口の口上をじっと聞いていた。文蔵の知る善衛門は、お上と馴れ合う事はしない性格だ。余計な争いで手下を巻き込む事は避けるので敢えて喧嘩を吹っ掛けたりしないが、法外なみかじめを要求した役人を簀巻きにしたりと強烈な制裁に及んだことは片手では足りない。文蔵も協力した事がある。

 粟口は文蔵の見るところ所謂まいない役人ではなさそうだが、善衛門は果たして協力的な関係を良しとするだろうか。

 舐めるんじゃねえと一喝したりしないだろうかと心配になった。だが、

「ん。良いよ」

「いいんすか? おやっさん」

 善衛門は心配していたのが馬鹿らしくなるくらい快諾し、文蔵は拍子抜けした。

「だがよう、言っておくぜ。俺は奉行所の役人なんぞに尻尾を振る気はねえ。あくまで協力するのが民のためだと思うからだ。まあ公方様になら頭を下げてやらあ。それに他の同心ならいざ知らず、文ちゃんが同心をやるってんなら話は別だ。協力は惜しまねえぜ」

「ありがとう、おやっさん。粟口さんもそれでいいですね?」

「ああ、構わないぞ。事情は……聞かないでおこう」

 本来なら善衛門の様な大物侠客とは、町奉行所という組織として接点を持っておきたい。何故なら同心個人で接点を持つと、場合によっては悪事に取り込まれてしまうからだ。だが、先代蝮の善衛門は、仁義のある侠客として知られていたし、その息子で後を継いだ二代目善衛門も同じ類いの人物に思える。また、何やら事情は知らないが、文蔵とは旧知の仲の様である。普通の武士と侠客がこの様な関係を築くことは難しい。恐らく他の誰かが代わる事は出来ないだろう。そして、迂闊にその関係を詮索する事は命取りになり兼ねない。文蔵が一般的な武士の素養を全く欠いている事や、嫡男にも関わらず家を継げなかった事にも関わっているのだろう。

「さて用件だが、服部はまだ見習いなので、今回は拙者から話させてもらおう。それで良いな?」

 善衛門が承諾するのを確認すると、粟口は事件の状況について話し始めた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

柿ノ木川話譚1・狐杜の巻

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:5

心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:754pt お気に入り:2,542

燃ゆる湖(うみ) ~鄱陽湖(はようこ)の戦い~

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:1

平凡な容姿の召喚聖女はそろそろ貴方達を捨てさせてもらいます

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:30,596pt お気に入り:1,784

神柱小町妖異譚

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:839pt お気に入り:7

やらかし婚約者様の引き取り先

恋愛 / 完結 24h.ポイント:18,484pt お気に入り:331

漆黒と遊泳

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:3,237pt お気に入り:29

華々しく婚約破棄するシーンを目撃した令嬢たちは……。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:49pt お気に入り:41

処理中です...