忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛

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第三章「田沼の計らい」

第一話「八丁堀の女湯」

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 八丁堀の七不思議に、「女湯の刀掛け」という物がある。

 帯刀しない女達が入る銭湯の女湯に、何故その様な者が必要なのであろうかという事である。

 その答えは単純明快だ。八丁堀に住む者なら誰でも知っている。何故なら女湯に侍が入るからだ。

 八丁堀は町奉行所の与力や同心が住む地域である。幕府からその様に指定されているからだ。その彼らは様々な役得があるのだが、その一つは朝の女湯に入れるというものがあるのだ。

 これは同心達が女湯に入って女の裸を見たいなどと言う卑近な理由ではない。その様な理由であれば幕府もこの様な役得を認める事は無いだろう。朝風呂は、早くから働きに出る職人達で混みあっているが、女湯はそうではない。そのため、すいている女湯に町奉行所に出仕する前の同心達が入っているのである。

 同心達は時間を取られる事なく一風呂浴びて気分を引き締めて職務に臨む事が出来るし、入浴客の回転率も高い方が店側としても望ましい。

 加えて言えば、女湯から男湯の噂話を盗み聞いて、犯罪の糸口を掴むことが出来る。風呂に入って気分が開放的になるとついつい口が軽くなるものだが、流石に同じ湯船に同心が入っているのに口を滑らす者はいない。

 それらの理由もあるのだが、北町奉行所定町廻り同心筆頭たる粟口は、大の風呂好きである。これまでぐだぐだと述べてきたような理屈はまあどうでも良い。だからこの日も彼は、行きつけの風呂に入って行った。

 今月は月番ではないため早く出仕する必要はないのだが、兎に角朝風呂が好きなのでわざわざ朝早く起きて行きつけの銭湯に来たのである。

 先客はいる様だがごく少数だ。恐らく町奉行所の同僚だろう。同心達が入ると分かり切っているこの時間帯に好き好んで入って来る女はいないのだ。その様な意味でも、いやらしい意味での役得は存在しない。

「なんだ、服部か」

「おや粟口さん。お先に入っております」

 柘榴口を潜って入った湯船には、予想通り町奉行所の同心がゆったりと浸かっていた。

 その男の名は服部文蔵といい、北町奉行所の新米同心である。珍しく同心の家系以外から登用された者であり、北町奉行たる稲生のたっての要望により採用された若者である。

 能吏と評判の稲生が採用を決めた人材だが、採用された当初は……まあ酷い能力だった。とても御家人の長男に生まれたとは思えない読み書きの能力しかなく、江戸の町に生きる常識や武士としての何たるかを全く知らない。

 浪人の方がまだましなのではないだろうか。

 奉行所内の各部署で押し付け合って、最終的にお鉢が回って来たのが粟口の仕切っている定町廻りなのであったが、奇跡的にここでは能力を発揮した。

 何故か文蔵は軽業やそれを活かした戦いに習熟しており、数々の悪党を捕縛したのである。粟口とて歴戦の同心であり見劣りするものではないが、その粟口の目から見ても大したものだ。

 まさか、服部という名から連想されるように忍者ではあるまいに、実に風変わりな戦いぶりである。町人どもは文蔵の事を忍者同心などと誉めそやしているらしいが、文蔵の家系が忍者で無い事は採用の際に明らかになっている。

 堅実に同心としての職務に勤める粟口としては忍者などと評判が立つのは苦々しく思っており、文蔵が浮ついた勤務などしないようにきつく当たっているのだが、それでも文蔵の働きぶりには一定の評価を与えている。

 文蔵の働きぶりも、幕府を支える役人としては心構えがなってない様に思えるが、民を守ろうという気概は伝わって来る。口には出さぬものの、そちらの方の心掛けが町民と直に接する町方同心には重要であると思っている。

 その点では文蔵は合格である。

 また、文蔵はどういう訳か大物香具師の蝮の善衛門と深い繋がりがある。文蔵の連れている岡っ引きは善衛門の息子であり、江戸のヤクザ者にはかなりの顔が効く。これは江戸の治安を預かる町奉行所の同心としては非常に役に立つ。

 まだまだ未熟な点が多いが、文蔵は余人には代えがたい人材と言えよう。

 まあ、文蔵が解決した事件を、文蔵に代わって捕物帳を書いて報告しなければならないというのは難点であるのだが。

「どうした? 珍しいではないか。朝風呂に来るのは」

 粟口が風呂好きなのでよく先頭に来るのだが、文蔵はそうではない。江戸っ子揃いの町方同心としては珍しい限りだ。実は文蔵は幼少時から江戸を離れて旅をしていたので風呂に入る習慣が無いのであるが、粟口はその様な事情を知らない。

「昨晩は色々と夜更かしをしましてね、それで眼を覚ますために入りに来たんですよ」

「そういう事さ。それにあたしが入ろうって誘ったのさ」

「ぬ? うげっ、確かお主は」

「おや、『うげっ』とは失礼じゃないさ」

「朱音さん。粟口さんにその口の利き方はないだろう」

 湯船には、粟口と文蔵以外にはもう一人入っていた。文蔵の知り合いである朱音である。朱音は蝮の善衛門の娘であり、文蔵の岡っ引きをしている善三の妹だ。

 文蔵が解決した事件に協力していたと粟口は聞いている。

「いや失敬、しかしまさか女人が入っているとは思わなかったので」

「女湯に女が入っていて何か問題でも?」

「それはそうなのだが」

 女湯に同心が入る役得があると言う事は、別に同心と女が混浴するのが常態化している事を意味しない。この時代の銭湯では混浴も多いのだが、だからといって誰もが抵抗なく混浴していた訳でもない。特に風紀の乱れに敏感な侍が住む武家地近くの銭湯ならなおさらだ。そして同心が入ってくると分かり切っている八丁堀の朝風呂に、わざわざ入って来る女は普通はいないのである。いたとしても、最早男女の性差など超越した老婆あたりだろう。

 銭湯愛好家の粟口だが、朱音の様に若い女性と遭遇したのは初めての事である。

 一体どうして朱音はこうして文蔵と共に先頭に入っているのであろうか。文蔵は昨晩色々あって夜更かししていたと言っていたが、やはりそういう事なのであろうか。

 様々な考えが頭をよぎる粟口であった。結婚前にその様な関係になるのは武家としてはあまり褒められた事ではないが、今時の下級武士はその辺りの規範が緩くなっている。見れば文蔵も朱音も平素風紀を乱すような行状は見受けられない。

 ならば若い二人を見守るのが先達の正しい姿であろうと粟口は結論付けた。朱音は町人どころか香具師の娘であるため、社会的な地位で言えば最下層に近い。例え江戸のその名を轟かす大物香具師の娘であろうとだ。だが、文蔵は所詮三十俵二人扶持の町方同心だ。朱音が何処かの養女になる等の手段を使えば婚姻は可能であろう。

 まあ粟口は若い頃から仕事一筋であり、未だに独身なのであるが。

「ま、まああまり大っぴらに二人で湯に入るなどせぬ方がよいぞ。何かと噂が立ったり誤解されては面倒だからな」

「問題ありませんよ。元々朱音とは良く入ってましたから」

「むう……」
 何が問題無いのかは粟口にはとんと理解が出来ないのだが、兎に角問題は無いらしい。

 これは完全なる文蔵の説明不足である。文蔵と朱音は幼少時から共に旅芸人の一座で全国を旅しており、旅の途中で一緒に水浴びをする事は日常的だった。そのため、今更混浴くらい何でも無いというのが文蔵の感覚なのである。

 当然、その事を知らない粟口には理解しがたい事なのだが、そんな粟口の感情など文蔵は全く推し量る事は無かった。この、他人の気持ちを考えるのに疎いというのが、文蔵の定町廻り同心としての欠点である。と言うよりも、人としての欠点と言っても良いかもしれない。この様な少し浮世離れしたところが文蔵が忍者であるという噂を後押ししている要素である。

 そして、粟口の事はおろか、朱音の心中さえ文蔵は理解しきれていないのであるが、それはまた別の話である。
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