忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛

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第三章「田沼の計らい」

第二話「弟が当主」

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 銭湯の二階は休憩所となっている事が多い。文蔵達が入っていた銭湯もその例に漏れず、二階では茶を飲んだり将棋や碁を楽しめるようになっている。

 今月は彼らの所属する北町奉行所は月番でないため、急いで出仕する必要はない。そのため、二階でゆっくりしていこうという事になったのである。

 新米同心である文蔵にとって、筆頭同心の粟口はそれ程親しい間柄ではない。職場の先輩と仕事以外で会うなど面倒くさい事この上ないのだが、これも付き合いというものである。その位の配慮は文蔵とて出来るのであった。

「どうでぇ。王手飛車取りだ。どうしなさる?」
「むむむ。……ところで、お主何故ここに居るのだ?」

「そりゃあ決まっているでしょう。同心の方々と違って女湯に入る訳にはいきませんから、男湯に入っていたんですよ。元々文ぞ……服部様とは二階で待ち合わせをする予定でして」

「そういう事ではないのだが」

 粟口と将棋を指している男、それは粟口の後輩の文蔵ではなく、文蔵の岡っ引きである善三であった。

 善三が男湯に入っていたのは粟口にも察しが付く。だが、何故単なる岡っ引きがれっきとした同心である粟口と将棋を指しているのだろう。なお、善三の一応の主である文蔵は、朱音と茶菓子を食べている。

 同心は三十俵二人扶持の足軽格に過ぎないが、侍である事には変わりはない。だが、岡っ引きは正式な町奉行所の役人ではない。非正規に同心達が雇う存在である。いや、雇っているという表現にも語弊がある。岡っ引きとなる者達はヤクザ者の類であり、彼らを活用する事が犯罪の捜査に役立つから同心は関係を持っているのである。どちらかと言うと犯罪者に近い存在であるから彼らの存在は非公式であり、頭の固い幕閣達はしばしば岡っ引きを使う事に対して禁令を出す。岡っ引きに比べたら中間や小者の方が正規の用人と言えるだろう。

 その岡っ引きが何故堂々と同心たる粟口と将棋を指しているのだろう。粟口が連れている小者は、分を弁えて銭湯の外で待機しているのだが。

 困惑顔の粟口を見て、善三が悪戯っぽく笑う。

「服部様とは少々縁がありましてね。普通の同心と岡っ引きの関係ではないのですよ」

「そうか」

 善三は学がある訳ではないが、決して愚かではないし、世間知らずでもない。粟口の言いたいことは理解している。

「ところで、町入能の一件の調査はどうなってるんですか? 俺は直接戦った訳じゃありませんが、服部様や妹が巻き込まれてるんで気になってるんですが」

 つい最近、文蔵達は千代田の城内で要人の命を狙う刺客と戦う羽目になった。本来この世で一番警備の厳しい場所であり、忍び込む事すら不可能である。だが、当日は町人を数千人招き入れた町入能が催されており、それに紛れ込んだのだ。

 この際文蔵達は次期将軍である徳川家重を救う活躍をしている。なお、当代将軍である吉宗は自分で危難を跳ね除けてしまった。

「残念だが、詳しい事は分からぬ。城内での事件ゆえ町奉行所の管轄でないので情報が回ってこないのだ」

「そりゃあ仕方ないですな。それでは、囃子の又左や黒雲の半兵衛については?」

「そちらも進んでおらん。拷問の許可が出たのでかなりきつく問いただしたのだが、口を割らなかった。恐らくこれ以上問い詰めても無駄だろう。その内獄門になるはずだ」

 こちらは文蔵が同心になってすぐの事件である。この連中は各地で火事場泥棒や人攫いを繰り返している。十数年前からこの様な所業を重ねているが、これまで全く尻尾を掴ませなかった。だが、文蔵の活躍によりようやくその端緒が掴めたのである。残念ながらその後の進捗は芳しくない様であるのだが。

「何故その様な事を気に掛けるのだ?」

「まあ色々とありましてね」

 囃子の又左の様な大物の悪党は、本来一介の岡っ引きの手には余るものだ。もっと小さな悪党を同心に捕らえさせ、小銭を稼ぐのが大半の岡っ引きの生き方だ。大悪党との対決など割に合わないのである。

 善三は江戸でも名を知られた香具師の蝮の善衛門の息子であるが、そこまで危険を冒してお上に協力する義理は無い。

 粟口は知らぬ事であるが、文蔵は幼少時に囃子の又左の一味に拐かされ、長らく家族の元に帰れなかった過去がある。だからその事を知り、幼少時から文蔵との付き合いがある善三は囃子の又左の行方に関心があるのだ。善三の父の善衛門も、江戸の裏社会の顔役として完全に道を踏み外した外道は排除したいし、息子の様に思っている文蔵の人生を変えた連中を許せぬと思っている。

「まあ粟口様にとっては十数年前の事件など、それ程関心が無いのかもしれませんがね」

「おい」

 これまで身分違いをあまり気にする様子が見られなかった粟口の口調が変わる。

「あまり町方を甘く見るなよ。あの様な外道どもをのさばらせておくわけにはいかぬと思っているに決まっているだろう」

「……そうですか」

 粟口の言葉に偽りは無いと、善三は感じ取っていた。僅かな人数で江戸の治安を守らねばならぬ同心達は、時として軽微な悪行を見逃す事もある。そうでなければ奉行所の業務が回らないし、貧しさなどからやむにやまれぬ事情で罪を犯す者もいる。まあ、賄賂の多寡で本来見逃せぬ罪を見て見ぬふりをする不届き者もいるのだが、それはごく少数だ。

 文蔵は粟口の事を口うるさい先輩だと善三や朱音にこぼしていたのだが、悪い人ではなさそうだと善三は感じた。

「すみません。服部様はいらっしゃいますか?」

 休憩所に番台の親爺が入って来た。何事かと文蔵達は親爺の方を見る。

「服部は俺だが?」

「それはようございました。服部様から……おっと、お城にお勤めの服部様から伝言でございます」

 城には服部家の家督を継いだ文蔵の弟が勤めている。仲が悪いではないが、十数年顔を合わせていなかったので、あまり兄弟と言う気がしていない。そのためお互い積極的に話しかけようとしていなかった。文蔵が町奉行所の同心になって八丁堀に越してからはなおさらである。

 一体どうしたと言うのか。

「分かった。すぐに行くとしよう」

 文蔵は首をかしげながら腰を上げた。
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