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第三章「田沼の計らい」
第三話「御広敷番頭 伊賀崎」
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文蔵の弟にして服部家当主である服部武蔵は、御広敷の勤務である。いや、文蔵とて一人前の町奉行所同心として召し抱えられているので既に新たに分かれた服部家と言えるのだが、それでも弟の武蔵の方が本家筋である。
御広敷は江戸城の大奥で勤務する役職だ。大奥は一般的には将軍以外男子禁制と言われているが、例外も幾つか存在する。その一つが御広敷なのであった。
御広敷の役目は、主に大奥の警備である。一応大奥勤めの女性自身による警備も存在するのだが、やはり武力という点においては男の方が平均的には上である。その他大奥に搬入される荷物の点検や、様々な雑用をこなしている。大奥は将軍家を内側から支える重要な存在であり、その大奥の諸事を担当する御広敷もまた極めて重要だと言えるのだが、女の園における男の仕事で、しかも高位の女の風下に立つ事も多い。そのため他から色々と揶揄される事もあり、中々に複雑な役職である。
ここに勤めるのは伊賀者などが多いが、武蔵は学問で名を知られ、御広敷に採用されたのである。幕府開府以来代々由緒正しい小普請組の服部家としては、異例の出世である。
そんな御広敷勤めの弟に、文蔵は呼び出された。会うのは御広敷である。話は通っているらしく、名乗るとすぐに通された。
「兄上、よく来て下さいました。町奉行所のお仕事でお忙しいところ恐縮です」
武蔵は礼儀正しく感謝を述べた。弟であるが家督を継いだ武蔵の方が格上と言えるのだが、そこは長幼の序を重んじている様だ。
文蔵は人攫いにあって十数年家を離れていた兄という厄介な存在だ。しかも文蔵不在の間に兄である文蔵を差し置いて家督を継いでしまったのである。そこに引け目があるのかもしれない。文蔵としてはその辺りはどうでも良いのであるが。
「気にすんな。今月は月番じゃないからな」
「は? 昨晩使いの者を八丁堀の家に向かわせたところご不在の様でしたが。朝にもう一度向かわせたら風呂に行っていると分かったので伝える事が出来たのですが、てっきり同心のお仕事で夜廻りをしていたものと」
「……非番の月にも色々あるんだよ」
町奉行所は月番でなくても様々な仕事があるというのは噓ではない。月番の間に溜まった様々な事務作業を非番の月にやらねばとても追いつかないのである。
だが、昨晩文蔵は朱音や善三と遊び歩いていたのである。女好きの善三と違って文蔵は色里には全くいかないのでそっちの方面はさっぱりなのだが、酒は三人ともかなり飲む。特に朱音はその細い体のどこに入っていくのかと思う程に飲む。朱音は蛇使いの芸によって蛇女を名乗っているが、まさにうわばみである。それに文蔵は博奕が相当強く、丁半博奕、骨牌、双六等勝負事は網羅している。昨晩もかなり稼いだ。
女遊びを全くせず、酒は浴びる様に飲むが博奕で稼ぐため、文蔵の懐は弱小御家人とは思えぬほど暖かい。町方は様々な役得があるので元々他の零細御家人よりも裕福なのだが、それに比べても文蔵は金を持っている。別に吝嗇な訳ではないのだが、文蔵は金の使い方を知らないのだ。
他の同心達は役得で得た金により、何人もの岡っ引きを使っている。この点文蔵の岡っ引きである善三は無給でやってくれているので、出費が少ない。しかもこの善三、大物香具師である蝮の善衛門の息子であるため、善衛門に繋がりのある様々な伝手を使えるので、生半な岡っ引きを数人使うよりも情報が入ってくるのである。
それはさておき、博奕で夜に不在にしていましたと大っぴらに言うのは拙いという知識は文蔵にも一応あった。幕府に仕える武士は建前上常時臨戦態勢であり、一朝事あらばすぐに「いざ鎌倉」とばかりに駆け付けねばならぬ。そのため夜間の外出は制限される。もちろん町方同心が夜廻りに出るように役柄認められる事があるが、その町方同心であっても遊び歩くのは大問題だ。
実のところ太平の世が続いてその辺りは緩くなっているのであるが、それでも建前上はかつてのままである。
「それで一体どうしたんだ? ここに呼び出したと言う事は、お役目と関係があると察しはつくが」
服部家の内々の事なら、家に呼び出せば良い。こうして職場の御広敷に呼び出したからには当然公儀のお役目と関係があるに違いない。
「その通りです。実は……」
「服部殿、これは大奥全体に関わる事。拙者から話すと致そう」
武蔵の横から一人の中年絡みの男が現れた。大奥という女の園に似合わぬ鷹の様な鋭い目をした男は、御広敷番頭の伊賀崎と名乗った。
番頭と言う事は、武蔵の上役なのであろう。いよいよ大事になってきそうな予感がする。
が、番頭の名前を聞いた文蔵は、武蔵達の要件以外の事が気になってしまった。
「伊賀崎? まさか伊賀の忍者の」
「左様、伊賀忍者の末裔として、当然伊賀流忍術を極めておる。伊賀忍者の血筋を受け継いだだけの連中とは違う」
文蔵は最近伊賀や甲賀の忍者を名乗る連中から敵視されている。文蔵自身は自分の事を忍者とはこれっぽっちも思っていないので、迷惑な事この上ない。
「おっと、百地達番方の連中は服部殿――文蔵殿の事を認めずに敵意を抱いている様だが、拙者達御広敷の伊賀衆は違うぞ。我らの同僚である武蔵殿の兄なら我らの仲間も同然だ」
「それはありがたい」
こんな所で喧嘩になったら、武蔵達御広敷の役人が何を頼みたいのか知らないが上手くいかないだろう。文蔵としては御広敷の事はどうでも良いが、弟の望みが叶わないのは心苦しいのだ。
御広敷は江戸城の大奥で勤務する役職だ。大奥は一般的には将軍以外男子禁制と言われているが、例外も幾つか存在する。その一つが御広敷なのであった。
御広敷の役目は、主に大奥の警備である。一応大奥勤めの女性自身による警備も存在するのだが、やはり武力という点においては男の方が平均的には上である。その他大奥に搬入される荷物の点検や、様々な雑用をこなしている。大奥は将軍家を内側から支える重要な存在であり、その大奥の諸事を担当する御広敷もまた極めて重要だと言えるのだが、女の園における男の仕事で、しかも高位の女の風下に立つ事も多い。そのため他から色々と揶揄される事もあり、中々に複雑な役職である。
ここに勤めるのは伊賀者などが多いが、武蔵は学問で名を知られ、御広敷に採用されたのである。幕府開府以来代々由緒正しい小普請組の服部家としては、異例の出世である。
そんな御広敷勤めの弟に、文蔵は呼び出された。会うのは御広敷である。話は通っているらしく、名乗るとすぐに通された。
「兄上、よく来て下さいました。町奉行所のお仕事でお忙しいところ恐縮です」
武蔵は礼儀正しく感謝を述べた。弟であるが家督を継いだ武蔵の方が格上と言えるのだが、そこは長幼の序を重んじている様だ。
文蔵は人攫いにあって十数年家を離れていた兄という厄介な存在だ。しかも文蔵不在の間に兄である文蔵を差し置いて家督を継いでしまったのである。そこに引け目があるのかもしれない。文蔵としてはその辺りはどうでも良いのであるが。
「気にすんな。今月は月番じゃないからな」
「は? 昨晩使いの者を八丁堀の家に向かわせたところご不在の様でしたが。朝にもう一度向かわせたら風呂に行っていると分かったので伝える事が出来たのですが、てっきり同心のお仕事で夜廻りをしていたものと」
「……非番の月にも色々あるんだよ」
町奉行所は月番でなくても様々な仕事があるというのは噓ではない。月番の間に溜まった様々な事務作業を非番の月にやらねばとても追いつかないのである。
だが、昨晩文蔵は朱音や善三と遊び歩いていたのである。女好きの善三と違って文蔵は色里には全くいかないのでそっちの方面はさっぱりなのだが、酒は三人ともかなり飲む。特に朱音はその細い体のどこに入っていくのかと思う程に飲む。朱音は蛇使いの芸によって蛇女を名乗っているが、まさにうわばみである。それに文蔵は博奕が相当強く、丁半博奕、骨牌、双六等勝負事は網羅している。昨晩もかなり稼いだ。
女遊びを全くせず、酒は浴びる様に飲むが博奕で稼ぐため、文蔵の懐は弱小御家人とは思えぬほど暖かい。町方は様々な役得があるので元々他の零細御家人よりも裕福なのだが、それに比べても文蔵は金を持っている。別に吝嗇な訳ではないのだが、文蔵は金の使い方を知らないのだ。
他の同心達は役得で得た金により、何人もの岡っ引きを使っている。この点文蔵の岡っ引きである善三は無給でやってくれているので、出費が少ない。しかもこの善三、大物香具師である蝮の善衛門の息子であるため、善衛門に繋がりのある様々な伝手を使えるので、生半な岡っ引きを数人使うよりも情報が入ってくるのである。
それはさておき、博奕で夜に不在にしていましたと大っぴらに言うのは拙いという知識は文蔵にも一応あった。幕府に仕える武士は建前上常時臨戦態勢であり、一朝事あらばすぐに「いざ鎌倉」とばかりに駆け付けねばならぬ。そのため夜間の外出は制限される。もちろん町方同心が夜廻りに出るように役柄認められる事があるが、その町方同心であっても遊び歩くのは大問題だ。
実のところ太平の世が続いてその辺りは緩くなっているのであるが、それでも建前上はかつてのままである。
「それで一体どうしたんだ? ここに呼び出したと言う事は、お役目と関係があると察しはつくが」
服部家の内々の事なら、家に呼び出せば良い。こうして職場の御広敷に呼び出したからには当然公儀のお役目と関係があるに違いない。
「その通りです。実は……」
「服部殿、これは大奥全体に関わる事。拙者から話すと致そう」
武蔵の横から一人の中年絡みの男が現れた。大奥という女の園に似合わぬ鷹の様な鋭い目をした男は、御広敷番頭の伊賀崎と名乗った。
番頭と言う事は、武蔵の上役なのであろう。いよいよ大事になってきそうな予感がする。
が、番頭の名前を聞いた文蔵は、武蔵達の要件以外の事が気になってしまった。
「伊賀崎? まさか伊賀の忍者の」
「左様、伊賀忍者の末裔として、当然伊賀流忍術を極めておる。伊賀忍者の血筋を受け継いだだけの連中とは違う」
文蔵は最近伊賀や甲賀の忍者を名乗る連中から敵視されている。文蔵自身は自分の事を忍者とはこれっぽっちも思っていないので、迷惑な事この上ない。
「おっと、百地達番方の連中は服部殿――文蔵殿の事を認めずに敵意を抱いている様だが、拙者達御広敷の伊賀衆は違うぞ。我らの同僚である武蔵殿の兄なら我らの仲間も同然だ」
「それはありがたい」
こんな所で喧嘩になったら、武蔵達御広敷の役人が何を頼みたいのか知らないが上手くいかないだろう。文蔵としては御広敷の事はどうでも良いが、弟の望みが叶わないのは心苦しいのだ。
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