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第三章「田沼の計らい」
第四話「大奥の怪」
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伊賀崎は文蔵に向かって丁寧に語りかけた。
「うむ。近頃の文蔵殿の活躍は目覚ましいと聞いている。つい先日も象を操って上様の命を狙う曲者を退治したそうではないか。獣を操る忍術は伊賀流でも失われて久しい技。拙者としては今回の一件が解決したならば、その功と文蔵殿の実力をもって伊賀衆に引き入れたいと思っておる」
「ほう……ん? ま、まあその事は置いておいて、用件を聞かせてくれ」
これまで遭遇した忍者達と違い、無用な敵意を向けてこないのはありがたい。しかし話が余計な方向に進みそうになったことを察した文蔵は、本題に入る事を促した。文蔵は忍者業界と関わる気は一切ないのである。まさか弟の職場に忍者がいるとは予想外であったのだが。
「そうさな。では武蔵殿を通じて呼んだ用件に入るとしよう。実は、大奥で一人の中臈候補が行方不明になったのだ」
「行方不明?」
伊賀崎の言う事には次の通りであった。
俗に大奥三千人の美女などと呼ばれ、将軍はその美女達と好きなように関係を持つことが出来ると思われているが、実のところそうではない。将軍の正室以外で夜伽をする相手は中臈に限られている。
中臈に選ばれるには幾つか方法がある。大奥を取り仕切る御年寄がこれはと思った女を推薦したり、将軍が大奥で見かけて気に入った女の名前を尋ねるなどだ。こうして推薦されたり将軍に見初められたりした者が中臈になり、将軍の夜の供をする事になるのだ。
行方不明になったという女も、つい先日将軍に見初められ、中臈になる準備をしていた最中であったという。
その女は美鈴といい、商家から大奥に出仕していたのだ。実家の商家は零細ではないがそれ程大きいわけでもなく、付き合いのある旗本の身元保証で大奥に入っていた。年季奉公であり、あと半年もすれば実家に戻って結婚相手を探す予定であった。武家への奉公は花嫁修業として町人の娘にはよくある事だ。特に大奥勤めともなれば箔がつく。実家としては少しでも格の高い商家の跡継ぎと結婚させようとの思惑があったに違いない。
そうなると将軍の側室になる事は予定外であるが、それは嬉しい意味での予定外だ。美鈴が中臈になる事を伝えに言ったところ、両親は大喜びだったという。
「どうやって姿を消したかはともかく、その美鈴という娘は中臈になる事を嫌がっていたのでは? 例えば許婚が居たとか」
「それは無いと思う。御年寄の滝川様に聞いたところ、美鈴は大層喜んでいたようだ」
「そうか」
「加えて言えば、以前故郷に許婚がいる娘が上様から中臈にと所望された事があってな。その時はその事を理由に断ったところ貞女の鑑であると上様はお褒めになったのだ。その前例がある以上、本人が嫌がっていれば断るのは可能だろう。だが、その美鈴は急に姿を消したのだ」
美鈴の姿が見えない事に周りの者が気付いたのは、昨日の午前中である。起床の際にはいたらしいのだが、いつの間にか行方知れずになっていたのだ。
「大奥については詳しくないのだが、この様な事は良くあるのか?」
「まさか、前代未聞の事だ」
「それでは大奥から脱出する経路や、逆に侵入する経路は?」
「それも難しい。我等御広敷の伊賀衆は、単なる雑用係ではないからな」
文蔵は忍者の何たるかを知らないが、彼らの忍者という存在への誇りを見るにそれ相応の実力があるのだろう。その彼らが自信をもって言っているのだ。美鈴という商家の娘が脱出するのはまず無理だろう。
「ではあるが、やはり大奥内部にいない以上、外に出たと考えるのが妥当だろう。我らが大奥の中を探索すれば何か見つかるかもしれないが、御広敷の役人といえどこれ以上内部に侵入する訳にもいかぬ。そこで文蔵殿には江戸市中を探索して欲しいのだ」
「ああ、そういうことか」
これで何故文蔵が呼ばれたのか合点がいった。要は、隠密裏に城の外を探索できる者が必要だったのだ。その点、町奉行所の同心である文蔵はうってつけの人材だ。しかも身内に御広敷の役人がいるため内々に事を運びやすい。
もっとも、文蔵を普通の町方同心と同じ様に考えるのが正しいかどうかは別であるが、そこまで彼らは考えておるまい。
「分かった。ちょうど非番なので探してみよう。あまり大っぴらにしないと言う事でいいな」
「その通りだ。話しが早くて助かる」
「だが、もしも武家地にその美鈴という娘がいた場合、俺は探す事が出来ないぞ。管轄外だからな」
町奉行所は武家地や寺社領には手を出す事が出来ない。もしもそれらの地域で文蔵が捜索をした事が分かった場合、大問題になるだろう。それでは隠密裏の捜索どころではない。寺社領では様々な見世物の興行が行われているので、蝮の善衛門に頼めば上手くやってくれるだろうが、武家地はそうはいかないだろう。文蔵は一応侍の端くれであるが、一番苦手なのが武家社会での振る舞いなのだ。
「それは問題ない。他にも伝手があるので、それらについては別の者に頼んでいる。だが残念ながら我らは町人達との接触が無くてな。美鈴は商家の娘なのでそちらの方面での操作が必要なので、難渋していたのだ」
「ほう?」
これは文蔵には少し意外だった。忍者と言うからには、武家社会意外にも町人や裏の社会に紛れ込んで活動していると思っていたのだ。それが全く接点が無いとは、普通の武士と変わらないではないか。
実のところ、伊賀衆や甲賀衆といった幕府に仕える忍者達は、忍者としての任務を与えられずに普通の武士と変わらない生活をしていた。今文蔵と話している伊賀崎の様に忍者としての修業を重ねて来た者もいるのだが、そうであっても忍者としての仕事が与えられるわけではない。この御広敷の職務も、雑用が主であって大奥の警備と言うのは従である。
文蔵はこの後美鈴の実家の場所や、事件に関係がありそうな様々な事柄について伊賀崎から教えられた。役に立てるかはいまいち自信は無いが、弟を介しての頼みである。出来る限りの事をしようと思った。
早速調査に行くために御広敷を後にしようとした時、数人の侍が入って来て幾つもの長持や葛籠を運び込み、御広敷の役人達が備え付けてあった大天秤で計り始めた。
「あれは?」
「ああ、あれは長持改めといいまして、大奥に運び込む物はああやって先ず重さを計るのですよ。そして、十貫を超えるものは中身を確認するのです」
「へえ、色々面倒だな。それじゃあ調べて来る。とりあえず今日の調査結果は家の方に伝えに行くから」
文蔵は御広敷を後にし、善三達と協力するため一先ず両国に向かう事にした。
「うむ。近頃の文蔵殿の活躍は目覚ましいと聞いている。つい先日も象を操って上様の命を狙う曲者を退治したそうではないか。獣を操る忍術は伊賀流でも失われて久しい技。拙者としては今回の一件が解決したならば、その功と文蔵殿の実力をもって伊賀衆に引き入れたいと思っておる」
「ほう……ん? ま、まあその事は置いておいて、用件を聞かせてくれ」
これまで遭遇した忍者達と違い、無用な敵意を向けてこないのはありがたい。しかし話が余計な方向に進みそうになったことを察した文蔵は、本題に入る事を促した。文蔵は忍者業界と関わる気は一切ないのである。まさか弟の職場に忍者がいるとは予想外であったのだが。
「そうさな。では武蔵殿を通じて呼んだ用件に入るとしよう。実は、大奥で一人の中臈候補が行方不明になったのだ」
「行方不明?」
伊賀崎の言う事には次の通りであった。
俗に大奥三千人の美女などと呼ばれ、将軍はその美女達と好きなように関係を持つことが出来ると思われているが、実のところそうではない。将軍の正室以外で夜伽をする相手は中臈に限られている。
中臈に選ばれるには幾つか方法がある。大奥を取り仕切る御年寄がこれはと思った女を推薦したり、将軍が大奥で見かけて気に入った女の名前を尋ねるなどだ。こうして推薦されたり将軍に見初められたりした者が中臈になり、将軍の夜の供をする事になるのだ。
行方不明になったという女も、つい先日将軍に見初められ、中臈になる準備をしていた最中であったという。
その女は美鈴といい、商家から大奥に出仕していたのだ。実家の商家は零細ではないがそれ程大きいわけでもなく、付き合いのある旗本の身元保証で大奥に入っていた。年季奉公であり、あと半年もすれば実家に戻って結婚相手を探す予定であった。武家への奉公は花嫁修業として町人の娘にはよくある事だ。特に大奥勤めともなれば箔がつく。実家としては少しでも格の高い商家の跡継ぎと結婚させようとの思惑があったに違いない。
そうなると将軍の側室になる事は予定外であるが、それは嬉しい意味での予定外だ。美鈴が中臈になる事を伝えに言ったところ、両親は大喜びだったという。
「どうやって姿を消したかはともかく、その美鈴という娘は中臈になる事を嫌がっていたのでは? 例えば許婚が居たとか」
「それは無いと思う。御年寄の滝川様に聞いたところ、美鈴は大層喜んでいたようだ」
「そうか」
「加えて言えば、以前故郷に許婚がいる娘が上様から中臈にと所望された事があってな。その時はその事を理由に断ったところ貞女の鑑であると上様はお褒めになったのだ。その前例がある以上、本人が嫌がっていれば断るのは可能だろう。だが、その美鈴は急に姿を消したのだ」
美鈴の姿が見えない事に周りの者が気付いたのは、昨日の午前中である。起床の際にはいたらしいのだが、いつの間にか行方知れずになっていたのだ。
「大奥については詳しくないのだが、この様な事は良くあるのか?」
「まさか、前代未聞の事だ」
「それでは大奥から脱出する経路や、逆に侵入する経路は?」
「それも難しい。我等御広敷の伊賀衆は、単なる雑用係ではないからな」
文蔵は忍者の何たるかを知らないが、彼らの忍者という存在への誇りを見るにそれ相応の実力があるのだろう。その彼らが自信をもって言っているのだ。美鈴という商家の娘が脱出するのはまず無理だろう。
「ではあるが、やはり大奥内部にいない以上、外に出たと考えるのが妥当だろう。我らが大奥の中を探索すれば何か見つかるかもしれないが、御広敷の役人といえどこれ以上内部に侵入する訳にもいかぬ。そこで文蔵殿には江戸市中を探索して欲しいのだ」
「ああ、そういうことか」
これで何故文蔵が呼ばれたのか合点がいった。要は、隠密裏に城の外を探索できる者が必要だったのだ。その点、町奉行所の同心である文蔵はうってつけの人材だ。しかも身内に御広敷の役人がいるため内々に事を運びやすい。
もっとも、文蔵を普通の町方同心と同じ様に考えるのが正しいかどうかは別であるが、そこまで彼らは考えておるまい。
「分かった。ちょうど非番なので探してみよう。あまり大っぴらにしないと言う事でいいな」
「その通りだ。話しが早くて助かる」
「だが、もしも武家地にその美鈴という娘がいた場合、俺は探す事が出来ないぞ。管轄外だからな」
町奉行所は武家地や寺社領には手を出す事が出来ない。もしもそれらの地域で文蔵が捜索をした事が分かった場合、大問題になるだろう。それでは隠密裏の捜索どころではない。寺社領では様々な見世物の興行が行われているので、蝮の善衛門に頼めば上手くやってくれるだろうが、武家地はそうはいかないだろう。文蔵は一応侍の端くれであるが、一番苦手なのが武家社会での振る舞いなのだ。
「それは問題ない。他にも伝手があるので、それらについては別の者に頼んでいる。だが残念ながら我らは町人達との接触が無くてな。美鈴は商家の娘なのでそちらの方面での操作が必要なので、難渋していたのだ」
「ほう?」
これは文蔵には少し意外だった。忍者と言うからには、武家社会意外にも町人や裏の社会に紛れ込んで活動していると思っていたのだ。それが全く接点が無いとは、普通の武士と変わらないではないか。
実のところ、伊賀衆や甲賀衆といった幕府に仕える忍者達は、忍者としての任務を与えられずに普通の武士と変わらない生活をしていた。今文蔵と話している伊賀崎の様に忍者としての修業を重ねて来た者もいるのだが、そうであっても忍者としての仕事が与えられるわけではない。この御広敷の職務も、雑用が主であって大奥の警備と言うのは従である。
文蔵はこの後美鈴の実家の場所や、事件に関係がありそうな様々な事柄について伊賀崎から教えられた。役に立てるかはいまいち自信は無いが、弟を介しての頼みである。出来る限りの事をしようと思った。
早速調査に行くために御広敷を後にしようとした時、数人の侍が入って来て幾つもの長持や葛籠を運び込み、御広敷の役人達が備え付けてあった大天秤で計り始めた。
「あれは?」
「ああ、あれは長持改めといいまして、大奥に運び込む物はああやって先ず重さを計るのですよ。そして、十貫を超えるものは中身を確認するのです」
「へえ、色々面倒だな。それじゃあ調べて来る。とりあえず今日の調査結果は家の方に伝えに行くから」
文蔵は御広敷を後にし、善三達と協力するため一先ず両国に向かう事にした。
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