忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛

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第三章「田沼の計らい」

第六話「西の丸小姓 田沼」

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「同輩に確認してきたが、ここ最近大奥から家重様に送られた進物はないそうだ。何かの間違いではないか?」

「いえ、それが確かに家重様を宛先にしているのですよ」

 文蔵はまだまだ元服したてにしか見えない少年と座敷で向かい合い、書付を前に話し合っていた。

 場所は江戸城西の丸の応接の間、話し相手の少年は、次期将軍たる徳川家重の小姓、田沼意次である。

「そもそも、その大奥の話、真なのか? 拙者とて城勤めだが、聞いた事がないぞ」

「内々の話なので、こちらには漏れていないのでしょう。田沼様も他言は無用に願います」

「お主には世話になったからな。気を付けるとしよう」

 先日町入能の際、田沼が仕える家重は刺客に襲われて命を落としそうになった。その時刺客を制圧する活躍をしたのが文蔵とその仲間なのである。

 文蔵が、というよりも文蔵達が連れて来た象が一番活躍したのが実際であるが、文蔵が家重の命を救う活躍をした事には間違いが無い。忠誠心溢れる田沼は文蔵に感謝の念を抱いているのである。

 そうでなければ、単なる町奉行所同心に過ぎない文蔵が、次期将軍の小姓という幹部候補の田沼に対して、急な面会を申し出てもそれは叶わなかったであろう。

 文蔵が田沼と会っているのには理由がある。美鈴という娘が大奥から失踪した日、幾つかの荷物が大奥内から運び出されたのであるが、その中でも一際大きな葛籠は将軍世子たる家重を宛先にしていたのである。その時に御広敷で取次ぎをしていた役人によると、人が入れそうな荷物はこれだけだったという事だ。

 大奥に入る荷物は十貫以上の重量の場合中身を点検されるのだが、外に出る荷物はそうではない。ならば、この家重宛ての荷物に美鈴が入り込み、外に出た可能性があるのだ。

 だが、田沼によるとその様な荷物は届いていないのだという。

「こちらにはその様な荷物は届いていないが、これは実に怪しいのではないか?」

「田沼様もそう思われるか」

 存在したはずの荷物が送り先に届いていない。しかもこれは江戸城内での出来事なのだ。江戸市中や、遠く離れた別の藩に送ったのではない。この短距離で消える事自体が妙である。

 これは怪しい。

「しかし疑問もある。ここまであからさまな事をしては、すぐに不審に思われてしまうだろう」

 文蔵の疑問はもっともである。現にこうして現状を知った文蔵と田沼は、即座に訝しんだのだ。

「いや、そうともいえない。誰が誰に進物を送ったかなど、普通は調べたりはしない。江戸城内では様々な権謀術数が渦巻いている。下手に首を突っ込むと命取りになり兼ねないからな」

「ああ、なるほど。それは大変ですね」

 他人事の様に言っているが、文蔵もその醜く危険な陰謀劇に足を踏み入れてしまっているのだが、本人にはその自覚が欠けている。

「ふふ、流石服部殿は見事な心掛けであるな。伏魔殿を恐れぬか」

 文蔵の態度を田沼は勘違いしたようだ。文蔵は政争の様な目に見えない危険に疎いので、恐れを抱きようがないのだが、日頃主が将軍後継者問題に巻き込まれている田沼は色々と深読みしてしまったようだ。文蔵の事を陰謀劇に負けぬ豪胆な精神の持ち主だと勘違いしている。

「ん? どうでも良いが、家重様の元に届いていないのなら、一体どうなったと思う?」

「そうだな。送り元に聞き取るのが良いのではないか? そもそも家重様に送ったと言っているのは、大奥の誰なのだ?」

「御年寄の滝川様の名で送られたらしい。それで、西の丸の入り口近くで、西の丸勤めの丸橋という侍が受け取ったそうだ」

「誰だそれは。丸橋などという者は、西の丸に勤めている者の中におらぬぞ」

「お、おう。本当か?」

 田沼が即座に大奥側の証言を否定した。あまりにも早い否定だったので、文蔵は思わず聞き返してしまった。

「間違いない。士分の中には間違いなくおらぬし、中間どもにもおらぬぞ。少なくとも、拙者が小姓として西の丸に来てからはその様な者は勤めていないな」

 どうやら田沼は西の丸に勤める者の全てを頭に叩き込んでいる様だ。才気煥発な雰囲気の少年だと思っていたのだが、予想以上である。

「すると、その丸橋なる人物、これは怪しいな。可能性としては家重様に送られるはずの進物の葛籠に美鈴が入り込んでおり、丸橋が受け取って何処かに連れて行ったのかもしれん」

「しかし、これは状況的に幾つか分けられそうですね。その丸橋という男は単なる詐欺師であり、進物を騙しとったところ偶然その中に美鈴なる娘が紛れ込んでいたのか、それとも最初から共謀していたのか」

「確かに、そもそも大奥を脱出するのが、美鈴の意思なのか、誰か協力者がいるのか、それとも強引に外に追い出されたのかも分らぬな」

 美鈴は中臈になる事を喜んでいたというが、もしかしたら表面上だけの事であり、実際の心底は分からない。そして、場合によっては将軍の側室になる事を快く思わぬ同僚がいて、嫉妬心などから強制的に大奥から放逐した可能性すらある。場合によっては死体として運び出された可能性すら文蔵は想定している。

「ところでお聞きしたいが、大奥と家重様との贈答はどれ位の頻度で行っているのだろう。それによって、今回の件が偶発的なのか計画的なのかを推察出来るのだが」

 もしも贈答の頻度が高いようであれば、進物に紛れるという手段を偶然思いついた可能性が高くなる。逆に頻度が低いようであれば、実は計画的に準備していた可能性が出てくる。

 大奥の実力者である御年寄が、次期将軍に対して贈る品である。御広敷の役人もこの様な荷物に対しては多少検査が甘くなる。いくら外に運び出される荷物を厳しく点検する規則が無かったとしても、人一人が入るくらいの葛籠である。もっと低い身分同士の贈答であれば、怪しんだ誰かが軽易に点検したかもしれない。

「はて、どうであろう。そもそも拙者、その様な賂のやり取りなど興味が無いのでな」

 この田沼の返答には文蔵は二重の意味で驚いた。田沼は家重の小姓である。ならば家重に贈られる進物についてはある程度掌握する必要がある。専門の進物係がいるのかもしれないが、ある程度どこの誰と贈答を交わしたのか知っておかねば、田沼ばかりか主君の家重が恥をかきかねないのだ。主君が誰かと会う際、その人物とは以前どこで会ったか、文のやり取りをしたか、どれだけの進物を送って来たかを事前にこっそりと教えるのが側近の重要な勤めなのである。

 また、進物をその内容を問わず全て賄賂だと断じているのはこのご時世珍しい事である。時節の挨拶と、それに伴う多少の進物は武家でも町家でも普通の儀礼の様なものである。もちろん通常の儀礼を遥かに超える豪華な品を送り、その見返りに何かを要求するのは問題であるが、常識の範囲内なら頼み事をするのに何も贈らないというのは逆に失礼である。

 少年らしく潔癖なのは構わないが、これではこの先幕府の中枢で生きていくのは難しいのではないかと文蔵は心配になった。

「田沼殿? 贈り物を全て賂と断ずるのは少し違うのではないか?」

「何がだ? 金品のやり取りで他者を判断したり、付き合い方を変えるなど、武士としてあるまじき事だろう。まさか商人どもではあるまいし」

 どうやら田沼は金という存在自体を汚らわしいと思っている様だ。

「上様も米の増産を重視しているし、奢侈を禁じて質素倹約を推奨しているではないか。進物などに金をかけるのは無駄と言ってもよいではないか?」

「いやいや田沼殿、上様は米を重視しているが、その価格の安定にも気を配っていると聞いている。これは、金の重要性も分かっているからではないか? ならば今の上様の跡を継がれる家重様も、その様な政策を引き継ぐであろう。ならばその側近として家重様を支える田沼殿が金に対する理解をしないでどうするのだ」

「むう……」

 文蔵は武士としての教育を受けていないので、当然の事ながら政治に関する知識は無い。上様がどうのと賢しらに言っているが、適当に言っているだけだ。ただ、武士としての教育を受けていないため金に対する忌避感は全く無い。

「それに贈り物にはそれに使った金の多寡という価値も有るかもしれないが、それ以上にどれだけ心が籠っているかという視点もあるだろう。田沼殿とて、端午の節句や元服の折に父上や親族から祝いの品を贈られた時は、嬉しかったであろう。ならばその様な親しい間柄以外での贈答品にも真心を込めれば良いではないか。高価な品であるかどうかは二の次だろう」

「確かにそうかもしれぬな」

 この様な事を正面から言われた事は無いのだろう。田沼は文蔵の言葉に納得している様子だ。

「加えて言えば、確かに余りに高価な品を贈って役職を買ったりすることはどうかと思うが、その金の出所が不正でなければある程度は構わないのではないかな? 誰もが金が無くて困っている世だ。その中で他者に贈るだけの金を稼ぎ出す能力は貴重とも言えるだろう。それに、金を払ってでも責任のある地位に就きたいと言う事はそれだけやる気があるのかもしれないしな」

「なるほど、それは一理あるかもしれません。その様な視点で物事を考えた事は有りませんでした」

 田沼家は今でこそ旗本の身分であるが、意次の父は紀州藩の足軽の生まれにすぎない。偶々部屋住みであった吉宗に仕えていたところ、吉宗が運命の悪戯か将軍にまで成り上がってしまったため、信頼のおける者として引き立てられたのだ。そのため、まだ足軽時代の武士は槍一筋の意識が抜けておらず、まだ若く世間ずれしていない意次は金の重要性や大人の付き合い方を知らなかったのである。

 そこに庶民の意識が残る文蔵が違う視点の意見を述べたのだ。これは大きな衝撃であっただろう。

「ありがとうございました。拙者目が覚めました。これからは金に偏見を持たずお勤めに励もうと思います」

「いやいや、あまり真に受けないでください。言った事が正しいかどうかなど分からないのですから」

「謙遜めされるな。いちいちごもっともでしたぞ」

 田沼はいたく文蔵の言葉に感銘を受けた様だ。これが若さというものだろう。

 少し影響を受け過ぎではないかと文蔵は気になったが、今は田沼どころではない。美鈴の行方を探すのが重要である。文蔵はまた何か聞きに来るかもしれないのでその時は協力してくれる事を頼み、西の丸を後にした。
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