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第六章 誤解が解け…かけ
1 晴斗の両親
しおりを挟む金曜日の朝、とある病院内の談話室で、1組の夫婦が携帯電話を握りしめている。
1人は車椅子で、もう1人は松葉杖なのだが、今は杖を傍において、車椅子近くの木の椅子に座っている。
2人とも顔を寄せ合って、携帯の画面を覗き込もうとしていた。
「晴斗、晴斗!あぁ、動いてる晴斗。元気そうだなぁ。」
祐樹はただつかまり立ちしているだけの晴斗の姿に感動している。
嬉しそうな祐樹を見て、愛子さんも喜んでいる。
2人はしばらく、そうやって晴斗が動き回っている様子を、笑ったり、からかったりしながら、楽しんでいた。
少し経って、だいぶ落ち着いてくると、
「将生、ありがとうな。こんな元気に育ててくれて!」
晴斗を映し続けてくれている将生に、祐樹が声をかける。
「兄さんが元気になって来てくれて、こちらこそ嬉しいよ。それに、晴斗は僕だけで育てているわけじゃないから…。むしろベビーシッターの…。」
「あ、『まみさん』だっけ?」
愛子さんが将生が言う前に、名前を言い当てる。
「えっ、あっ、そう。まみさん。よく覚えてるね。彼女こそ、晴斗を24時間見てくれているんだよ。」
将生がそう言うと、愛子さんが祐樹の腕を肘でつついて
「ほら、この前話した…。」
「あぁ、『可愛子ちゃん』か…。」
と、将生にはよく聞こえない声でやりとりする。
「将生、そのベビーシッターさんに、俺たちから御礼を伝えたいんだけど。」
祐樹が、夫婦を代表して、将生にお願いする。愛子さんも隣で大きく頷いていた。
「えっ…。」
もともとは、愛子さんが嫌がるだろうから、という理由で自室にて電話をかけていたのだが、今はそれを建前にして、自室に引きこもらせてもらっている。
というのも、水曜の朝に勘違い発言をしてから、勝手に恥ずかしがって、気まずい思いをしているのだ。
せっかく愛子さんが許可を出してくれているのに、将生としては、なんとなくまみを気軽には呼べない。
「直接!御礼を申し上げたいんだが!」
戸惑っている将生に、祐樹が、もう一度言い直す。
本心としては、将生の想い人かもしれない『まみさん』を、直に見てみたいだけだ。
「えっと…朝は忙しいし…。まみさんに都合を聞いて、また時間を改めて…。」
将生が何となくまみを会わせることを渋っているように感じた祐樹は、理詰めで説き出す。
「そうやって、なんでも後回しにするの、将生の良くないところだぞ。『まみさん』だって、晴斗の両親に挨拶しておいた方が安心だろ。そんな時間もかからないって。一言でいいんだよ、一言御礼言えたら良いんだから。」
祐樹が言い出したことを、将生がひっくり返すことができたことなど、生まれてこのかたあっただろうか。
将生は今までに培ってきた『兄に反論しても無駄』という習性から、
「…わかったよ。ちょっと待ってて。」
と言いおくと、晴斗が映るようにまた本を使って携帯を立てかけ、まみのいるリビングの方へ向かった。
「まみさん…。」
この前の勘違い騒動後、初めて呼びかけるので、心なしか怯えたような声を出してしまった気がする。
「はい?」
いつもならゆっくり電話をしている時間帯なのに、将生が自室から出て来たことに驚きながら、まみが返事をする。
「…その…晴斗の家族が、ベビーシッターしてくれてるまみさんに御礼を言いたいって言っていて。少し、電話に出てもらっても良いかな?」
将生の言葉に、なぜかまみが一瞬固まった。
それから、あからさまに落ち着かない様子で手を小さく開いたり閉じたりしてから、泣きそうな顔に変わっていく。
「…えっ、いえ、あの…伊藤家の大事な電話の時間に、私なんかが…。」
まみの顔色が一気に青くなっていくのを見て、将生は、
(晴斗の家族に紹介されるの、そんなに緊張するものかなぁ…)
と不思議に思う。
「…一言だけ、御礼を言えたら良いらしいんだけど…。」
そんなに緊張するなら、別に断ってもらっても良いかな、と思ったが、祐樹に『挨拶したい』と『お願い』されているので、それを叶えない未来は弟の立場としては無いような気がする。
それでも、あまりに挙動不審になっているまみを見ていると、『やっぱりまみを困らせるのは嫌だな』という気持ちが湧いて来た。
「あっ、でも、突然のことだし、朝は忙しいよね。また次の機会にしてもらおっか。」
将生がまみの気持ちを慮って、そう言ってみる。
それを聞いたまみが悲しそうな顔をしながら将生の顔を見た。
「………。」
何か言いたいのか、口を一度開けたが、また閉じて、今度は唇を噛んだ。
少し困惑した将生の顔に、まみは何を言おうとしたのかわからなくなる。
(奥さんが、私に挨拶したいってこと…?)
それじたい、いつかは起こりうることだと思っていた。
でも、それは今日じゃない、今じゃない、と油断していたのだろうか。
いや、何の覚悟も出来てなかっただけだ。
好きな人の奥さんに、どんな顔をして挨拶したら良いのだろう。
(とにかく落ち着こう。)
まみは目を軽く瞑って、無意識に握り締めていた右手を胸にあてたまま、大きく息を吸って、ふぅぅぅ~…と、長く吐く。
少しだけ回るようになった頭で考える。
(挨拶しただけで、自分の伊藤さんへの気持ちが知られるわけがない。何をそんなに恐れることがある?)
もうすでに、諦めると決めた恋だ。
誰にも伝えたことがないのだから、誰にも知られずに無くしてしまえばいい。
将生の奥さんを見ることで、その行為が進むなら、それこそ挨拶すべきではないか。
まみは顔を上げると、キッと将生を睨む勢いで告げる。
「…わかりました。ご挨拶させていただきます。」
まみの気迫充分の表情に、今度は将生がひるむ。
「…いや、そんな無理しなくても…。」
将生がまみを宥めようとする。
「いえっ!今なら行けます。」
むしろ、決心が鈍る前に済ませてしまいたいくらいだ。
「…まぁ、僕としても大事な家族なので、挨拶してもらえるのはありがたいですが…。」
将生が頭を掻きながらそう言ったのだが、まみは『大事な家族』という単語に心を乱される。
(そうだよね…。伊藤さんにとって、大事な人って奥さんと晴斗くん以外にいないもんね…。)
将生の言葉にいちいち傷付く自分も煩わしい。そんな毎日から抜け出したい。
まみは両手に力を入れて、ぎゅっと握ってから将生の部屋の方を見る。覚悟は決まった!
「さぁ、行きましょう!」
まみは、少しおろおろしている将生を追い越し、先に将生の部屋へ入る。
将生はすぐにまみの後ろをついてくる。
晴斗が、まみを見つけると嬉しそうにハイハイして近寄ってきた。
しかし、まみはそんな晴斗を抱き上げると、くるっと後ろを向いて、将生に抱っこさせる。
まみの危機迫る表情を、晴斗は少しも和ませることができなかった。
まみはその表情のまま、真剣に携帯を探し、そしてすぐに探し出すと、そのカメラに向かって正対した。
写っているかどうかよくわからないけれど、まずはぺこーっと深く頭を下げる。
(45度は最敬礼で、天皇家に対してのみゆるされるんだっけ?ん?それって軍人だけじゃなくて一般人も?)
どうでも良い知識が頭をよぎる。
「矢野まみと申しますっ!晴斗くんのベビーシッターさせていただいてますっ!よろしくお願いいたしますっっ!」
室内では怒られるレベルの大声だった。将生も後ろでビックリしている。晴斗の目も、驚きからか少し大きくなっている。
まみは、ガバッと体を起こして、くるっと向きを変えると、さっそく将生の部屋から退場しようとする。
「…いやいやいや、ちょっと待って!」
将生が出て行こうとするまみの腕を掴む。まみは後ろに引っ張られてバランスを崩しながら立ち止まると、困惑した顔で将生を見上げる。
「…えっと…何か足りなかったですか…?」
まみの言葉に将生は首を振りながら
「まみさんの挨拶は充分でしたよ。あとは、御礼を伝えてない、むこうの話も聞いてあげてください。」
と答える。
(ああそっか。大事なこと忘れてると思ったら、私まだ奥さんのお顔拝見してないや。これじゃあ、気持ち吹っ切れないもんね。)
まみが『そうだった。』という顔をしたので、将生はまみから手を離す。
そして、携帯の方へ向かい、携帯をもち上げると、まず晴斗を抱え直す。
そして…
奥さんが写っているディスプレイがまみの方へ向くように持ち替えた。
その瞬間、まみは本能的に『見たくない』という気持ちと、『見なきゃダメ!』という気持ちがせめぎ合い、薄目になってしまう。
が、最終的には『見なきゃダメ!』の気持ちが勝つ。
目をしっかり開けて、ディスプレイを見ようとする。
(短かったな、私の恋 in ジャカルタ…)
そう思って携帯の画面に目をこらすと…。
そこには怪我をした男の人が写っていた。
(…だれ?この男の人?)
まみは不思議そうな顔をして、その男の人を見る。そして、将生にその質問をぶつけようとしたその時、
「はじめまして、将生の兄の祐樹です。」
と、男の人が挨拶した。
「………。」
まみは一応お辞儀はするが、何も答えられずにいると、
「晴斗を育ててくれてありがとうございます。」
画面の中で、『将生の兄』という人が頭を下げた。
(何でこの人に御礼を言われるんだろう?)
まみがまたしても、理解不能なまま、黙っていると、
「はじめまして、まみさん。晴斗の母の愛子です。」
将生の兄の横から、女の人がひょこっと出てきて自己紹介をする。
「あ…はい。こちらこそ…。」
予想していたとおり、『愛子さん』は大人な雰囲気の綺麗な人だった。
そのことにズキリ。
と心が鈍い痛みを感じる。
そして、まみがそんな思いをしているとは知らない祐樹が、話を続ける。
「将生から聞きました。まみさんが晴斗を24時間育ててくれているって。そのことに、僕たち夫婦は、とても感謝しているんです。」
(『僕たち』夫婦…?)
まみはその単語に引っかかる。
画面の中の2人は、お互いに顔を見合わせてから、またまみの方を向くと、
「「ありがとうございます。」」
と声を合わせて、頭を下げた。
(…………。)
(…………。)
(…………っっ!)
(ええええええっ!?)
まみは驚きのあまり頭が真っ白になった。
めちゃくちゃ驚いた顔をして、右手を口に当てながら、口をパクパクさせる。
何か言いたくても出てこなくて、必死に頭の中を整理する。
一方、祐樹と愛子の御礼の挨拶の後、すぐに、晴斗が手を伸ばして携帯をいじり出したので、将生はそれを真剣に阻止していた。
「ちょっ…ダメだって…。晴斗触ると壊れるから…。」
片手で晴斗を抱き抱えながら、もう片方で携帯を守ろうとするのは、思いの外難しく
「…じゃあ兄さん、また連絡します。」
と一方的に電話を切ると、携帯を高い棚の上に置き、晴斗を床に下ろす。
まだ遊びたい晴斗はご機嫌斜めだ。将生の足に縋り付いている。
「晴斗に携帯はまだ早いよ…。じゃあ別のオモチャ取りに行こうか。」
将生は晴斗をまた抱っこすると、晴斗の部屋へ移動した。
将生は晴斗に手一杯で、まみが将生の部屋に残っていることも、彼女の様子も、全く気にしていなかった。
まみは、しばらく『新たな真実』を受け止めきれずに突っ立っていた。
(えっ…待って待って…。晴斗くんは、あの2人の子どもで…。あの2人は夫婦ってことで…。晴斗くんは伊藤さんの子どもじゃないってこと…?)
まみは、混乱する頭の中で、先程の会話から見えてきた真実をまとめ出す。
(ううん、それも大事だけど、そうじゃなくて、そうじゃなくて…)
まみは軽く頭を振る。
(もっと大事なこと…)
顔をパッと上げながらまみは小さく声に出す。
「…愛子さんは…伊藤さんの奥さんじゃ…ない…?」
自分で言っていて、それが本当のことなのか、実感が湧かない。
でも、先程の話からはそうとしか思えない。
そして、もしもそれが本当のことならば…。
「私は…好きなままで…いても良いの…?」
それが許される可能性があるということが、まみの胸を熱くする。
そして、それはそのまままみの顔に現れた。
自分でもわかるくらい、首から上に向かってそれはそれは熱い熱量が上がってきた。
鏡を見なくてもわかる。
今のまみの顔は真っ赤だろう。
両手で顔を覆ってみたが、冷める気配はない。
抑えようもないくらい、次から次へと嬉しい気持ちが湧き上がってくる。
どうしようもない気持ちから、自然と体が動き、足踏みをしてしまう。
ドタドタドタドタ……
それでも、嬉しい気持ちは湧き上がってくる。
「…はぁっっ…」
顔を上げて天井を仰ぎ見ると、自然と笑みが浮かんできた。
恋が実ったわけでもなく、ただ『好きでいても良いのかもしれない』という可能性が示されただけなのに。
それでも、まみは嬉しかった。
諦めかけていた『恋 in ジャカルタ』が、息を吹き返したのだった。
応援ありがとうございます!
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