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第六章 つないだ手を離さない
35. 一陣の風
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仕立て屋のショーウインドウには、夜会用とおぼしき男物のジャケットが飾ってあった。見る角度によって布地の色が変わる。特殊な素材を使っているようだ。
「こちらをご所望ですか?」
店のドアが開いて、中から女性スタッフが現れた。俺は首を横に振った。
「地味で目立たない色味の礼服を作りたいんだ」
「どちらに着ていくご予定ですか?」
「……宮中。王妃様のサロンだ」
女性スタッフが目を丸くした。
「お客様のその制服、王立音楽学院のものですよね? すごいわ。楽士様なのね」「いや、俺よりももっとすごい人はいっぱいいるよ。たまたま今回、俺にお声がかかったんだ」
期日が二週間後に迫っていると伝えると、女性スタッフが腕まくりをした。
「店内にどうぞ。早速採寸を始めましょう!」
俺は女性スタッフの言葉に従った。
「お客様は肩幅がしっかりしておられるので、礼服が映えますわ」
「そうかな」
「ジャケットのお色はこちらなどいかが?」
女性スタッフが群青色の布地を指差した。黒ほど威圧感がなくて、相手にきちんとした印象を与える色だ。
「では、こちらで頼む」
「クラヴァットは白いレースで決まりね。ネイクの小説みたいで素敵でしょう?」
ネイクとは、現在わがコクウォル王国の紙価を高めているベストセラー作家の名前である。覆面作家のため、正体は明らかになっていない。ネイクが書く波瀾万丈の恋物語に多くの人々が夢中になっている。
「隣国ダルツでもネイクの作品が出版されて、売れに売れているそうですよ」
「すごいな」
「『百年の恋歌』、お読みになりました?」
「うん。徹夜をしてしまったよ」
「そうなんですか? 私もなんですよ!」
女性スタッフが歌うように言った。
「ああ。ネイクってどういう人なのかしら。あれだけ人間の心の機微に詳しいんですもの。数々の浮き名を流してきた、洒落者なんじゃないかしら? お客様はどう思われます?」
「そうだなあ。確かにネイクの心理描写は卓越してるけど、根っこにすごくピュアなものを感じる。意外と奥手な紳士かも」
「なるほど。その可能性もありますわね」
ネイクの話をしつつも、女性スタッフはテキパキと手を動かした。採寸が終わり、デザインの詳細も決まった。
「本当に刺繍は無しでいいんですの?」
「いいんだ。俺はあくまで脇役だから」
「お客様は寡欲ですね。サロンを足がかりに、宮中で存在感を発揮したいと願っている殿方は多いというのに」
「俺はただの音楽家だよ」
女性スタッフは早速、作業に取り掛かると言って、店の奥に引っ込んだ。
俺は仕立て屋を出た。
◆◆◆
仕立て屋からの帰り道、書店の前を通り過ぎようとした時、怒声が聞こえた。
「おい。その本、俺に譲れ」
「嫌だね。ネイクのサイン本を逃す馬鹿がいるかよ」
「なんだと。俺のことを馬鹿と言ったな!」
若い男がふたり、店頭で睨み合っている。
頬に傷がある傭兵らしき男が、本を小脇に抱えている優男に頭を下げた。
「頼む! 女房がネイクの大ファンなんだ」
「だから? 俺には関係がない」
優男が書店から離れようとすると、頬傷の男が激昂した。
「この野郎! 俺の頼みが聞けないってのか!」
頬傷の男が、優男の薄い肩を強引に掴んだ。優男の甘いマスクが歪む。
近くに居合わせた女性が悲鳴を上げた。
「きゃあっ! ど、泥棒!」
「人聞きの悪いことを言うんじゃねぇよ。この本はな、俺の女房の手に渡った方が幸せになれるんだよ」
「何を勝手なことを……!」
優男が激怒する。
このまま殴り合いの喧嘩が始まってしまうのだろうか。嫌だ。怖くてたまらない。
俺は足がすくんでしまった。この場から逃げたいのに、体を動かすことができない。
頬傷の男が拳を振り上げた。
ダメだ……! 終わりだ。
そう思った瞬間、一陣の風が吹いたかのように長身の男が現れた。闇に溶け込むような黒いローブを着て、顔の上半分を銀色の仮面で覆っている。
「争いはよせ。私のサインが欲しければいくらでもくれてやる」
「えっ……? それって、おまえさんがネイクってことか?」
頬傷の男が口をあんぐりと開けた。
ネイクの登場を受けて、あたりが騒然となった。
当のネイクはまるで動じておらず、書店員にペンの用意をするように告げた。
「ネイクって男だったのか!? なんで女心があんなに分かるんだ」
「いや、複数の著者による共同ペンネームかもしれない」
「そもそも、本当にこの人がネイクなの?」
「そうよ。怪しいわ」
ネイクが本の見返しに流麗なサインを書き記した。
疑いの声を上げた人々が押し黙った。
「本当にネイクなんだ……!」
「ねえ。新作はまだ?」
「『百年の恋歌』、何度も読んでます!」
人だかりが増えてきた。
ネイクは群衆に向かって颯爽と手を振ると、転移石を発動させた。黒ずくめの長身が光の向こうに消えていく。
晴れてネイクのサイン本を手にした頬傷の男は、呆然としている。
女性陣がため息をついた。
「あの仮面、はぎ取ってしまえばよかった! ネイクの素顔、気になるじゃない?」
「不細工だったら幻滅しちゃうわよ」
「あごのラインや唇の形、完璧だったわ。きっとイケメンよ」
「声も素敵だったわね」
俺はざわめきの中で立ち尽くしていた。
『争いはよせ』
ネイクの声がリフレインする。
あのお腹に響いてくるような低音。アレス様の声とそっくりだった。
「こちらをご所望ですか?」
店のドアが開いて、中から女性スタッフが現れた。俺は首を横に振った。
「地味で目立たない色味の礼服を作りたいんだ」
「どちらに着ていくご予定ですか?」
「……宮中。王妃様のサロンだ」
女性スタッフが目を丸くした。
「お客様のその制服、王立音楽学院のものですよね? すごいわ。楽士様なのね」「いや、俺よりももっとすごい人はいっぱいいるよ。たまたま今回、俺にお声がかかったんだ」
期日が二週間後に迫っていると伝えると、女性スタッフが腕まくりをした。
「店内にどうぞ。早速採寸を始めましょう!」
俺は女性スタッフの言葉に従った。
「お客様は肩幅がしっかりしておられるので、礼服が映えますわ」
「そうかな」
「ジャケットのお色はこちらなどいかが?」
女性スタッフが群青色の布地を指差した。黒ほど威圧感がなくて、相手にきちんとした印象を与える色だ。
「では、こちらで頼む」
「クラヴァットは白いレースで決まりね。ネイクの小説みたいで素敵でしょう?」
ネイクとは、現在わがコクウォル王国の紙価を高めているベストセラー作家の名前である。覆面作家のため、正体は明らかになっていない。ネイクが書く波瀾万丈の恋物語に多くの人々が夢中になっている。
「隣国ダルツでもネイクの作品が出版されて、売れに売れているそうですよ」
「すごいな」
「『百年の恋歌』、お読みになりました?」
「うん。徹夜をしてしまったよ」
「そうなんですか? 私もなんですよ!」
女性スタッフが歌うように言った。
「ああ。ネイクってどういう人なのかしら。あれだけ人間の心の機微に詳しいんですもの。数々の浮き名を流してきた、洒落者なんじゃないかしら? お客様はどう思われます?」
「そうだなあ。確かにネイクの心理描写は卓越してるけど、根っこにすごくピュアなものを感じる。意外と奥手な紳士かも」
「なるほど。その可能性もありますわね」
ネイクの話をしつつも、女性スタッフはテキパキと手を動かした。採寸が終わり、デザインの詳細も決まった。
「本当に刺繍は無しでいいんですの?」
「いいんだ。俺はあくまで脇役だから」
「お客様は寡欲ですね。サロンを足がかりに、宮中で存在感を発揮したいと願っている殿方は多いというのに」
「俺はただの音楽家だよ」
女性スタッフは早速、作業に取り掛かると言って、店の奥に引っ込んだ。
俺は仕立て屋を出た。
◆◆◆
仕立て屋からの帰り道、書店の前を通り過ぎようとした時、怒声が聞こえた。
「おい。その本、俺に譲れ」
「嫌だね。ネイクのサイン本を逃す馬鹿がいるかよ」
「なんだと。俺のことを馬鹿と言ったな!」
若い男がふたり、店頭で睨み合っている。
頬に傷がある傭兵らしき男が、本を小脇に抱えている優男に頭を下げた。
「頼む! 女房がネイクの大ファンなんだ」
「だから? 俺には関係がない」
優男が書店から離れようとすると、頬傷の男が激昂した。
「この野郎! 俺の頼みが聞けないってのか!」
頬傷の男が、優男の薄い肩を強引に掴んだ。優男の甘いマスクが歪む。
近くに居合わせた女性が悲鳴を上げた。
「きゃあっ! ど、泥棒!」
「人聞きの悪いことを言うんじゃねぇよ。この本はな、俺の女房の手に渡った方が幸せになれるんだよ」
「何を勝手なことを……!」
優男が激怒する。
このまま殴り合いの喧嘩が始まってしまうのだろうか。嫌だ。怖くてたまらない。
俺は足がすくんでしまった。この場から逃げたいのに、体を動かすことができない。
頬傷の男が拳を振り上げた。
ダメだ……! 終わりだ。
そう思った瞬間、一陣の風が吹いたかのように長身の男が現れた。闇に溶け込むような黒いローブを着て、顔の上半分を銀色の仮面で覆っている。
「争いはよせ。私のサインが欲しければいくらでもくれてやる」
「えっ……? それって、おまえさんがネイクってことか?」
頬傷の男が口をあんぐりと開けた。
ネイクの登場を受けて、あたりが騒然となった。
当のネイクはまるで動じておらず、書店員にペンの用意をするように告げた。
「ネイクって男だったのか!? なんで女心があんなに分かるんだ」
「いや、複数の著者による共同ペンネームかもしれない」
「そもそも、本当にこの人がネイクなの?」
「そうよ。怪しいわ」
ネイクが本の見返しに流麗なサインを書き記した。
疑いの声を上げた人々が押し黙った。
「本当にネイクなんだ……!」
「ねえ。新作はまだ?」
「『百年の恋歌』、何度も読んでます!」
人だかりが増えてきた。
ネイクは群衆に向かって颯爽と手を振ると、転移石を発動させた。黒ずくめの長身が光の向こうに消えていく。
晴れてネイクのサイン本を手にした頬傷の男は、呆然としている。
女性陣がため息をついた。
「あの仮面、はぎ取ってしまえばよかった! ネイクの素顔、気になるじゃない?」
「不細工だったら幻滅しちゃうわよ」
「あごのラインや唇の形、完璧だったわ。きっとイケメンよ」
「声も素敵だったわね」
俺はざわめきの中で立ち尽くしていた。
『争いはよせ』
ネイクの声がリフレインする。
あのお腹に響いてくるような低音。アレス様の声とそっくりだった。
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