メイドを妊娠させた夫

杉本凪咲

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 泣きだすエルモンドを、私はただ見下ろしていた。
 メイドが何か叫んでいたが、よく聞き取れず顔を向ける。
 やっと彼女の声がはっきりとしてくる。

「奥様! いくらエルモンドさんが嫌いだとしても暴力はいけません! エルモンドさんが可哀そうです!」

「嫌い?」

 嫌いとはどういう感情だったっけ。
 もう何もかも分からない。

「いいんだ、僕は大丈夫だから」

 エルモンドは涙を拭いて、私に言った。

「僕は君に仕打ちを受けるだけの罪をおかした。ジル、もう離婚しよう。もちろん慰謝料は払う。だからどうか彼女だけは傷つけないでくれ」

「エルモンドさん……」

 メイドとエルモンドは顔を見合わせると、互いに微笑みあった。
 ズキンと心がなぜか痛み、心臓が激しく脈打った。 

「離婚……そんな……私は……」

 自分が何を言いたいのかも分からない。
 私は突如現れた波のような困惑を浴びて、咄嗟に口を開いた。

「分かりました。離婚致しましょう」

 それだけいうので精一杯だった。
 私は部屋を飛び出すと、自室へと駆けた。
 初めて走ったような感覚がしたが、足はとても重かった。

 自室に辿り着いた私は、乱暴に扉を開けて、閉めた。
 ガタンと音が鳴るも、特別うるさいとは感じなかった。
 何をすればいいのかも分からず窓辺の椅子に座った。
 窓を開けると、涼しい風が部屋に入り、私の髪を揺らす。

「エルモンド様はメイドと……妊娠……私は離婚……」

 今さっきの出来事を脳内で何度もリピートするが、落ち着くことはなかった。
 ふいにあの黒板の文字が思い浮かび、次の瞬間には消えていた。
 幸せがどうとかだったと思うが、思いだせない。

「大丈夫」

 自分に言い聞かせるように呟いた。
 エルモンドの不貞と離婚は、完全に想定外だった。
 もちろん夫婦関係に亀裂が入る懸念はあったが、それほど高い確率ではないと高を括っていた。

 しかし私の想定は間違っていた。
 事前の計算など意味をなさないほどに、現実とは残酷だ。
 私はそれを痛感したみたいだ。

 心が重い。
 体も重い。
 しかし私は生きなくてはいけない。
 死ぬなんてことは考えたくもない。
 
「大丈夫……」

 再び呟くと、自分の胸に手を当てる。
 感情が全て消えるように祈りながら、私は目を閉じた。

 ……その後、私とエルモンドの離婚はすぐに認められた。
 エルモンドと彼の両親が私たちに誠心誠意頭を下げていた。
 妊娠をしたメイドとその両親は謝罪にはこなかったが、慰謝料はキチンと支払われた。
 エルモンドが裏で手を回したことは明白だった。

 多額の慰謝料と共に、私は実家へと帰還した。
 私が結婚した時はほっとした顔をしていた両親は、私が帰ると同じ顔をしていた。
 理由が気になったが、聞かない方がいい気がした。

 久しぶりの実家は記憶にあるものと微塵も変わっていなかった。
 自室に入った私は落ち着いたのか、不覚にも昼だというのに寝てしまった。
 起きてから、これでは夜に寝られなくなると後悔する。

 エルモンドと離婚して一か月後。
 客人だと言われて、応接間に行った。
 扉を開けると、そこには幼馴染のミルエルがいた。
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